アインシュタインのエッセイ「科学と宗教」(1954)に、
「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」
という有名な文章があります。
密教では、
学問と実践、の二つの車輪があり、どちらも同じように習得するべきとしています。
学問だけでは頭でっかちの理屈屋になり、
実践だけでは錯覚や妄想につながり危険であるから。
人生の苦しみとは何か、
その解決法は何か、
を知るためには、
苦しみを感じる心とは何か、
それを感じる人間とは何か、
そもそも、宇宙の中にあるもの総て、
その存在とは何かを証明しなければなりません。
仏教のあるグループは、
モノを構成する、これ以上分割できない最小単位(極微)を想定しました。
それはモノとしても、真如としても最小の単位です。
それは余りにも小さいので眼に見えず、触ることもできない。
あらゆるものはそれからできている。
しかし、
目に見えない小さな物質がいくつ集まっても、
目に見える物質にはならないのではないか?
目に見えず、触れることもできないものが、
「存在する」ということを証明出来るのか?
これらは、科学が元素や素粒子を発見して証明している方法と似ています。
では、
そのこれ以上分割できない最小の、根本的なモノがあるとしたら、
それはどのように作られ発生したのでしょうか。
仏教は縁起の法則が前提です。総てには関係性がある。
父と母がいて僕がいる、
というような縁と条件と結果が必ずあります。
ところが、
大元のモノはそれしか無いのですから、依るべき縁が無い。
アダムとイヴによって人類が生まれたとしても、
そのアダムとイヴはどこからきたのか。
神様が創ったとか、自然に生まれた
などというのは論理的に崩壊しています。
そこで、
すべてのものは分割できない全体性を持っている、
というのが密教の考えかたです。
存在しているものの本質は初めとか終わりの概念が無い不生なものである。
だから、
存在しているという事実が真実である、と。
そう考えると、
総ては仏を内蔵し、仏の現れであると立場をとれば、
世界は仏(真如、悟り)の象徴となります。
不生なものが不生な世界をつくり、
世界の中に、それぞれの不生なものがあります。
「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」
という有名な文章があります。
密教では、
学問と実践、の二つの車輪があり、どちらも同じように習得するべきとしています。
学問だけでは頭でっかちの理屈屋になり、
実践だけでは錯覚や妄想につながり危険であるから。
人生の苦しみとは何か、
その解決法は何か、
を知るためには、
苦しみを感じる心とは何か、
それを感じる人間とは何か、
そもそも、宇宙の中にあるもの総て、
その存在とは何かを証明しなければなりません。
仏教のあるグループは、
モノを構成する、これ以上分割できない最小単位(極微)を想定しました。
それはモノとしても、真如としても最小の単位です。
それは余りにも小さいので眼に見えず、触ることもできない。
あらゆるものはそれからできている。
しかし、
目に見えない小さな物質がいくつ集まっても、
目に見える物質にはならないのではないか?
目に見えず、触れることもできないものが、
「存在する」ということを証明出来るのか?
これらは、科学が元素や素粒子を発見して証明している方法と似ています。
では、
そのこれ以上分割できない最小の、根本的なモノがあるとしたら、
それはどのように作られ発生したのでしょうか。
仏教は縁起の法則が前提です。総てには関係性がある。
父と母がいて僕がいる、
というような縁と条件と結果が必ずあります。
ところが、
大元のモノはそれしか無いのですから、依るべき縁が無い。
アダムとイヴによって人類が生まれたとしても、
そのアダムとイヴはどこからきたのか。
神様が創ったとか、自然に生まれた
などというのは論理的に崩壊しています。
そこで、
すべてのものは分割できない全体性を持っている、
というのが密教の考えかたです。
存在しているものの本質は初めとか終わりの概念が無い不生なものである。
だから、
存在しているという事実が真実である、と。
そう考えると、
総ては仏を内蔵し、仏の現れであると立場をとれば、
世界は仏(真如、悟り)の象徴となります。
不生なものが不生な世界をつくり、
世界の中に、それぞれの不生なものがあります。
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