仏教経典の中で最もポピュラーなものであろう『般若心経』は、
二百六十余りの文字数でとても短い。
法相の慈恩大師や華厳の賢首大師(共に唐時代)は、
経題の般若は『大般若経』のことであり、心は心要、としている。
つまり、
600巻に及ぶ膨大な般若経典の心要を抜き出したものが『般若心経』で、
そこには空の思想が説かれる、
と解し、それに追随している人が多いけれど、
はたしてそうだろうか。
般若心経は供養祈祷に関わらず、様々な機会に唱えられるが、
多くはそれによって得られる現世利益の効能が期待されている。
昔も今も、これを唱え写経することにより、病や貧乏が治り、災難を避けるという話は数多い。
つまり、呪文である。
『般若心経』サンスクリット原典の題名は
「Prajñā-pāramitā-hṛdaya」
般若 波羅蜜多 心
であり、経の文字は無い。
十一面観音や千手観音の儀軌を始め、密教経典では「心」を真言(呪文)の意味で使うことは多い。
十一面観音神呪経では、
十一面観音の陀羅尼を心真言としている。
だから、
原典に「経」の文字が無く、心は般若波羅蜜の真言(呪文)という意味とも考えられる。
修験道では、般若心経の最後の真言部分で九字を切って祈願する作法があり、
真言宗でも、真言部分を二十一遍唱える作法がある(阿字観、御宝号念誦など)
つまり、
呪文として使われている。
心経法(供養法、護摩法共)では、
般若菩薩を本尊として迎え、その悟りの境地に住する際、
心経陀羅尼として、ギャテイギャテイの真言を念誦する。
多くの場合、
般若心経は、その真言部分(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 )のみではなく、
経全体が真言・呪文として唱えられていると云って良い。
その直前に、
般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、
般若波羅蜜多呪
とあるのだから。
冒頭に
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
とあるが、観自在菩薩(胎蔵曼荼羅)は金剛界の金剛法菩薩である。
仏教では、
真如と現実に存在しているモノを、同じ「法(ダルマ)」という言葉で表すが、
深般若波羅蜜多を行じる、
ということは、人やモノを見て、その本質(真如)を知る、
ということである。
真実を見ることが、般若という智慧であり、
それは、最終的に、自分の心を知ること。
『秘鍵』には、
名医は雑草の中に薬草を見つけ、
名工はただの石ころの中に宝石を見出す目を備えている
と説明している。
この、般若(真実を見出す智慧)をもった菩薩の境地を目指して修行し、
もともと持っている悟りの本性を確認する
ということが、般若波羅蜜である。
だから、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
(般若波羅蜜によって、無上の悟りの境地に至る)
となる。
よって、
『般若心経』は
般若心(智慧の真言)の経
と云えるであろう。
「『般若心経秘鍵』に聞く」(松長 有慶・『密教学会報』35)には、
インドにおいて、『般若心経』は『大般若経』を摘出した空思想のエッセンスを記した経典として取り扱われていたという記述は、不思議なことに見当たらない。
『般若心経』の異常な人気は、空という思想が素晴らしいからではなくて、この経典を読んだり、書いたり、聞いたりすると、数々の現世の利益がもたらされるという民衆の熱烈な期待がその原因だといってよい。
『般若心経』を『般若経』のエッセンスを説く経とみる現在の通説が、もともと異端の説であったのである。
とあります。
二百六十余りの文字数でとても短い。
法相の慈恩大師や華厳の賢首大師(共に唐時代)は、
経題の般若は『大般若経』のことであり、心は心要、としている。
つまり、
600巻に及ぶ膨大な般若経典の心要を抜き出したものが『般若心経』で、
そこには空の思想が説かれる、
と解し、それに追随している人が多いけれど、
はたしてそうだろうか。
般若心経は供養祈祷に関わらず、様々な機会に唱えられるが、
多くはそれによって得られる現世利益の効能が期待されている。
昔も今も、これを唱え写経することにより、病や貧乏が治り、災難を避けるという話は数多い。
つまり、呪文である。
『般若心経』サンスクリット原典の題名は
「Prajñā-pāramitā-hṛdaya」
般若 波羅蜜多 心
であり、経の文字は無い。
十一面観音や千手観音の儀軌を始め、密教経典では「心」を真言(呪文)の意味で使うことは多い。
十一面観音神呪経では、
十一面観音の陀羅尼を心真言としている。
だから、
原典に「経」の文字が無く、心は般若波羅蜜の真言(呪文)という意味とも考えられる。
修験道では、般若心経の最後の真言部分で九字を切って祈願する作法があり、
真言宗でも、真言部分を二十一遍唱える作法がある(阿字観、御宝号念誦など)
つまり、
呪文として使われている。
心経法(供養法、護摩法共)では、
般若菩薩を本尊として迎え、その悟りの境地に住する際、
心経陀羅尼として、ギャテイギャテイの真言を念誦する。
多くの場合、
般若心経は、その真言部分(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 )のみではなく、
経全体が真言・呪文として唱えられていると云って良い。
その直前に、
般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、
般若波羅蜜多呪
とあるのだから。
冒頭に
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
とあるが、観自在菩薩(胎蔵曼荼羅)は金剛界の金剛法菩薩である。
仏教では、
真如と現実に存在しているモノを、同じ「法(ダルマ)」という言葉で表すが、
深般若波羅蜜多を行じる、
ということは、人やモノを見て、その本質(真如)を知る、
ということである。
真実を見ることが、般若という智慧であり、
それは、最終的に、自分の心を知ること。
『秘鍵』には、
名医は雑草の中に薬草を見つけ、
名工はただの石ころの中に宝石を見出す目を備えている
と説明している。
この、般若(真実を見出す智慧)をもった菩薩の境地を目指して修行し、
もともと持っている悟りの本性を確認する
ということが、般若波羅蜜である。
だから、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
(般若波羅蜜によって、無上の悟りの境地に至る)
となる。
よって、
『般若心経』は
般若心(智慧の真言)の経
と云えるであろう。
「『般若心経秘鍵』に聞く」(松長 有慶・『密教学会報』35)には、
インドにおいて、『般若心経』は『大般若経』を摘出した空思想のエッセンスを記した経典として取り扱われていたという記述は、不思議なことに見当たらない。
『般若心経』の異常な人気は、空という思想が素晴らしいからではなくて、この経典を読んだり、書いたり、聞いたりすると、数々の現世の利益がもたらされるという民衆の熱烈な期待がその原因だといってよい。
『般若心経』を『般若経』のエッセンスを説く経とみる現在の通説が、もともと異端の説であったのである。
とあります。
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