西遊記で有名な三蔵法師は玄奘(げんじょう)さん。
三蔵とは仏典の総称で、
1、律蔵:規則・道徳・生活様相などをまとめたもの
2、経蔵:お釈迦さまの説いた教えをまとめたもの
3、論蔵: 上記の注釈、解釈などを集めたもの
の三つがあり、その全てを修得した高僧が三蔵法師。玄奘さんの他にもいらっしゃいます。
ところで、
哲学などの学問は客観的なもので、
心とは何か
人生とは何か
などを思惟考察します。
宗教は主観的なもので 、
心を知るためにはどうするか
人生を理解するためにはどうするか
そしてどのように生きるかを実践する
ということです。
三蔵の内、
経と律は、「どうすべきか」という宗教的な部分であり、
論は 「それが何であるか」という理論的解答で、学問的なものです。
「どうすべきか」の主体は瞑想修行。
その内容は止観と言って、
1、心を止める(具体的には、ただ呼吸をするだけ)
2、その心に、観察したものを映し出す
その観察するべきものの代表が四諦、四つの真理。
1、人生には「思い通りにならない」という苦しみがあり
2、その苦しみには原因があり、
3、その原因を取り除けば苦しみは無くなり
4、その取り除く方法は八つの正しい生活法で、最も重要なのが、心の自在を得るための瞑想修行である。
ということ。
三蔵や四諦にある実践方法と解釈は、時代の変遷とともに変わりました。
仏教の中に、色々な考えかたや修行方法ができたのです。
いわゆる小乗仏教では存在の分析が徹底的に行われ、
大乗仏教では心と心の作用が説明されます。
3世紀ごろにまとめられた『華厳経』と
7~8世紀ごろに成立した『大日経』は
それまでの仏教が、此岸から彼岸を見て、つまり、迷いの俗世間の僕らから、悟りの聖なる仏の世界を見て、そちらに行くために六波羅蜜の修行をしながら煩悩を滅し、悟りに近づこうとしたのに対して、
彼岸から俗世間を、悟りの立場から迷いの立場を見ています。
ここへ来るにはどのような過程を通ったのか、を思い出す修行方法です。
彼方に清らかな世界を思いながら、
こちらの迷いの世界から、悟りの世界に届くように唱えるお経があり、
自分の内側から発せらて、自分を包むように唱えられる真言があります。
いずれにしても、仏教は悟りを目指しているのですが、その障害になる非仏教的な考えかたがあります。
『小マールキャ経』などに、
お釈迦さまが、弟子たちから聞かれても答えなかった十無記が書かれています。
無記は「どちらとも決めない」ということ。
それは、
(1)この世は永遠か
(2)この世は永遠でないか
(3)この世は有限か
(4)この世は無限か
(5)魂と身体は同じか
(6)魂と身体は別物か
(7)如来は死後存在しないか
(8)如来は死後存在するか
(9)如来は死後存在し、かつ存在しないのか
(10)如来は死後存在せず、かつしないでもないか
まとめて言えば、
○世界はどのようなものか
○霊魂と肉体の関係
○魂(霊魂)の存続
については答えない、意味が無い質問、という立場です。
このような具体的論理的に説明ができない問題は、悟り、修行、心の安定、煩悩の止滅にまったく役に立たないから、お釈迦さまは答えなかったのです。
どちらと答えても際限ない議論に陥る問題に関わることは修行者の利益にならない、ということ。問題自体がナンセンスだ、と。
中阿含経の巻六十には、
こういう問題に関わることは「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむかず」
とあります。
それよりも、
四諦のように、確かに利益のあることをお釈迦さまは説いたのです。
お釈迦さまは答えなかっただけですが、後に大乗仏教になると、
「空」と「縁起」という考えかたで、十無記がなぜ無意味で答える必要が無いかを論証しました。
「空」と「縁起」については、別に記します。
三蔵とは仏典の総称で、
1、律蔵:規則・道徳・生活様相などをまとめたもの
2、経蔵:お釈迦さまの説いた教えをまとめたもの
3、論蔵: 上記の注釈、解釈などを集めたもの
の三つがあり、その全てを修得した高僧が三蔵法師。玄奘さんの他にもいらっしゃいます。
ところで、
哲学などの学問は客観的なもので、
心とは何か
人生とは何か
などを思惟考察します。
宗教は主観的なもので 、
心を知るためにはどうするか
人生を理解するためにはどうするか
そしてどのように生きるかを実践する
ということです。
三蔵の内、
経と律は、「どうすべきか」という宗教的な部分であり、
論は 「それが何であるか」という理論的解答で、学問的なものです。
「どうすべきか」の主体は瞑想修行。
その内容は止観と言って、
1、心を止める(具体的には、ただ呼吸をするだけ)
2、その心に、観察したものを映し出す
その観察するべきものの代表が四諦、四つの真理。
1、人生には「思い通りにならない」という苦しみがあり
2、その苦しみには原因があり、
3、その原因を取り除けば苦しみは無くなり
4、その取り除く方法は八つの正しい生活法で、最も重要なのが、心の自在を得るための瞑想修行である。
ということ。
三蔵や四諦にある実践方法と解釈は、時代の変遷とともに変わりました。
仏教の中に、色々な考えかたや修行方法ができたのです。
いわゆる小乗仏教では存在の分析が徹底的に行われ、
大乗仏教では心と心の作用が説明されます。
3世紀ごろにまとめられた『華厳経』と
7~8世紀ごろに成立した『大日経』は
それまでの仏教が、此岸から彼岸を見て、つまり、迷いの俗世間の僕らから、悟りの聖なる仏の世界を見て、そちらに行くために六波羅蜜の修行をしながら煩悩を滅し、悟りに近づこうとしたのに対して、
彼岸から俗世間を、悟りの立場から迷いの立場を見ています。
ここへ来るにはどのような過程を通ったのか、を思い出す修行方法です。
彼方に清らかな世界を思いながら、
こちらの迷いの世界から、悟りの世界に届くように唱えるお経があり、
自分の内側から発せらて、自分を包むように唱えられる真言があります。
いずれにしても、仏教は悟りを目指しているのですが、その障害になる非仏教的な考えかたがあります。
『小マールキャ経』などに、
お釈迦さまが、弟子たちから聞かれても答えなかった十無記が書かれています。
無記は「どちらとも決めない」ということ。
それは、
(1)この世は永遠か
(2)この世は永遠でないか
(3)この世は有限か
(4)この世は無限か
(5)魂と身体は同じか
(6)魂と身体は別物か
(7)如来は死後存在しないか
(8)如来は死後存在するか
(9)如来は死後存在し、かつ存在しないのか
(10)如来は死後存在せず、かつしないでもないか
まとめて言えば、
○世界はどのようなものか
○霊魂と肉体の関係
○魂(霊魂)の存続
については答えない、意味が無い質問、という立場です。
このような具体的論理的に説明ができない問題は、悟り、修行、心の安定、煩悩の止滅にまったく役に立たないから、お釈迦さまは答えなかったのです。
どちらと答えても際限ない議論に陥る問題に関わることは修行者の利益にならない、ということ。問題自体がナンセンスだ、と。
中阿含経の巻六十には、
こういう問題に関わることは「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむかず」
とあります。
それよりも、
四諦のように、確かに利益のあることをお釈迦さまは説いたのです。
お釈迦さまは答えなかっただけですが、後に大乗仏教になると、
「空」と「縁起」という考えかたで、十無記がなぜ無意味で答える必要が無いかを論証しました。
「空」と「縁起」については、別に記します。
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