人の心は、
「迷い多きに悟り多し」
であり、その迷いの原因は煩悩、と仏教では考えますが、
密教では、
煩悩が持つ大きなエネルギーを、衆生を助けるエネルギーに転換すること。
つまり、煩悩を肯定します。
本来悟っている、元々仏である僕らの心に、塵のようにまとわりついているものが煩悩ですが、
それを否定するのではなく(現実にそれは難しい)
煩悩とは何か、と煩悩の内容をよく知ることによって、解決しようとします。
密教の修行カリキュラムはそれに沿っています。
煩悩は、ひどく喉が渇いた時に水を欲しがるような「渇愛」とも表現しますが、
例えば、
ひとりの人を愛するとともに、その周りの人も、みんなを愛してしまう。
強い怒りがあっても、それを自分だけの怒りではなく、世界中から争いを無くそう、というような怒りに変える、広げてゆく
ということ。
それによって、自分の悟りと他を救うことが同時に可能になります。
密教の常用経典である『理趣経』には、四つの煩悩が書かれています。
1、煩悩障(貪り、怒り、無知) 生きていることに伴う障害。 知るべきことを知りえぬ障り
2、所知障(迷い、悩み、不安) 文化的活動に伴う障害。 心身をかき乱して悟りの邪魔になるもの。
3、法障(分別・区別・差別) 小賢しい智慧。正しい法を聞けない障り
4、業障 行為によって出てきた妨げ。 過去に自分が行った行為による妨げ。
これらも、
自心は本来清らかである、と体得する修行により(具体的には五相成身観という密教瞑想法)
四つの煩悩は清められ、それらの煩悩によって重罪を作ることになっても、それを消すことができる
とあります。
あらゆるものが平等であるということに徹し、あらゆるものにとらわれない自在を得れば、悟りに達する、ということです。
不動明王など忿怒のお姿は 、悪い方ばかり向いてしまうものに対しての怒りですが、
それはとりもなおさず自分自身の内面的な敵と戦う ことです。
煩悩に対して怒る。
良い悪い好き嫌いなどと、自分の妄想で分別していることに対しての怒り
怒りの対象は自分自身です。
世間一般では、
欲望はほどほどに強いましょう。怒ると健康に悪いよ。
顕教では、
怒らないように、愚かさを無くす。
密教では
欲をもっと大きなものにする
我の無い、世の中のための怒り
と、松長先生は『理趣経』(中公文庫)の中で書かれています。
また、
『理趣経』第十段では、
如来は道を外れたすべての者を調えるために、怒りの智慧を説く。
怒りの姿は、慈愛のすがたであり、相手が調えば、その怒りは愛と変わり、相手も怒りと共に仏になる。
顔を和らげ、心を喜ばし、微笑みをたたえながら、大悲の心のままに、怒る。
とあります。
菩提のため、相手を悟りに向かわせるための怒り
自分の感情ではなく、相手の立場を想って怒る
ゆとりをもった怒り
そういうものが密教の怒りです。
もし、普段の生活でイライラしたら、笑って真言を唱えてから、相手に接してみましょう。
怒りとともに、
煩悩の中で、最も大きく力が強いものが性的欲望ですが、
異性を求める欲望を、悟りを欲する心へ。
異性に近づいて触れたい欲望は、悟りに触れようとする心に。
異性を愛して離したくない欲望は、一切衆生を愛する心に。
異性を手にした喜びは、大衆を救うことを喜ぶ心に
修行によって転換させます。
こうすることで、
自分が悟る道程も、衆生を救う過程も、同じ順序をたどります。
何よりもまず、迷える自分の中には光り輝く仏があり、仏の本質は慈愛である
という心に住することが大切です。
※陰陽で考えると
強い怒りは陽性の排毒ですから、陰性な精進料理と、陰性な瞑想修行によって変換することができます。
イライラ、頭痛、ウツ、認知症など、脳の問題はほとんどが陽性毒がたまっているのが原因ですから、それを抜けばいい。
陽性毒は普通の生活をしていれば身体に入り、普通の食生活をしていれば排毒できるものですが、きれいな陰性が足りないと排毒できない。
きれいな陽性が足りない、ということです。
____________________________________
【修行してみる】
○欲望の転換
1、止息法
姿勢正しく坐り、3分程度ゆっくり呼吸します。何かを考えても考えなくてもよろしい。
ただ、呼吸するだけ。
その後、息をすべて吐いてから、呼吸を10秒止めます。
慣れてきたら20秒止めてから息を吸います。
2、沐浴
般若心経一巻を唱えてから、冷水を足、手、頭、身体の順にかけます。
礼拝の気持ちを持って衣体を着します。
3、正座法
畳、または堅めの座布団の上に正座し、頭上に500gから1㎏の重さがあるもの(座布団など)を載せて、姿勢を正します。
手をへその前におき、静かに呼吸します。
両手掌を上に向けると、心は平静になります。
毎日10分ほど座れば大きな効果があるでしょう。
「迷い多きに悟り多し」
であり、その迷いの原因は煩悩、と仏教では考えますが、
密教では、
煩悩が持つ大きなエネルギーを、衆生を助けるエネルギーに転換すること。
つまり、煩悩を肯定します。
本来悟っている、元々仏である僕らの心に、塵のようにまとわりついているものが煩悩ですが、
それを否定するのではなく(現実にそれは難しい)
煩悩とは何か、と煩悩の内容をよく知ることによって、解決しようとします。
密教の修行カリキュラムはそれに沿っています。
煩悩は、ひどく喉が渇いた時に水を欲しがるような「渇愛」とも表現しますが、
例えば、
ひとりの人を愛するとともに、その周りの人も、みんなを愛してしまう。
強い怒りがあっても、それを自分だけの怒りではなく、世界中から争いを無くそう、というような怒りに変える、広げてゆく
ということ。
それによって、自分の悟りと他を救うことが同時に可能になります。
密教の常用経典である『理趣経』には、四つの煩悩が書かれています。
1、煩悩障(貪り、怒り、無知) 生きていることに伴う障害。 知るべきことを知りえぬ障り
2、所知障(迷い、悩み、不安) 文化的活動に伴う障害。 心身をかき乱して悟りの邪魔になるもの。
3、法障(分別・区別・差別) 小賢しい智慧。正しい法を聞けない障り
4、業障 行為によって出てきた妨げ。 過去に自分が行った行為による妨げ。
これらも、
自心は本来清らかである、と体得する修行により(具体的には五相成身観という密教瞑想法)
四つの煩悩は清められ、それらの煩悩によって重罪を作ることになっても、それを消すことができる
とあります。
あらゆるものが平等であるということに徹し、あらゆるものにとらわれない自在を得れば、悟りに達する、ということです。
不動明王など忿怒のお姿は 、悪い方ばかり向いてしまうものに対しての怒りですが、
それはとりもなおさず自分自身の内面的な敵と戦う ことです。
煩悩に対して怒る。
良い悪い好き嫌いなどと、自分の妄想で分別していることに対しての怒り
怒りの対象は自分自身です。
世間一般では、
欲望はほどほどに強いましょう。怒ると健康に悪いよ。
顕教では、
怒らないように、愚かさを無くす。
密教では
欲をもっと大きなものにする
我の無い、世の中のための怒り
と、松長先生は『理趣経』(中公文庫)の中で書かれています。
また、
『理趣経』第十段では、
如来は道を外れたすべての者を調えるために、怒りの智慧を説く。
怒りの姿は、慈愛のすがたであり、相手が調えば、その怒りは愛と変わり、相手も怒りと共に仏になる。
顔を和らげ、心を喜ばし、微笑みをたたえながら、大悲の心のままに、怒る。
とあります。
菩提のため、相手を悟りに向かわせるための怒り
自分の感情ではなく、相手の立場を想って怒る
ゆとりをもった怒り
そういうものが密教の怒りです。
もし、普段の生活でイライラしたら、笑って真言を唱えてから、相手に接してみましょう。
怒りとともに、
煩悩の中で、最も大きく力が強いものが性的欲望ですが、
異性を求める欲望を、悟りを欲する心へ。
異性に近づいて触れたい欲望は、悟りに触れようとする心に。
異性を愛して離したくない欲望は、一切衆生を愛する心に。
異性を手にした喜びは、大衆を救うことを喜ぶ心に
修行によって転換させます。
こうすることで、
自分が悟る道程も、衆生を救う過程も、同じ順序をたどります。
何よりもまず、迷える自分の中には光り輝く仏があり、仏の本質は慈愛である
という心に住することが大切です。
※陰陽で考えると
強い怒りは陽性の排毒ですから、陰性な精進料理と、陰性な瞑想修行によって変換することができます。
イライラ、頭痛、ウツ、認知症など、脳の問題はほとんどが陽性毒がたまっているのが原因ですから、それを抜けばいい。
陽性毒は普通の生活をしていれば身体に入り、普通の食生活をしていれば排毒できるものですが、きれいな陰性が足りないと排毒できない。
きれいな陽性が足りない、ということです。
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【修行してみる】
○欲望の転換
1、止息法
姿勢正しく坐り、3分程度ゆっくり呼吸します。何かを考えても考えなくてもよろしい。
ただ、呼吸するだけ。
その後、息をすべて吐いてから、呼吸を10秒止めます。
慣れてきたら20秒止めてから息を吸います。
2、沐浴
般若心経一巻を唱えてから、冷水を足、手、頭、身体の順にかけます。
礼拝の気持ちを持って衣体を着します。
3、正座法
畳、または堅めの座布団の上に正座し、頭上に500gから1㎏の重さがあるもの(座布団など)を載せて、姿勢を正します。
手をへその前におき、静かに呼吸します。
両手掌を上に向けると、心は平静になります。
毎日10分ほど座れば大きな効果があるでしょう。
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