密教の中心思想のひとつが即身成仏
この身このままで仏となること
ですが、仏とはそんなに簡単になれるのでしょうか。
この身このままが仏である、
僕らは本来仏と同じであり、僕らの中には仏が住んでいる
なら、修行など必要無いのではないか、
ということにもなりかねない。
そのあたりのことを『大日経』には、
悟りの境地は、真言を誦持することによって得られる、修行の成就と仏の境地の完成である。
とあります。
密教瞑想のひとつである三密行をして真言を唱えることによってのみ、即身に仏となることが可能
ということです。
お大師さんの『即身成仏儀』には、
世界の存在要素である六つの粗大なるもの(地・水・火・風・空・識の六大)は、さえぎるものもなく、永遠に融合しあっている。
四種の曼荼羅は、それぞれそのまま離れることはない。
仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為形態が、不思議な働きによって感応しあっているので、すみやかにさとりの世界があらわれる。
あらゆる身体が、帝釈天の持つ網につけられた宝石のように、幾重にもかさなりあいながら映しあうことを、「即身」という。
とあります。
僕らと僕らの世界を構成している元素のような五大と想いは、海水の中の水と塩のように溶け合っている。
だから、
主観と客観
身体と心
知識と実体験
行者と宇宙
なども一体化し、瞑想(瑜伽=ヨーガ)によって一なる世界そのものとなる。
この同一化した存在=身体こそが即身成仏
ということです。
ダラダラと怠惰な生活のまま仏になる=悟れる、わけではありません。
真言は五大(この世に存在するものすべて)の響きととらえ、それが存在するもの(識大)を包む世界を開いている
というイメージ。
そこには対立概念が無く、互いが無碍渉入して、存在をうみだすものと、生み出される悟りは同じになります。
その姿を曼荼羅といい、
その働きを三密と言います。
三密は、身体と言葉と心が仏と同じになること。
この身このままで仏となること
ですが、仏とはそんなに簡単になれるのでしょうか。
この身このままが仏である、
僕らは本来仏と同じであり、僕らの中には仏が住んでいる
なら、修行など必要無いのではないか、
ということにもなりかねない。
そのあたりのことを『大日経』には、
悟りの境地は、真言を誦持することによって得られる、修行の成就と仏の境地の完成である。
とあります。
密教瞑想のひとつである三密行をして真言を唱えることによってのみ、即身に仏となることが可能
ということです。
お大師さんの『即身成仏儀』には、
世界の存在要素である六つの粗大なるもの(地・水・火・風・空・識の六大)は、さえぎるものもなく、永遠に融合しあっている。
四種の曼荼羅は、それぞれそのまま離れることはない。
仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為形態が、不思議な働きによって感応しあっているので、すみやかにさとりの世界があらわれる。
あらゆる身体が、帝釈天の持つ網につけられた宝石のように、幾重にもかさなりあいながら映しあうことを、「即身」という。
とあります。
僕らと僕らの世界を構成している元素のような五大と想いは、海水の中の水と塩のように溶け合っている。
だから、
主観と客観
身体と心
知識と実体験
行者と宇宙
なども一体化し、瞑想(瑜伽=ヨーガ)によって一なる世界そのものとなる。
この同一化した存在=身体こそが即身成仏
ということです。
ダラダラと怠惰な生活のまま仏になる=悟れる、わけではありません。
真言は五大(この世に存在するものすべて)の響きととらえ、それが存在するもの(識大)を包む世界を開いている
というイメージ。
そこには対立概念が無く、互いが無碍渉入して、存在をうみだすものと、生み出される悟りは同じになります。
その姿を曼荼羅といい、
その働きを三密と言います。
三密は、身体と言葉と心が仏と同じになること。
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