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[ 2024/11/21 22:27 | ]
15-1、中道
仏教は修行の宗教であり、修行によってお釈迦さまのような悟りをめざします。

その、実践方法の基本が中道(ちゅうどう)

相対するふたつの極端な考えかたや姿勢に偏らないこと。


たとえば、

厳しい苦行や、それと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることが中道。

大切なのは、

苦行をしない、快楽も求めない

というだけでは目的は達成されず、

偏らない適正な修行をすることで悟りを得る

ということです。


お釈迦さまは六年間にわたる厳しい苦行の末、これでは悟りには近づけないと判断しました。

『雑阿含経』や『転法輪経』には、

「比丘たちよ、出家した者はこのふたつの極端に近づいてはならない。

第一に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。

第二に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。

比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」


苦・楽のふたつ以外にも

霊魂や来世が有る・無い

という二つを離れ、

 
運命が決まっている・決まっていない

という二つも離れることが中道。

それらは、

有る、と言えば道徳や精進努力の欠落を招き

無い、と言えば人心の荒廃をもたらすからです。




快楽への執着、禁欲苦行への偏りの両極端を離れた中道が基本姿勢であり、 

中道の実践項目としての八正道

http://shintenan.syoyu.net/%E7%9C%9E%E5%A4%A9%E5%BA%B5%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%A1%BE%E3%83%BB%E5%AF%86%E6%95%99%E5%A1%BE/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%82


この立場をとる人は四諦を観ます。 
http://shintenan.syoyu.net/%E7%9C%9E%E5%A4%A9%E5%BA%B5%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%A1%BE%E3%83%BB%E5%AF%86%E6%95%99%E5%A1%BE/10-1%E3%80%81%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%9A%84%E6%80%9D%E6%83%B3


中道は、

あらゆるものが存在する
あらゆるものが存在しない

という両極端を否定し、

あらゆる存在に自性はない
あらゆる存在に他性はない

という縁起の法則につながります。

すべては、

縁と条件という、関係性によってのみ存在しているのです。

何も関係性がない(オレは誰とも関係がなく、自分ひとりで存在している)などということは無いのです。

 
昨今は中道を、

いい加減
良い加減
偏らない心

などと、聞こえやすい言葉で説明しがちですが、この程度では仏教ではなく、自分流勝手な説で、我田引水も甚だしい曲解。

中道は、難しく言えば、

自我を離れた無我の状態

 で、修行によって体得できるものです。

その修行方法が四諦八正道。

正しい生活と真摯な瞑想(心のコントロール)です。



お釈迦さまの最後の言葉で有名なものに、

自灯明 法灯明

があります。


『大般涅槃経』には、

身体について、身体を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。  

心について心を熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。  

諸々の事象について諸々の事象を熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

これが仏教者の基本的姿勢。問題は自らと法(存在の分析)によって判断し、他から聞いた噂話などで判断しないことです。


それによって、錯覚や妄想の無い、正しい修行を進めることができます。
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[ 2015/08/17 11:32 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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