昨日いらしたご婦人が
昔の豆腐はおいしかった。
今の豆腐は賞味期限が過ぎても食べられるけれど、
昔の豆腐はすぐに酸っぱくなった。
と言う。
この辺に、今の食品事情があらわれているのだろうな。
日本人は、
豆腐や白いごはん そのものをおいしく感じて、
日本の料理はおいしい素材の味を引き出すように作ります。
豆腐そのものがおいしくなければ、それもできなくなるのだろうな。
昨今、天然醸造の醤油などがあまり売れないようですが、そればかりでなく、ハウス食品のような大きな食品会社も減益です。
今や、カレーでさえ、家で作らない食卓になっているのでしょう。
この辺にも、様々な問題の原因があるのだろうな。
それはさておき、
『涅槃経』(大パリニッバーナ経)には、お釈迦さんが亡くなる前の言葉として
大海における島のように、自分をたよりとし、他人をたよりとせず
法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ
とあります。
法とは世間の実相、具体的には縁起や空などの法則。
そして、
身体については身体を観じ、よく気をつけて、貪欲と憂いを除くべきである。
感覚についても、心についても同じように、よく気をつけて貪欲と憂いを除くべき。
と続きます。
あらゆることがらについて、それをよく観察して、気をつけていれば、適切な判断が得られ、人に嫌な思いをさせず、自他ともに幸せと平安に向かうことができます。
例えば、
何かにつけて急ぐ時と、待つ時がある。
早く早くと急ぐ時、
じっくり変化を待つ時。
急ぐことに何か良いことがあるのかは分からないけれど、待つことにはメリットが多い。
それは、
待っている間に考えられる
ということ。
考えれば、それが正しいのか、自分に適しているのか、人に迷惑をかけないだろうか
などを熟考できます。
恩師でもダライラマでも父親でも、尊敬できる人が何かを言ってくれる。
ふむふむとうなずく
その後が問題。
「その人が言った」だけでは、ただの戯論やうわさ話に過ぎません。
仏教のことなら仏典にあたり、食養のことなら陰陽で考え、そして不明なものを含めて実践して確かめる。
そのような方法により、知識が智慧になり、人生の役に立つ可能性が大きくなり、
他人に不快な思いをさせることが少なくなります。
それに、
勉強しないで自分の意見を言うのは恥ずかしい。
個性には長所と短所がありますが、ちょっと待って考えれば、短所は長所かもしれない。
人生には生老病死の苦があり、愛する人との別れ、嫌いな人との出会い、欲しいものが手に入らない、自分の体や心が思うようにならない、という苦があります。
いずれにしても、苦しみは「思い通りにならない」こと。
世の中の多くは思い通りにならず、妄想だけが思い通りになります。
思い通りにならないものも、考えてみると思い通りになるものかもしれない。そもそも、思い通りになる必要があるのだろうか。
そのように考えると
しあわせは、いくらでもその辺にころがっています。
待つ、考える、
というのは、快適に平安に生きるための良い方法ではないか、と僕は考えています。
昔の豆腐はおいしかった。
今の豆腐は賞味期限が過ぎても食べられるけれど、
昔の豆腐はすぐに酸っぱくなった。
と言う。
この辺に、今の食品事情があらわれているのだろうな。
日本人は、
豆腐や白いごはん そのものをおいしく感じて、
日本の料理はおいしい素材の味を引き出すように作ります。
豆腐そのものがおいしくなければ、それもできなくなるのだろうな。
昨今、天然醸造の醤油などがあまり売れないようですが、そればかりでなく、ハウス食品のような大きな食品会社も減益です。
今や、カレーでさえ、家で作らない食卓になっているのでしょう。
この辺にも、様々な問題の原因があるのだろうな。
それはさておき、
『涅槃経』(大パリニッバーナ経)には、お釈迦さんが亡くなる前の言葉として
大海における島のように、自分をたよりとし、他人をたよりとせず
法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ
とあります。
法とは世間の実相、具体的には縁起や空などの法則。
そして、
身体については身体を観じ、よく気をつけて、貪欲と憂いを除くべきである。
感覚についても、心についても同じように、よく気をつけて貪欲と憂いを除くべき。
と続きます。
あらゆることがらについて、それをよく観察して、気をつけていれば、適切な判断が得られ、人に嫌な思いをさせず、自他ともに幸せと平安に向かうことができます。
例えば、
何かにつけて急ぐ時と、待つ時がある。
早く早くと急ぐ時、
じっくり変化を待つ時。
急ぐことに何か良いことがあるのかは分からないけれど、待つことにはメリットが多い。
それは、
待っている間に考えられる
ということ。
考えれば、それが正しいのか、自分に適しているのか、人に迷惑をかけないだろうか
などを熟考できます。
恩師でもダライラマでも父親でも、尊敬できる人が何かを言ってくれる。
ふむふむとうなずく
その後が問題。
「その人が言った」だけでは、ただの戯論やうわさ話に過ぎません。
仏教のことなら仏典にあたり、食養のことなら陰陽で考え、そして不明なものを含めて実践して確かめる。
そのような方法により、知識が智慧になり、人生の役に立つ可能性が大きくなり、
他人に不快な思いをさせることが少なくなります。
それに、
勉強しないで自分の意見を言うのは恥ずかしい。
個性には長所と短所がありますが、ちょっと待って考えれば、短所は長所かもしれない。
人生には生老病死の苦があり、愛する人との別れ、嫌いな人との出会い、欲しいものが手に入らない、自分の体や心が思うようにならない、という苦があります。
いずれにしても、苦しみは「思い通りにならない」こと。
世の中の多くは思い通りにならず、妄想だけが思い通りになります。
思い通りにならないものも、考えてみると思い通りになるものかもしれない。そもそも、思い通りになる必要があるのだろうか。
そのように考えると
しあわせは、いくらでもその辺にころがっています。
待つ、考える、
というのは、快適に平安に生きるための良い方法ではないか、と僕は考えています。
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