お大師さんの『十住心論』に、
地獄と天界、煩悩と悟り、迷いと涅槃、両辺と真ん中、空と有、偏りと中心・・・。
など、みなこれ自分の中にある仏の名前である。
どちらを取って、どちらかを捨てる、というようなことでは無い。
とあるように、
大乗仏教、特に密教は、
ふたつにわけてどちらかを選ぶ、
それも、より早く判断して選ぶ、
ということを嫌う傾向があります。本来ひとつのものなんだから。
日常生活でもありますね。
あなたと私、あなたの意見と私の意見、ふたつにわかれる。
でも、どちらかを選んでどちらかを捨てる、ということではなく、
まあ、いろいろあるけれど、なんとか一緒にやろうよ、
というようなことが大切かもしれない。
人間はケンカをする生き物です。話が合う、ということは滅多にない。
でも、
それはそれで、あんたと私の考えは違うけれど、
向いている方向は違うけれど、
まあ、それはそれとして、とにかく一緒に拝もうじゃないか。
という人間の調和とか心の融合が、本来の供養や祈祷の宗教行為です。
いろいろと相手の欠点を指摘せずに、
あなたはあなたのままで良いから、まあ、一緒に拝みましょうよ、と。
たとえば、
僕は毎朝5時前から拝んでいます。
明日もいつものように世界の平安を拝みますから、
あなたも一緒に拝みましょう。20分くらいでいいから。
もし、みんなが拝んでいたら、
その時、世界は平和な浄土に、極楽に、天国になるでしょう。
どうですか、
明日の朝、一緒にお拝みませんか。
キリスト教の人もイスラムの人も、新しい宗教の人も。
一緒にご飯を食べたり、一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たり、一緒に拝んだりすると、
ずいぶんと人は分かり和えるものです。
地獄と天界、煩悩と悟り、迷いと涅槃、両辺と真ん中、空と有、偏りと中心・・・。
など、みなこれ自分の中にある仏の名前である。
どちらを取って、どちらかを捨てる、というようなことでは無い。
とあるように、
大乗仏教、特に密教は、
ふたつにわけてどちらかを選ぶ、
それも、より早く判断して選ぶ、
ということを嫌う傾向があります。本来ひとつのものなんだから。
日常生活でもありますね。
あなたと私、あなたの意見と私の意見、ふたつにわかれる。
でも、どちらかを選んでどちらかを捨てる、ということではなく、
まあ、いろいろあるけれど、なんとか一緒にやろうよ、
というようなことが大切かもしれない。
人間はケンカをする生き物です。話が合う、ということは滅多にない。
でも、
それはそれで、あんたと私の考えは違うけれど、
向いている方向は違うけれど、
まあ、それはそれとして、とにかく一緒に拝もうじゃないか。
という人間の調和とか心の融合が、本来の供養や祈祷の宗教行為です。
いろいろと相手の欠点を指摘せずに、
あなたはあなたのままで良いから、まあ、一緒に拝みましょうよ、と。
たとえば、
僕は毎朝5時前から拝んでいます。
明日もいつものように世界の平安を拝みますから、
あなたも一緒に拝みましょう。20分くらいでいいから。
もし、みんなが拝んでいたら、
その時、世界は平和な浄土に、極楽に、天国になるでしょう。
どうですか、
明日の朝、一緒にお拝みませんか。
キリスト教の人もイスラムの人も、新しい宗教の人も。
一緒にご飯を食べたり、一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たり、一緒に拝んだりすると、
ずいぶんと人は分かり和えるものです。
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