最寄り駅で息子と待ち合わせ、郡山へ。
郡山市民文化センターで高野山1200年至宝展「ふれる空海」を観る。
あまり期待していなかったのだけれど、コンパクトにまとまって見やすい企画展でした。
何より、こうしてお大師さんの思想が広まるのは嬉しい。
ホテルにチェックインして、バスで天麩羅「奈良木」へ。
僕が心安く外食できるのは日本でここだけ。
ごま油はお客さんごとに濾して取り換え、
油消しで(おいしく食べられるように)大根おろし、なます、ぬか漬け、丁寧な出汁を添えてくれる。
油には辛味、たんぱく質には酸味ですが、これはひとつの出汁や薬味や付け合せでは足りない。
揚げ物という陽性、肉魚という陽性、玄米という陽性には、それぞれ倍以上の陰性が必要です。
そうでないと滋養も味もバランスが取れない。
ご飯もうまい。
お酒は南郷、会津娘、風の森、田酒 、龍の如く、久保田、獺祭、
飛露喜もある。
翌日、田村市の飛龍寺で弘法大師例大祭に出仕。
福島の空は広い、山は大きい、土地は清々しい
あの日以来、いろいろと問題はあるけれど、僕は福島が好き。
それはさておき、
お釈迦さまは、シャカ族の王子として裕福な生活をしていましたが、29歳で出家し、35歳で成道、悟りを開かれました。その内容は四諦八正道
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% E4%BB%8 F%E6%95 %99%E3% 81%A8%E 3%81%AF %E4%BD% 95%E3%8 1%8B%E3 %80%82
お釈迦さまは幼くて母親を亡くし、感受性の鋭い子だったよう仏伝には書かれています。
ある日、
城の東門から出かけ、ヨボヨボの老人に会います。
別の日、
南門から出かけ、道端に倒れてる病人を見ます。
西門から出かけた時には、葬送の列で遺体を見ます。
「老」、「病」、「死」
という人生の重大事実は避けられないのに、それを見て見ぬふりをして無自覚に生きている人のなんと多いことか。
人生は思い通りにならない、苦ばかりではないか。
そして、
北門を出た時、出家修行者に出会い、その落ち着いた清らかな姿に感動し、修行生活に入ります。
これが「四門出遊」、後世に生まれた説話です。
お大師さんは、讃岐国の郡司という地方豪族の子として生まれ、
当時としては恵まれた環境で、15歳で都へ出て、18歳の時に大学へ入ります。
当時の大学は儒教を中心とした講義で官吏養成のための学校。
真理を追究する、というものではない。
しかも、政界は帝の位をめぐる紛争が絶えず、陰惨な政策が横行。まあ、今と変わりませんが。
そこで勉強を続けていれば、将来は高級官僚、家族親族もそれを勧めますが、
19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ります。
そして、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論であり、出家宣言書である『聾瞽指帰』(ろうごうしいき)を著します。
儒教は世俗の名声を期待し、道教は神仙を願い、仏教は悟りと救済を実現するものである、と。
そして、修行、入唐、帰国して、真言密教の第八祖となります。
自分の将来、好きなこと・やりたいこと、目指すもの、そういうものが見つからないことは普通です。
お釈迦さまやお大師さんに比べて、自分は何にも考えていない、などと思うかもしれない。
そして、自分の可能性はわからない。まあ、40歳50歳になってもわからないことは多いです。
でも、これは、と感じるものがあれば、一途に進んでみる。そうすれば道ができるかもしれません。
それぞれの立場で挑戦すれば、人生が愉快になるでしょう。
その先には、
師との出会い、生きがいの発見、自分が自分である意味、生まれてきた意味、そういうことがわかります 。
上記「ふれる空海」展に、『聾瞽指帰』(複製)が展示されており、お大師さんの美しく力強い文字を見ることができます。
『聾瞽指帰』と後に補訂改題した『三教指帰』に書かれているお大師さんのことば、いくつか引きます。
真理への道は何も特別なことではない。ようするに心がそのすべてを決めるのである。
錆びた刀は磨けば切れるようになる、重い車も油をさせば軽く走るようになる。
珠は磨かなければ光らないように、
人も勉め励むことが無ければ才能を発揮できない。
学ばずして生まれながらに知り、教えに従わずして自ら悟るものなど、未だにいない。
なぜ、自分の欠点を正そうとせずに、無責任に他人の欠点をあばこうとするのか。
取るに足らぬ楽しみを無上の喜びのように思い、何でもない心配事に打ちひしがれている。
道の大元を失わなければ、目前の些細なことにこだわる必要はない。
心のありかたが善であれば、幸いを得て、平和になる。その心のありかたが難しいだけである。
内容を立派にせず、表面だけを飾っても意味のないことである。
郡山市民文化センターで高野山1200年至宝展「ふれる空海」を観る。
あまり期待していなかったのだけれど、コンパクトにまとまって見やすい企画展でした。
何より、こうしてお大師さんの思想が広まるのは嬉しい。
ホテルにチェックインして、バスで天麩羅「奈良木」へ。
僕が心安く外食できるのは日本でここだけ。
ごま油はお客さんごとに濾して取り換え、
油消しで(おいしく食べられるように)大根おろし、なます、ぬか漬け、丁寧な出汁を添えてくれる。
油には辛味、たんぱく質には酸味ですが、これはひとつの出汁や薬味や付け合せでは足りない。
揚げ物という陽性、肉魚という陽性、玄米という陽性には、それぞれ倍以上の陰性が必要です。
そうでないと滋養も味もバランスが取れない。
ご飯もうまい。
お酒は南郷、会津娘、風の森、田酒 、龍の如く、久保田、獺祭、
飛露喜もある。
翌日、田村市の飛龍寺で弘法大師例大祭に出仕。
福島の空は広い、山は大きい、土地は清々しい
あの日以来、いろいろと問題はあるけれど、僕は福島が好き。
それはさておき、
お釈迦さまは、シャカ族の王子として裕福な生活をしていましたが、29歳で出家し、35歳で成道、悟りを開かれました。その内容は四諦八正道
http://
お釈迦さまは幼くて母親を亡くし、感受性の鋭い子だったよう仏伝には書かれています。
ある日、
城の東門から出かけ、ヨボヨボの老人に会います。
別の日、
南門から出かけ、道端に倒れてる病人を見ます。
西門から出かけた時には、葬送の列で遺体を見ます。
「老」、「病」、「死」
という人生の重大事実は避けられないのに、それを見て見ぬふりをして無自覚に生きている人のなんと多いことか。
人生は思い通りにならない、苦ばかりではないか。
そして、
北門を出た時、出家修行者に出会い、その落ち着いた清らかな姿に感動し、修行生活に入ります。
これが「四門出遊」、後世に生まれた説話です。
お大師さんは、讃岐国の郡司という地方豪族の子として生まれ、
当時としては恵まれた環境で、15歳で都へ出て、18歳の時に大学へ入ります。
当時の大学は儒教を中心とした講義で官吏養成のための学校。
真理を追究する、というものではない。
しかも、政界は帝の位をめぐる紛争が絶えず、陰惨な政策が横行。まあ、今と変わりませんが。
そこで勉強を続けていれば、将来は高級官僚、家族親族もそれを勧めますが、
19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ります。
そして、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論であり、出家宣言書である『聾瞽指帰』(ろうごうしいき)を著します。
儒教は世俗の名声を期待し、道教は神仙を願い、仏教は悟りと救済を実現するものである、と。
そして、修行、入唐、帰国して、真言密教の第八祖となります。
自分の将来、好きなこと・やりたいこと、目指すもの、そういうものが見つからないことは普通です。
お釈迦さまやお大師さんに比べて、自分は何にも考えていない、などと思うかもしれない。
そして、自分の可能性はわからない。まあ、40歳50歳になってもわからないことは多いです。
でも、これは、と感じるものがあれば、一途に進んでみる。そうすれば道ができるかもしれません。
それぞれの立場で挑戦すれば、人生が愉快になるでしょう。
その先には、
師との出会い、生きがいの発見、自分が自分である意味、生まれてきた意味、そういうことがわかります 。
上記「ふれる空海」展に、『聾瞽指帰』(複製)が展示されており、お大師さんの美しく力強い文字を見ることができます。
『聾瞽指帰』と後に補訂改題した『三教指帰』に書かれているお大師さんのことば、いくつか引きます。
真理への道は何も特別なことではない。ようするに心がそのすべてを決めるのである。
錆びた刀は磨けば切れるようになる、重い車も油をさせば軽く走るようになる。
珠は磨かなければ光らないように、
人も勉め励むことが無ければ才能を発揮できない。
学ばずして生まれながらに知り、教えに従わずして自ら悟るものなど、未だにいない。
なぜ、自分の欠点を正そうとせずに、無責任に他人の欠点をあばこうとするのか。
取るに足らぬ楽しみを無上の喜びのように思い、何でもない心配事に打ちひしがれている。
道の大元を失わなければ、目前の些細なことにこだわる必要はない。
心のありかたが善であれば、幸いを得て、平和になる。その心のありかたが難しいだけである。
内容を立派にせず、表面だけを飾っても意味のないことである。
PR