残った味噌汁にナス、油揚げ、人参、ピーマン、その他手当たり次第に入れて煮込み、カレーにする。
蓋をしないことがポイント。陰性なえぐみが抜ける。
朝に陰性な野菜のカレーを食べれば、交感神経が刺激されて、日中の動きがよくなります。
それはさておき、
仏教の目指すものは「さとり」であって、これは仏教の何から何まですべてを覆うものです。
日々の生活も「さとり」を伴うものであるはず。
この目的である「さとり」は自分の心を知ることですが、
大乗仏教や密教では、その心が本来(生まれつき)清浄である、
という前提があります。
僕らが唱える『理趣経』の本文も、
「一切法の清浄句の門を説きたもう」
で始まります。
一切の現象だから、心も清浄。
心の本性が清浄であるかどうかについては、仏教内部でもいろいろ意見があるのですが、
本性清浄である、という立場で考えます。
自性清浄はサンスクリット語で、prakŗti-prabhāsvara(プラクリティ プラバースワラ)
英訳ではoriginally pure
このプラバースワラには、光り輝くもの、という意味があります。
心の中を探っていくと、
世の中の存在をどんどん否定してゆくと、
最終的に出てくるものがある。それが根源的な光。
これは、
自分のために心をコントロールして、他人のために必要なことをする。
それは、柔らかい、軽い、適用に堪える、壊れない心です。
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」(パーリ増支部)
にも当てはまります。
これは、
自分のために心をコントロールして、他人のために必要なことをする。
それは、柔らかい、軽い、適用に堪える、壊れない心です。
大乗仏教になると、
心も空であるから、染まることも執著することも無く、不生不滅である。
だから、自性清浄であり、
すべての存在は仏の性質を有していて(仏性)
仏が住む居が心である(如来蔵)
そして、
修行して仏になる(悟りを得る)のではなく、
もともと生まれつき仏(悟っている)である、という本覚思想になります。
僕らは仏なのだから、清浄に決まっている。
この、清浄がゆえに自他を救い、
それに気がつくための修行方法が、密教にはいくつか伝えられています。
蓋をしないことがポイント。陰性なえぐみが抜ける。
朝に陰性な野菜のカレーを食べれば、交感神経が刺激されて、日中の動きがよくなります。
それはさておき、
仏教の目指すものは「さとり」であって、これは仏教の何から何まですべてを覆うものです。
日々の生活も「さとり」を伴うものであるはず。
この目的である「さとり」は自分の心を知ることですが、
大乗仏教や密教では、その心が本来(生まれつき)清浄である、
という前提があります。
僕らが唱える『理趣経』の本文も、
「一切法の清浄句の門を説きたもう」
で始まります。
一切の現象だから、心も清浄。
心の本性が清浄であるかどうかについては、仏教内部でもいろいろ意見があるのですが、
本性清浄である、という立場で考えます。
自性清浄はサンスクリット語で、prakŗti-prabhāsvara(プラクリティ プラバースワラ)
英訳ではoriginally pure
このプラバースワラには、光り輝くもの、という意味があります。
心の中を探っていくと、
世の中の存在をどんどん否定してゆくと、
最終的に出てくるものがある。それが根源的な光。
これは、
自分のために心をコントロールして、他人のために必要なことをする。
それは、柔らかい、軽い、適用に堪える、壊れない心です。
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」(パーリ増支部)
にも当てはまります。
これは、
自分のために心をコントロールして、他人のために必要なことをする。
それは、柔らかい、軽い、適用に堪える、壊れない心です。
大乗仏教になると、
心も空であるから、染まることも執著することも無く、不生不滅である。
だから、自性清浄であり、
すべての存在は仏の性質を有していて(仏性)
仏が住む居が心である(如来蔵)
そして、
修行して仏になる(悟りを得る)のではなく、
もともと生まれつき仏(悟っている)である、という本覚思想になります。
僕らは仏なのだから、清浄に決まっている。
この、清浄がゆえに自他を救い、
それに気がつくための修行方法が、密教にはいくつか伝えられています。
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