文字は意味伝達の記号なのだけれど、
文字によって如来は説法する、
というのが密教の立場です。
『声字実相義』には、
書き言葉、話言葉はもちろん、
形も色も匂いも、文字のひとつとして
すべてが如来の説法としています。
つまり、
あらゆるところ、すべての環境がそうである、と。
文字には、
論理的な解釈と、感情的なシンボルとしての部分があります。
真言は、
そのシンボル的な部分を、宗教的直観で得るものです。
真言は、サンスクリット語・マントラの訳語ですが、
動詞「man」は、思考する
接尾語「tra」は、器、道具
の意味です。
ですから、
真言は唱えるだけのものではない。
化学式や数学の方程式を知らない人にとって、
それらを使うことはできません。
同じように真言の使いかたを知らない人にとっては、
真言は無用の長物で、唱えても何も生み出さず、時間の浪費であり、
錯覚や妄想のもとになるかもしれません。
H₂OやCO₂を唱えても、、
水や二酸化炭素はできないのと同じです。
真言自体に不思議な力があるわけではなく、
意味を考え、正しく唱えることで、その人の心や意識が変わります。
ロックなどの洋楽を聴くと、
言葉の意味が分からなくても、メロディなどで感動することがありますが、
論理的な理由のない感情を引き出すことは、
真言にもあります。
しかし、
それも正しく唱えないと、妄想につながり、心を傷める可能性があります。
世界はすべて如来の説法ですが、
それを体験できるように準備をし、
知らないことを知るようにしなければそれはわからない。
『秘鍵』に、
翳眼の衆生は盲いて見えず
とありますが、
日常すべての言葉、文字は、
勉強して意味を理解して、
正しく使うことが、
良い効果を生み出すでしょう。
僕らは、
音、声、言葉、文字、つまり如来に包まれている。
文字によって如来は説法する、
というのが密教の立場です。
『声字実相義』には、
書き言葉、話言葉はもちろん、
形も色も匂いも、文字のひとつとして
すべてが如来の説法としています。
つまり、
あらゆるところ、すべての環境がそうである、と。
文字には、
論理的な解釈と、感情的なシンボルとしての部分があります。
真言は、
そのシンボル的な部分を、宗教的直観で得るものです。
真言は、サンスクリット語・マントラの訳語ですが、
動詞「man」は、思考する
接尾語「tra」は、器、道具
の意味です。
ですから、
真言は唱えるだけのものではない。
化学式や数学の方程式を知らない人にとって、
それらを使うことはできません。
同じように真言の使いかたを知らない人にとっては、
真言は無用の長物で、唱えても何も生み出さず、時間の浪費であり、
錯覚や妄想のもとになるかもしれません。
H₂OやCO₂を唱えても、、
水や二酸化炭素はできないのと同じです。
真言自体に不思議な力があるわけではなく、
意味を考え、正しく唱えることで、その人の心や意識が変わります。
ロックなどの洋楽を聴くと、
言葉の意味が分からなくても、メロディなどで感動することがありますが、
論理的な理由のない感情を引き出すことは、
真言にもあります。
しかし、
それも正しく唱えないと、妄想につながり、心を傷める可能性があります。
世界はすべて如来の説法ですが、
それを体験できるように準備をし、
知らないことを知るようにしなければそれはわからない。
『秘鍵』に、
翳眼の衆生は盲いて見えず
とありますが、
日常すべての言葉、文字は、
勉強して意味を理解して、
正しく使うことが、
良い効果を生み出すでしょう。
僕らは、
音、声、言葉、文字、つまり如来に包まれている。
PR