神さまはいるのか、いないのか
ということを考えてみると、
神はいない、
とは云えない。
なぜなら、無いものを考えることはできないから。
では、どこにいるかといえば、脳の中にいる。
それが「いる」と決めているから、そう思う。
もちろん、それは真実在ではない。
真実在とは、
誰でも、いつでも、どこでも、
その存在を確認できるもので、
常住で唯一で天地を主宰していること。
だから、それは生じることも滅することもない。
本体が無いから生滅は無く、
従って、
神はいないけれど、いると思う。
つまり、
神は仮にいるのであって、
実在ではなく、
実在ではないから、生じては滅する。
本来生じたものでも滅したものでもない根源的なもの、
モノでも感情・想いでも、その大本を探る場合、
言葉で表現すると否定を繰り返すことになる。
「私」はあれではない、これではない・・・
「心」はそれではない、これでもない・・・
「しあわせ」はAではない、Bでもない・・・
それは不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、
否定して、対立する概念を捨てて本来のものに行き着く。
否定して否定して、最後に否定できない究極の真理に至る。
でも、
否定して、最後に何も残らないかもしれない。
最後の究極は、どのようなものであろうか。
否定の立場からは、
すべてのもの(本質)は不生不滅であるけれど、
現実のものは仮に生まれ、仮に滅している、とする。
これは、
迷っている立場から、悟りに向かう、
スタートからゴールに至る考えかたである。
もうひとつ、
総てを肯定する方法がある。
真実在を直接観ること、
それは、実の如く自心を知ることなのだけれど、
総てのものの真実在を観ることである。
このとき、
不生不滅、不垢不浄、不増不減ではなく、
生と滅、垢と浄、増と減などは問わない。
真実在は不生だから。
世の中の総ては歴然として存在するけれど、
本質は不生不滅である。
見かたを変えれば、
もとより在るもので常住である。
これは、
肯定の思想、
ゴール(悟り)からスタート(迷いの現実)を観た考えかた。
だから、瞑想修行によって悟ることができる。
ということを考えてみると、
神はいない、
とは云えない。
なぜなら、無いものを考えることはできないから。
では、どこにいるかといえば、脳の中にいる。
それが「いる」と決めているから、そう思う。
もちろん、それは真実在ではない。
真実在とは、
誰でも、いつでも、どこでも、
その存在を確認できるもので、
常住で唯一で天地を主宰していること。
だから、それは生じることも滅することもない。
本体が無いから生滅は無く、
従って、
神はいないけれど、いると思う。
つまり、
神は仮にいるのであって、
実在ではなく、
実在ではないから、生じては滅する。
本来生じたものでも滅したものでもない根源的なもの、
モノでも感情・想いでも、その大本を探る場合、
言葉で表現すると否定を繰り返すことになる。
「私」はあれではない、これではない・・・
「心」はそれではない、これでもない・・・
「しあわせ」はAではない、Bでもない・・・
それは不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、
否定して、対立する概念を捨てて本来のものに行き着く。
否定して否定して、最後に否定できない究極の真理に至る。
でも、
否定して、最後に何も残らないかもしれない。
または、
総てを否定した後、
最後に否定する心が残る、とも考えられる。
いずれにしても、
総てを否定した後、
最後に否定する心が残る、とも考えられる。
いずれにしても、
最後の究極は、どのようなものであろうか。
否定の立場からは、
すべてのもの(本質)は不生不滅であるけれど、
現実のものは仮に生まれ、仮に滅している、とする。
これは、
迷っている立場から、悟りに向かう、
スタートからゴールに至る考えかたである。
もうひとつ、
総てを肯定する方法がある。
真実在を直接観ること、
それは、実の如く自心を知ることなのだけれど、
総てのものの真実在を観ることである。
このとき、
不生不滅、不垢不浄、不増不減ではなく、
生と滅、垢と浄、増と減などは問わない。
真実在は不生だから。
世の中の総ては歴然として存在するけれど、
本質は不生不滅である。
見かたを変えれば、
もとより在るもので常住である。
これは、
肯定の思想、
ゴール(悟り)からスタート(迷いの現実)を観た考えかた。
だから、瞑想修行によって悟ることができる。
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