今月は広島、長崎、月遅れのお盆、終戦記念日・・・
亡くなった人を思う8月です。
故人の菩提を祈るために、
普段から仏壇をきれいにして、自分が食べる前に「お先にどうぞ」とご飯を供えるような心が、最高の供養になります。
お盆お施餓鬼ご法事などでも、故人先祖を迎えて心地良く過ごしてもらう心遣いが家の中にあれば、何も問題ありません。
何か不安があったり、自分の心が迷っていると、おまつりの仕方など形式にこだわり、何でもマイナス思考になります。祟りが怖い、なんてね。
怖い恐ろしいものが元々あって怯えるのではなく、不安で迷う心が、怖い恐ろしいものを作りだして怯えている、
というようなことが間々あります。
先日、義父母の墓参りに行きました。
その広大な墓地にはたくさんの墓石が並んでいましたが、墓石の横に墓碑を立てているお墓も多い。
墓碑は死者の経歴や人柄を記したものですが、最近では故人の戒名俗名命日が簡単に刻まれているだけのものがほとんど。
その「墓碑」すべてが「墓誌」と記されている。
本来、墓碑は墓石のそばに立てるもので、死者とともに地中に埋めるのが墓誌です。
間違いもこれだけ多くなれば、というか全部が間違っていれば、それは正しいことになってしまのだろうな。
あの戦争も、広島も長崎も、福島も・・・。
墓誌は死者とともにある、ということが大切なのだけれど、
日本では、せっかく作ったものを土に埋めてしまっては誰も見ることができないから、墓誌を墓碑として名前を変えずに(おそらく正しい名称を知らずに)外に立てたのでしょう。
死者とともにあるより、生きている人に見せることを重視する。
お葬式も戒名も、そういうところがありますね。
真実とか「正しいこと」というのは非常に不安定なものですが、多くの場合、集団や流行りものの中には存在しないでしょう。
人が群れると、そこに「真実」が作られてしまうことがあります。
流行するものが正しい、とされることもある。
それはおもしろいことかもしれないけれど、幻影と同じでしょう。
仏教には三宝という大切なものがみっつあります。
仏宝
法宝
僧宝
の三つ
仏はブッダ。
法はブッダが説いた教え
僧は、それを伝えるもの
そのうち、ブッダの教えである法が、僕らが最もよりどころとするものです。
法は仏教の重要な概念のひとつで、
法則・真理、教法や説法、存在を意味します。法はサンスクリット語で「ダルマ」
その内容は、
諸行無常
全てのものは移り変わる
諸法無我
存在する全てのものは、因縁によって生じ、実体性がない
涅槃寂静
煩悩をなくせば、安らぎの世界がある
の三法印。
そしてあらゆるものには原因があり、縁と条件によっていつも変化している、という縁起の法則。
あらゆるものに実体はなく、仮にそう認識されているだけ、という「空」
などが仏教の法。
密教以前の仏教では、
煩悩を断つことで涅槃に、悟りに、心の静寂に至るとしていますが、煩悩を断つことはとても難しい。
だから、煩悩が無くなる状態=死によって悟りを得る可能性がある。肉体が無ければ煩悩の多くは滅することができるから、死に憧れる。
因果の法則から、生前に良い行いをしていれば死後、悟りの世界に行ける。
そのように考えました。
密教では、
この世でこの身体のままで悟れるとしているので、死後の思想は希薄です。
煩悩をうまくコントロールすれば、それがそのまま悟りになるのですが、
お大師さんの『般若心経秘鍵』には、
行き行きて、静かな涅槃の境地に至る。
去り去りて、根源的なさとりに入る。
迷いの中に生きている人は、世界は旅の宿、仮の宿である。
しかし、私たちが本来そなえて持っている、ただ一つの心が、帰るべき家であり、本来の拠り所なのである。
その家に帰るために、法を学び実践します。
イライラするような迷いも、落ち込むような不安も、どちらも陽性なものです。
動物性の陽性(Na)とくっついた陰性なPやNなどが排毒するときにおこる感情です。
陽性毒を排泄し、姿勢を良くし、呼吸を調え、心静かに座れば解決します。
亡くなった人を思う8月です。
故人の菩提を祈るために、
普段から仏壇をきれいにして、自分が食べる前に「お先にどうぞ」とご飯を供えるような心が、最高の供養になります。
お盆お施餓鬼ご法事などでも、故人先祖を迎えて心地良く過ごしてもらう心遣いが家の中にあれば、何も問題ありません。
何か不安があったり、自分の心が迷っていると、おまつりの仕方など形式にこだわり、何でもマイナス思考になります。祟りが怖い、なんてね。
怖い恐ろしいものが元々あって怯えるのではなく、不安で迷う心が、怖い恐ろしいものを作りだして怯えている、
というようなことが間々あります。
先日、義父母の墓参りに行きました。
その広大な墓地にはたくさんの墓石が並んでいましたが、墓石の横に墓碑を立てているお墓も多い。
墓碑は死者の経歴や人柄を記したものですが、最近では故人の戒名俗名命日が簡単に刻まれているだけのものがほとんど。
その「墓碑」すべてが「墓誌」と記されている。
本来、墓碑は墓石のそばに立てるもので、死者とともに地中に埋めるのが墓誌です。
間違いもこれだけ多くなれば、というか全部が間違っていれば、それは正しいことになってしまのだろうな。
あの戦争も、広島も長崎も、福島も・・・。
墓誌は死者とともにある、ということが大切なのだけれど、
日本では、せっかく作ったものを土に埋めてしまっては誰も見ることができないから、墓誌を墓碑として名前を変えずに(おそらく正しい名称を知らずに)外に立てたのでしょう。
死者とともにあるより、生きている人に見せることを重視する。
お葬式も戒名も、そういうところがありますね。
真実とか「正しいこと」というのは非常に不安定なものですが、多くの場合、集団や流行りものの中には存在しないでしょう。
人が群れると、そこに「真実」が作られてしまうことがあります。
流行するものが正しい、とされることもある。
それはおもしろいことかもしれないけれど、幻影と同じでしょう。
仏教には三宝という大切なものがみっつあります。
仏宝
法宝
僧宝
の三つ
仏はブッダ。
法はブッダが説いた教え
僧は、それを伝えるもの
そのうち、ブッダの教えである法が、僕らが最もよりどころとするものです。
法は仏教の重要な概念のひとつで、
法則・真理、教法や説法、存在を意味します。法はサンスクリット語で「ダルマ」
その内容は、
諸行無常
全てのものは移り変わる
諸法無我
存在する全てのものは、因縁によって生じ、実体性がない
涅槃寂静
煩悩をなくせば、安らぎの世界がある
の三法印。
そしてあらゆるものには原因があり、縁と条件によっていつも変化している、という縁起の法則。
あらゆるものに実体はなく、仮にそう認識されているだけ、という「空」
などが仏教の法。
密教以前の仏教では、
煩悩を断つことで涅槃に、悟りに、心の静寂に至るとしていますが、煩悩を断つことはとても難しい。
だから、煩悩が無くなる状態=死によって悟りを得る可能性がある。肉体が無ければ煩悩の多くは滅することができるから、死に憧れる。
因果の法則から、生前に良い行いをしていれば死後、悟りの世界に行ける。
そのように考えました。
密教では、
この世でこの身体のままで悟れるとしているので、死後の思想は希薄です。
煩悩をうまくコントロールすれば、それがそのまま悟りになるのですが、
お大師さんの『般若心経秘鍵』には、
行き行きて、静かな涅槃の境地に至る。
去り去りて、根源的なさとりに入る。
迷いの中に生きている人は、世界は旅の宿、仮の宿である。
しかし、私たちが本来そなえて持っている、ただ一つの心が、帰るべき家であり、本来の拠り所なのである。
その家に帰るために、法を学び実践します。
イライラするような迷いも、落ち込むような不安も、どちらも陽性なものです。
動物性の陽性(Na)とくっついた陰性なPやNなどが排毒するときにおこる感情です。
陽性毒を排泄し、姿勢を良くし、呼吸を調え、心静かに座れば解決します。
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