いろいろと事情があってお葬儀をしなかった、できなかったというかたから、お盆のお経を頼まれることもあります。
お葬儀をしていないから位牌も戒名もない。
ちなみに位牌は、
戒名などを記した木の板で霊の依り代。そこに故人の魂が宿る。
だから、位牌は開眼作法をして、ただの木から拝む対象にします。魂を入れる、などと言う。
戒名は
仏道修行者の名前。
仏教は修行の宗教なので、修行に適した戒律を受け、それを守るしるしとして戒名を持ちます。
お坊さんは修行者だから、その名は全員戒名。僕の晃仁もそう。
仏門に帰依した信玄、謙信、弁慶もみな戒名です。
修行もしないのに戒名をつけてどうするんだ、というような気もするけれど、その辺はちょっと小難しい。
修行はしないけれど、お金でお免状をもらうようなものだろうか。
おそらく、「死後に成仏する」という思想ができてから、故人に戒名を授ける風習が生れたのだろうけれど、本来「成仏」は「悟ること」。仏に成る、ブッダになること。
いずれにしても、
キリスト教や神道や無宗教の家にも戒名や位牌は無いでしょうから、無くても問題はありませんが、お盆のお経は仏教の作法ですし、僕が拝むのだから仏教の儀式になります。
そんな時ももちろん、俗名で至心に拝みます。
僕の作法を見たり読経を聞いて、遺族の心がやすらかになるのなら、僕も功徳を積める。
仏教の葬儀作法や戒名については僕もいろいろ思うところがあります。
でも、あまり正論を言うと困る人もいるでしょうからここには書きませんが、拝んであげたい、という遺族の気持ちがとても大切。
最近では、
葬儀はしない、しても簡素なものにする、という人は増えています。
反面、以前はほとんどなかったペットの葬儀供養はきちんとする人は増えています。
結婚式や七五三や成人式など、人生の節目の儀式も不要とする人が少なくないようです。
でも、霊魂前世スピリチュアルなことに関心を持つ人も少なくありません。
どうなんでしょうかね。
精神世界では、儀式や象徴は真理を伝える方便として重要なはずです。
人が死ぬと、その思い出が美化される場合と、恨みつらみが増える場合があります。
どちらも、死んだ人には関係ありません。生きている人の勝手な思い込みです。
残された人が幸運になるには故人のおかげもあるでしょうが、不運になるのも死んだ人の影響があります。
だから、故人の良いところを踏襲し、悪いところは反面教師として学べば良いのですが、なかなか生きている人の目や耳は煩悩で曇っているため、そうも行かないことが多い。
葬儀や法事はそれを振り返る良い機会になります。
ただ葬儀や法事でなくてもそれはできます。生きかたの問題ですが、精進努力しない人はそれまでなのです。
生前、感謝も何もしなかったから葬儀法事を盛大にすれば供養になる、とは言えません。自分がそう思いたいだけのことです。
でも、そうして安心するのも生きかたの重要なテクニックです。
僕らは何のために生きているのでしょうか。
それを考えると、僕はせめて供養の読経をしたくなる。
その報恩感謝の思いが、僕をより成長させてくれ、家族や友人知己に対して、もっと優しくなれそうだからです。
あらゆる宗教の出発点は「死」です。
お釈迦さまも死を苦しみのひとつとしていました。
死は苦しみや恐怖だから、遺族は死んだ人の死後の幸福を願うようになります。
死者が不幸であれば祟りがあるかもしれない。だから、死者を幸福にするために葬儀などの儀礼が生まれたのでしょう。
仏教の因果の法則から見れば、人は生前の生きかたによって死後の幸不幸が決まるはずです。
善業を積めば極楽へ、悪業を重ねれば地獄へ、と。
それなのに、故人のために葬儀法事をすれば死者が浮かばれる、とするのは、やはり死が苦しみだからでしょうか。
僕は自分の死に際して、考えていることがあります。
死ぬのは僕ですが、その後のことは家族に任せるしかありません。残った家族がしたいようにすればそれでも良いのですが、少々希望がある。
その僕がいつ死ぬかは望診法でわかるけれど、まだ死相は出ていないので、もう少し生きるみたい。
手は脳に、足は心臓につながっています。
脳には食べたものでできた血が流れます。
五感は脳を刺激します。
これらを注意すれば、長患いせず、医療費の無駄遣いをせず、きれいな死を迎えることができるでしょう。
お葬儀をしていないから位牌も戒名もない。
ちなみに位牌は、
戒名などを記した木の板で霊の依り代。そこに故人の魂が宿る。
だから、位牌は開眼作法をして、ただの木から拝む対象にします。魂を入れる、などと言う。
戒名は
仏道修行者の名前。
仏教は修行の宗教なので、修行に適した戒律を受け、それを守るしるしとして戒名を持ちます。
お坊さんは修行者だから、その名は全員戒名。僕の晃仁もそう。
仏門に帰依した信玄、謙信、弁慶もみな戒名です。
修行もしないのに戒名をつけてどうするんだ、というような気もするけれど、その辺はちょっと小難しい。
修行はしないけれど、お金でお免状をもらうようなものだろうか。
おそらく、「死後に成仏する」という思想ができてから、故人に戒名を授ける風習が生れたのだろうけれど、本来「成仏」は「悟ること」。仏に成る、ブッダになること。
いずれにしても、
キリスト教や神道や無宗教の家にも戒名や位牌は無いでしょうから、無くても問題はありませんが、お盆のお経は仏教の作法ですし、僕が拝むのだから仏教の儀式になります。
そんな時ももちろん、俗名で至心に拝みます。
僕の作法を見たり読経を聞いて、遺族の心がやすらかになるのなら、僕も功徳を積める。
仏教の葬儀作法や戒名については僕もいろいろ思うところがあります。
でも、あまり正論を言うと困る人もいるでしょうからここには書きませんが、拝んであげたい、という遺族の気持ちがとても大切。
最近では、
葬儀はしない、しても簡素なものにする、という人は増えています。
反面、以前はほとんどなかったペットの葬儀供養はきちんとする人は増えています。
結婚式や七五三や成人式など、人生の節目の儀式も不要とする人が少なくないようです。
でも、霊魂前世スピリチュアルなことに関心を持つ人も少なくありません。
どうなんでしょうかね。
精神世界では、儀式や象徴は真理を伝える方便として重要なはずです。
人が死ぬと、その思い出が美化される場合と、恨みつらみが増える場合があります。
どちらも、死んだ人には関係ありません。生きている人の勝手な思い込みです。
残された人が幸運になるには故人のおかげもあるでしょうが、不運になるのも死んだ人の影響があります。
だから、故人の良いところを踏襲し、悪いところは反面教師として学べば良いのですが、なかなか生きている人の目や耳は煩悩で曇っているため、そうも行かないことが多い。
葬儀や法事はそれを振り返る良い機会になります。
ただ葬儀や法事でなくてもそれはできます。生きかたの問題ですが、精進努力しない人はそれまでなのです。
生前、感謝も何もしなかったから葬儀法事を盛大にすれば供養になる、とは言えません。自分がそう思いたいだけのことです。
でも、そうして安心するのも生きかたの重要なテクニックです。
僕らは何のために生きているのでしょうか。
それを考えると、僕はせめて供養の読経をしたくなる。
その報恩感謝の思いが、僕をより成長させてくれ、家族や友人知己に対して、もっと優しくなれそうだからです。
あらゆる宗教の出発点は「死」です。
お釈迦さまも死を苦しみのひとつとしていました。
死は苦しみや恐怖だから、遺族は死んだ人の死後の幸福を願うようになります。
死者が不幸であれば祟りがあるかもしれない。だから、死者を幸福にするために葬儀などの儀礼が生まれたのでしょう。
仏教の因果の法則から見れば、人は生前の生きかたによって死後の幸不幸が決まるはずです。
善業を積めば極楽へ、悪業を重ねれば地獄へ、と。
それなのに、故人のために葬儀法事をすれば死者が浮かばれる、とするのは、やはり死が苦しみだからでしょうか。
僕は自分の死に際して、考えていることがあります。
死ぬのは僕ですが、その後のことは家族に任せるしかありません。残った家族がしたいようにすればそれでも良いのですが、少々希望がある。
その僕がいつ死ぬかは望診法でわかるけれど、まだ死相は出ていないので、もう少し生きるみたい。
手は脳に、足は心臓につながっています。
脳には食べたものでできた血が流れます。
五感は脳を刺激します。
これらを注意すれば、長患いせず、医療費の無駄遣いをせず、きれいな死を迎えることができるでしょう。
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