津波で沈んだ土地にも、今では緑が鬱蒼と茂っています。
塩気は大丈夫だったのだろうか。
草木はなんと強いのか。
冬の雪と同じように、夏の草は醜いもの悲惨なものを覆い隠してくれます。
僕らの心も、面倒なものや嫌なものを隠す傾向がある。
あの日、宮城沿岸は雪。
その後の数日で、濡れた身体そのままで低体温になり、多くの人が亡くなりました。
ここは安全のはず、と思っていた指定避難場所にも津波がきて、多くのかたが流されました。
そのひとつの小学校体育館でも、加持土砂を散じて読経。
もう、幽霊やお化けは出てこなくていいんだよ、と至心に拝む。
ああ、ここか
と思う風景があります。
家が重なるように流される港を何度もテレビで観た、高台の石巻・日和山公園からの景色もそう。
海近く日和大橋のたもとで、加持香を散じて読経。
被災地は広い。
被災して広くなった。
人がいなくなって広くなった。
そういうところが少なくない。
そして、海も山もとても美しい。
高台移転などのために削られる山は痛々しいけれど。
徳島での棚経中、
福島の放射能は大丈夫なの?
と数人のかたから聞かれました。
発電所周辺はともかく、当地郡山中通り地方は問題ありません。
大人も子どもも食べ物も。
被ばく症状の見聞はまったくありません。
放射性物質による陽性過多の症状、放射線被ばくによる陰性過多の症状、どちらも望診に現れていません。手相人相は将来の状態が出ます。
都会と田舎の意識の差はあるでしょうが、それはどこにでもあるレベルです。
低線量被ばくを懸念する人たちはいます。
でも、事実に沿った、理論的バックボーンがある主張は聞こえてきません。
時折、何か特殊な思想が見えることがあります。
時が立つと心は変わるけれど、事実は変わらない。
大切なのは美しい思い出。モノは邪魔になることが多い。
青々とした草原は美しいけれど、草いきれは何か胡乱なものも感じる。
そして、
美しい思い出は、時にとても苦しい。