ネックレス、指輪、時計、ブレスレットなどの「金属製の輪」を身に着けていると、五感がちょっとニブくなります。
身体に必要なものはおいしく心地よく感じるものですが、輪をつけていると、それができなくなる。美しいものに気がつきにくくなる。鈍感になる。
時間を計る必要があって腕時計をつけて仕事をしていたら、喉の渇きが体調と連動しなかった。
三年振りに伺ったお宅で、
アンタ、誰だっけ?
と聞かれ、
スナガです。
と答える。
あーあー、あの福島の和尚さんね。分からなかったよ。
ええ、昔は若かったですから。
とおかしな受け答えをする。
何もかも変化することが諸行無常という真理なのだけれど、何よりも変わったのは僕の心。
僕の目や耳も以前とは違うものになっている。同じことを同じ人から聞いても、僕の耳は受け取りかたが変わっている。
苦手と感じていた人が、実は僕のことを色々心がけてくれていたと知ったり、反対に、心安いと思っていた人が、実はうわべだけの中身のない人間と知ることもある。
孔子さまは言いました。
徳をそなえた人物は、必ず、すばらしい言葉を言うものだ。
しかし、すばらしい言葉を言ったものが、必ずしも徳のある人物とは限らない。
(『論語』憲問十四)
自分がそうである、と知るのにも時間がかかる。
密教では法身が説法する、つまり真理そのものがダイナミックにその内容を僕らに伝える、としています。
それに気がつかつかないのは、こちらの受信状態が良くないだけのこと。
高性能のラジオは良い音を聞かせてくれるけれど、オンボロラジオは何も受信できない。
自分にとって好ましくないところにも如来の導きがある、とお大師さんは言う。
自然界人間界の諸々の動き、形、色は、みな如来の説法である、と『声字実相義』にある。
暑い日に風が吹く。
ああ、涼しくて気持ちがいい
と感じる。
それが真理を伝えるひとつのかたち。
地球上のすべてのものは元素でできており、それを構成要素として生命がある。
生命は進化し、太陽などのエネルギーを受けて生きている。
そのことこそが如来の説法である。
動物植物いろいろな生命があり、同じ種類の生き物は姿形が似ている。
それも真理を僕らに示す一端である。
同じ種類の生き物でも、個性によって違いがある。少しづつ違う。
そして、それぞれの個は、自分の生を営み、他と交わる。
だから、あなたにも僕にも、自他両方の姿がある。
それらはみんな、呼吸のように交感しあって秩序を保っている。
だから、そのひとつである僕も、真理の現れである。
それを自覚しなさい、というのが真言密教の立場です。
ああ、暑いのは真理の現われである。暑いと感じる僕もそうである。
そう考えると、暑いことがとてもありがたく嬉しい。
書いたことに責任を持てるようにします。
ありがとうございます。