昨日28日はお不動さんの縁日、
例年通り福島市遍照院・秋季大祭に参坐して諸願成就をお祈りいたしました。
お不動さんは大日如来の使者。
大日如来は、宇宙の真理を体現する象徴的な法身(ダイナミックな真理そのもの;教えそのものが身体となったもの)、全ての仏菩薩の本体。
仏の世界を表すマンダラの中心仏。
大日経など密教経典の説き手。
顕教がお釈迦さまの教えで、密教は大日如来の教え。
で、
大日如来はその存在が大きく、ありとあらゆるものを含んでかなり壮大なため、かえってわかりにくい。
なので、阿弥陀さんや観音さん、お地蔵さんやお薬師さんなど、多くの尊格がその役割を分け合って担当しています。
不動明王は大日さんの化身、あるいは使者として、
難化な衆生を教えに導く役割を負っています。
大日さんはごついから、完璧すぎるから
僕らはわかりやすい、なじみやすい地蔵観音不動などの姿で、仏に接することが多い。
でもね、
観音さんもお地蔵さんもお不動さんも、
みな僕らと比べれば異形です。
大日以外の如来さまはみな、装飾はつけずシンプルなお姿で表現されます。
それに比べて大日如来は、
宝飾の冠や首飾りや腕輪など、
如来では珍しく菩薩のように装飾を多くつけたお姿です。如来の中でも際立った立場だから。
つまり、
僕らの姿と同じ。
(仙台市 西光院 大日如来坐像)
十一面観音や千手観音、お不動さんと僕らはまったく違う姿だけれど、大日如来とは同じ。
僕らは大日如来である、という可能性は高い。
密教は、煩悩や悪を滅する避ける、というよりは、
悪い思いや行いを、修行によって自他を救う大きな力に変えようとする立場です。
大日如来はそういう考えかたの仏。
『性霊集』巻第七には、
いのちのありのままのすがたを象徴する大日如来は何処におられるのか
それは遠き彼方ではなく
わが身体の中におられる。
その如来の示されるいのちの無垢なる知は、なんと
わが心の中にあり
とても近い。
『理趣経』が帰命毘盧遮那(大日如来のこと)で始まり、ヒロシャダフ(大日如来のこと)で終わるように、
真言密教は大日如来の宗教であり、どこへ行っても大日如来の中であり、
いつどこでも大日如来を拝みます。
それは完璧な存在であり、
それは一塵の砂の中に、
宇宙全体に、
すべての命の中に
僕の心のなかに
あります。
ところで、
仏教の基本は突き詰めると、
『スッタニパーダ』第4章5章にある
和顔愛語:いつも微笑んで優しい言葉をかけること
少欲知足:まあ、いいか、と思うこと。
http:// ci.nii. ac.jp/e ls/1100 0704302 1.pdf?i d=ART00 0897002 4&type= pdf&lan g=jp&ho st=cini i&order _no=&pp v_type= 0&lang_ sw=&no= 1445852 304&cp=
このふたつが身についていれば、仏者としてどこでも他を救うことができます。。
このふたつが基本になって、密教はさらに大きな願いを持ちます。
お大師さんの願文には、
毛鱗角冠、蹄履尾裙、有情非情、動物植物、同じく平等の仏性を鑑みて、たちまちに不二の大衍を証ぜん (『性霊集』式部笠丞が為の願文)
毛のあるもの、鱗のあるもの、ツノ、蹄、尻尾があるもの、すべての生き物が悟りを開いて幸せになるように、
みんなが悟りを開きますように
このような言葉が多いですが、
それが大日如来の心。
例年通り福島市遍照院・秋季大祭に参坐して諸願成就をお祈りいたしました。
お不動さんは大日如来の使者。
大日如来は、宇宙の真理を体現する象徴的な法身(ダイナミックな真理そのもの;教えそのものが身体となったもの)、全ての仏菩薩の本体。
仏の世界を表すマンダラの中心仏。
大日経など密教経典の説き手。
顕教がお釈迦さまの教えで、密教は大日如来の教え。
で、
大日如来はその存在が大きく、ありとあらゆるものを含んでかなり壮大なため、かえってわかりにくい。
なので、阿弥陀さんや観音さん、お地蔵さんやお薬師さんなど、多くの尊格がその役割を分け合って担当しています。
不動明王は大日さんの化身、あるいは使者として、
難化な衆生を教えに導く役割を負っています。
大日さんはごついから、完璧すぎるから
僕らはわかりやすい、なじみやすい地蔵観音不動などの姿で、仏に接することが多い。
でもね、
観音さんもお地蔵さんもお不動さんも、
みな僕らと比べれば異形です。
大日以外の如来さまはみな、装飾はつけずシンプルなお姿で表現されます。
それに比べて大日如来は、
宝飾の冠や首飾りや腕輪など、
如来では珍しく菩薩のように装飾を多くつけたお姿です。如来の中でも際立った立場だから。
つまり、
僕らの姿と同じ。
(仙台市 西光院 大日如来坐像)
十一面観音や千手観音、お不動さんと僕らはまったく違う姿だけれど、大日如来とは同じ。
僕らは大日如来である、という可能性は高い。
密教は、煩悩や悪を滅する避ける、というよりは、
悪い思いや行いを、修行によって自他を救う大きな力に変えようとする立場です。
大日如来はそういう考えかたの仏。
『性霊集』巻第七には、
いのちのありのままのすがたを象徴する大日如来は何処におられるのか
それは遠き彼方ではなく
わが身体の中におられる。
その如来の示されるいのちの無垢なる知は、なんと
わが心の中にあり
とても近い。
『理趣経』が帰命毘盧遮那(大日如来のこと)で始まり、ヒロシャダフ(大日如来のこと)で終わるように、
真言密教は大日如来の宗教であり、どこへ行っても大日如来の中であり、
いつどこでも大日如来を拝みます。
それは完璧な存在であり、
それは一塵の砂の中に、
宇宙全体に、
すべての命の中に
僕の心のなかに
あります。
ところで、
仏教の基本は突き詰めると、
『スッタニパーダ』第4章5章にある
和顔愛語:いつも微笑んで優しい言葉をかけること
少欲知足:まあ、いいか、と思うこと。
http://
このふたつが身についていれば、仏者としてどこでも他を救うことができます。。
このふたつが基本になって、密教はさらに大きな願いを持ちます。
お大師さんの願文には、
毛鱗角冠、蹄履尾裙、有情非情、動物植物、同じく平等の仏性を鑑みて、たちまちに不二の大衍を証ぜん (『性霊集』式部笠丞が為の願文)
毛のあるもの、鱗のあるもの、ツノ、蹄、尻尾があるもの、すべての生き物が悟りを開いて幸せになるように、
みんなが悟りを開きますように
このような言葉が多いですが、
それが大日如来の心。
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