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[ 2024/11/24 05:48 | ]
大空三昧
お父さん、1と0.999...は数学では同じなんだよ。

と息子が言う。


分数1/3は小数にすると0.333...

つまり

1/3=0.333...

両辺に3をかけると、

3×1/3=3×0.333...

1=0.999...



これは代数を使うとすっきりする。

c=0.999...

10c=9.999...

10c-C=9.999...-0.999...

9C=9

C=1


つまり 1=0.99999…

ともあれ、数学は美しい。



それはさておき、

『菩提心論』は真言密教にとって重要な書物で、作者は龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)。

漢訳したのは不空三蔵。

龍猛さんは1800年くらい昔に南インドにいらした偉いお坊さん。大乗仏教の哲学的基礎を作った人。

不空さんは西域の出身でインドから中国へ多くの経典を伝えた、お大師さんの師僧の師僧。



『菩提心論』の正式な名は『金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論』

読みかたは

こんごうちょう ゆがきょう の中において あのくたら さんみゃくさんぼだいしん を発する論。

訳せば、

無上の正しく完全なるさとりを志求する心がいかなるものかを論じたもの。



以下、栂尾祥雲先生の『現代語の十巻章と解説』を参考に書きます。



仏教との目的は

心の眼を開くこと

真実に目覚めること

すなわち無上の覚りをひらくこと


人が名誉ある役職に就きたいのなら、まずその名誉ある役職を志求する心を起こし、その役職を修めるに足りる「つとめ」を果たさなければならない。

人がお金を求めるなら、同じようにそのお金を求める心を起こし、お金を手に入れるに足りる努力をしなければならない。

善にしても悪にしても、志を掲げ、それを成し遂げる努力が必要である。


菩提(さとり)を求むるにも同じ。まずは菩提心を発してから始まる。

無上のさとりを求めて、その心を失わない、というのが菩提心。


菩提心の内容は

道を求めること

自他を救うこと

心をコントロールしてまとめること

の三つ。


世の中の人は名誉、利益、暮らしの物に執着して、自分の営みにのみ安住し、ほしいままに貪りと怒りと愚かさと、目・耳・鼻・舌・身の感覚の欲望に行じている。

また、少し程度の良い心になっても、健康や長寿や良き来世を求めて、それが極りだと思っている。

善業によって健康や長寿を得ても、まだこの世の迷いは消えず、善業が尽きれば悪業の結果が訪れることを知らない。人には善と悪の両方があることに気がつかない。


また、宗教的な心を持ったとしても、自分の執着からは離れて煩悩を滅しても、その執着や煩悩を起こす自分は存在していると錯覚している。

意識は浄化できても、その意識を生み出す自我を浄化できず、自我を生み出す根本的な種子を知らない。

だから、いつも一瞬の安らぎしか得られずに、また苦しみに戻る。

そして他を救うことが出来ない。


快楽も不快も、心の上に現れた一時の幻に過ぎない。

例えば、何かの音がするのは音がするだけのこと。

それをうるさいと感じ、うるさいと言うのは心の問題である。

同じく、その音声を良い声だ、素敵な音だ、心安らぐと感じるのも心である。

そのどちらもが煩悩と執着の結果、どちらも心は乱れている。

好ましいとか不快とか、そのどちらでもない状態、ただ音がある、というだけが寂静でやすらいの心、覚りである。


大日経には

あらゆるものは姿の無いものである。虚空の姿である

と説かれている。



自他を救うことは、

あらゆるものを利益し安楽ならしめること。

それには、あらゆるものに対して自分自身を観るのと同じくすることである。

利益とは、あらゆる人を勧めて、静かな心に安住させること。

安楽とは、すべての人は仏なのだから、いかなるものもさげすんだり侮ったりしてはならないということ。


これが身体であり、これが心であるというような差別をせず、大空の三昧(やすらい)の中に入り、静けさの智慧に住して、怠け退く心が無くなるのが覚りである。

勉強修行中に心が乱れる時は、その乱れた心はどこから来たのかを観察し、その原因と条件を見極めれば、それはかりそめのもので性無きものであり、つまりは空であるとの観かたに住して、妄心に追随してはならない。

そうして妄心がやむとき、心の源が安らかになる。



執着や妄想から離れても、なお衆生と仏の間には無始の間隔がある。これはごく微細な間隔。

この一惑を取り除くために、心を統一させる行を修すのである。



最も大切なのはこの心の統一法で、これは単に無念無想になるということではなく、事理不二、物心一如の立場から月輪、蓮華、香、灯明などの事物の中に正念を統一してそこを流れる生命に触れ、一事一物の中に生きた本尊としての仏を発見し、それに融合し合一すること。



『大日経疏第三』には、

所作あるにしたがってみな三摩地と相応し、花を献ずるときのごとき、花と三摩地と相応し、その中の本尊、明了に現前す。乃至、核の如くにして、一一の縁の中に、みなこれ法門界に入る

とある。

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[ 2013/04/23 17:02 | 米ぞうの家 ]



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