山の下草刈りをして、山椒の実を摘む。
塩漬けと醤油漬け。しばらく楽しめます。
それはさておき、
最近はお葬式をしない人が増えています。お墓はいらない、という家もある。
昔のような、
元服や徴兵検査はだれもやらないだろうけれど、
七五三、成人式、入学式、還暦や喜寿なども、
出席しない、参加しない、行わない人は昔からいます。してもしなくてもどちらでもよい。
その人、その家庭の方針で決めるもの。
だから、
結婚式も葬式も、してもしなくてもよいけれど、
それをしないのは心がけが悪いとか、人としてどうか、ということではない。
最近は法事を行わない家も少なくない。
三回忌、七回忌などを年忌と云います。
しかし、仏教で故人を追善供養するのは中有の七七日(いわゆる「しじゅうくにち」)まで。
これは『大灌頂経』『梵網経』に典拠がある。
その後の百か日、一周忌、三回忌は中国の風習です。かの国で作られた『十王経』によるところが大きい。それでも、三回忌までです。
その後、七回忌以降は日本の風習で、起源はあきらかでない。
江戸時代の檀家制度のため(キリシタン禁制のため)、寺院維持の収入を増やすためなど、
いろいろ考えられます。
いずれにしても、仏教が関わらなくても祖先崇拝は自然の感情ですから、
年忌に関わらず、人は故人先祖を尊敬し供養します。
ところで、
七七日を満中陰と云います。中陰が満ちる。
中陰はサンスクリット語の antarabhāvaの訳で、antara(中間の)bhāva(生存状態)ということ。
これは旧約で、新訳では「中有(ちゅうう)」と云います。
『倶舎論』などでは、衆生が輪廻するサイクルを四つに分けています。
1、生有:精子卵子合一した妊娠の一刹那
2、死有:死の一刹那
3、本有:生有より死有にいたるまで
4、中有:死有より生有にいたるまで
1,2,3、は分かりやすいですが、問題は4、ですね。
『大毘婆沙論』70では、中有の生存期間を、
1、短期間
2、七日間
3、四九日
4、不定
のいずれかとしています。
初期仏教の大衆部などでは、
死の一刹那に、ただちに次の生を受ける
つまり、中有は無い、という立場もあります。
なぜ、4種類の期間があるかといえば、
中有の期間に、
次の生に父母と予定されているものが性交を行えば、
中有は直ちにそこへ赴いて妊娠にあずかる
と考えたようです。つまり、
妊娠成立の条件は、女性の排卵、男女の性交だけではなく、中有の顕現がある、
ということ。
中有は、自分の父母に予定されている男女が性交を始めると、
空間的にいくら隔たっていても、直ちにそれを感得し、一瞬にしてその場に顕現する
と『瑜伽師地論』1にあります。
輪廻の主体は中有、ということになる。
この中有の運命は前世の業によって決まっています。地獄か極楽か人間界か、父母はだれか、が決まっている。
そして人間の場合、
『大毘婆沙論』70によれば、
1、予定される父母が性交の機会に恵まれなかったら、他の父母に転じる
2、父母になるはずのものが、強制的に他の男女と交わり入胎する(中有の意志は必ず達成される)
とチャンスが二種類ある。
そういうことがあったのでしょうね。
肉体ではなく、心だけが輪廻する、という考えかたもあります。
『修行道地経』1には、
父母交合のときに心(精神)が赴く
『瑜伽論』には、
受精のときに、阿頼耶識(存在を決める根本的な識)が和合し依託する
とあります。
いずれにしても、
あらゆるものが空(実体が無い)ならば、
輪廻する実体も無いから、輪廻はありえない、と考えるか、
中有を信じると、
おそらく日々の行いを正し、臨終の姿勢を清めやすいですから
あたらな生(希望)のために一生懸命に生きよう
と考えるか、
今存在しているその事実こそが真実で素晴らしい、と考えるか、
仏教でもいろいろあります。
塩漬けと醤油漬け。しばらく楽しめます。
それはさておき、
最近はお葬式をしない人が増えています。お墓はいらない、という家もある。
昔のような、
元服や徴兵検査はだれもやらないだろうけれど、
七五三、成人式、入学式、還暦や喜寿なども、
出席しない、参加しない、行わない人は昔からいます。してもしなくてもどちらでもよい。
その人、その家庭の方針で決めるもの。
だから、
結婚式も葬式も、してもしなくてもよいけれど、
それをしないのは心がけが悪いとか、人としてどうか、ということではない。
最近は法事を行わない家も少なくない。
三回忌、七回忌などを年忌と云います。
しかし、仏教で故人を追善供養するのは中有の七七日(いわゆる「しじゅうくにち」)まで。
これは『大灌頂経』『梵網経』に典拠がある。
その後の百か日、一周忌、三回忌は中国の風習です。かの国で作られた『十王経』によるところが大きい。それでも、三回忌までです。
その後、七回忌以降は日本の風習で、起源はあきらかでない。
江戸時代の檀家制度のため(キリシタン禁制のため)、寺院維持の収入を増やすためなど、
いろいろ考えられます。
いずれにしても、仏教が関わらなくても祖先崇拝は自然の感情ですから、
年忌に関わらず、人は故人先祖を尊敬し供養します。
ところで、
七七日を満中陰と云います。中陰が満ちる。
中陰はサンスクリット語の antarabhāvaの訳で、antara(中間の)bhāva(生存状態)ということ。
これは旧約で、新訳では「中有(ちゅうう)」と云います。
『倶舎論』などでは、衆生が輪廻するサイクルを四つに分けています。
1、生有:精子卵子合一した妊娠の一刹那
2、死有:死の一刹那
3、本有:生有より死有にいたるまで
4、中有:死有より生有にいたるまで
1,2,3、は分かりやすいですが、問題は4、ですね。
『大毘婆沙論』70では、中有の生存期間を、
1、短期間
2、七日間
3、四九日
4、不定
のいずれかとしています。
初期仏教の大衆部などでは、
死の一刹那に、ただちに次の生を受ける
つまり、中有は無い、という立場もあります。
なぜ、4種類の期間があるかといえば、
中有の期間に、
次の生に父母と予定されているものが性交を行えば、
中有は直ちにそこへ赴いて妊娠にあずかる
と考えたようです。つまり、
妊娠成立の条件は、女性の排卵、男女の性交だけではなく、中有の顕現がある、
ということ。
中有は、自分の父母に予定されている男女が性交を始めると、
空間的にいくら隔たっていても、直ちにそれを感得し、一瞬にしてその場に顕現する
と『瑜伽師地論』1にあります。
輪廻の主体は中有、ということになる。
この中有の運命は前世の業によって決まっています。地獄か極楽か人間界か、父母はだれか、が決まっている。
そして人間の場合、
『大毘婆沙論』70によれば、
1、予定される父母が性交の機会に恵まれなかったら、他の父母に転じる
2、父母になるはずのものが、強制的に他の男女と交わり入胎する(中有の意志は必ず達成される)
とチャンスが二種類ある。
そういうことがあったのでしょうね。
肉体ではなく、心だけが輪廻する、という考えかたもあります。
『修行道地経』1には、
父母交合のときに心(精神)が赴く
『瑜伽論』には、
受精のときに、阿頼耶識(存在を決める根本的な識)が和合し依託する
とあります。
いずれにしても、
あらゆるものが空(実体が無い)ならば、
輪廻する実体も無いから、輪廻はありえない、と考えるか、
中有を信じると、
おそらく日々の行いを正し、臨終の姿勢を清めやすいですから
あたらな生(希望)のために一生懸命に生きよう
と考えるか、
今存在しているその事実こそが真実で素晴らしい、と考えるか、
仏教でもいろいろあります。
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