Aさんは、カップ麺の類はとても身体に悪いものだから子どもには決して食べさせたくない、と思っている。
また震災が起きて避難所生活になったら、食べるものがカップ麺くらいしかないかもしれない。その時はどうしたらよいだろうかと悩んでいる。
B君は心に少し不自由があるのだけれど、DSのゲームをしていれば安心していられる。けれど、お母さんや保育園の先生はゲームは良くないものだから、みんなと外で遊びなさい、と言う。
その遊びも、ウルトラマンごっこのような戦いは良くないと言って、それをさせてくれない。B君はウルトラマンが大好きで、ウルトラマンごっこをしていれば明るく楽しく朗らかになれるのに。
Cさんは美人で聡明だけれど、陽性なアトピー症状で悩んでいる。
陽性なのだから、陽性な玄米は食べないほうがいい。陰性な果物やジュースをたくさん飲んだほうが良いとアドバイスを受けても、それを受け入れることが出来ない。
Dさんは法事の席で数珠のひもが切れた。その後、娘さんのボーイフレンドが交通事故に会った。
あの時、数珠のひもが切れたからだ、とずっと悩んでいる。
数珠が切れるのは拝んでいるからなのに。拝んでいない人の数珠は切れないのに。
でも、それらはみな、その人にとっては重要な問題です。
カップめんは食べてはいけない。
ゲームで遊んではいけない。
ヒーローもの、戦闘ものはいけない。
果物はいけない。
数珠が切れるのは良くない。
どうしてそうなのだろうか。
世の中にはしてはいけないことがあります。
日本は法治国家ですから、法的にしてはいけないことはしてはいけません。
人を殺めてはいけないし、贈収賄も賽銭泥棒もいけない。酔っ払い運転も麻薬もだめです。
法律の外でも倫理道徳として、してはいけないことがあります。僕らが社会で平安に暮らすために、それは守ったほうがいい。
宗教、特に仏教では、してはいけないことはありません。この辺は誤解されやすいですが、少なくとも仏教では何でもありです。
戒律は「してはいけないこと」ではなく、目的をもって修行すれば自然とそれから離れる、ということに過ぎません。
宗教は極めてプライベートなことですが、宗教的でなくてもその人の生きかたの中に、個人的に「してはいけないこと」を持つこともあります。
それらは、心身の成長成熟に役立ちます。
若いうちは作法通り、儀式通り、約束通りに練習すれば、その積み重ねが技術智慧になります。
すると、だんだんに作法も儀式も約束も不要になり、自然と制限戒律から離れるようになります。不要だけれど身についているから。
無駄遣いをしない、という決まりを守ることが難しくても、お金を貯めたいという強い目的があれば、自然と無駄遣いをしなくなります。
練習して基礎的な力がついてくれば、次は応用問題に向かえます。
最初は練習が必要。
その練習が心身に染みこんでくれば、臨機応変に対応できるようになります。
多くの場合、純粋で強い動機があれば目的に達することができます。そこにジャンプする勇気と努力があれば。
個人的に「してはいけなこと」は個人の問題です。それが自己を成長させるものならとてもよろしい。
しかし、それは集団の中では意味がありません。害になることも多い。
そして、失敗するところに共通なのが、練習を重ねないままいつまでも「~してはいけない」という概念があることです。
また震災が起きて避難所生活になったら、食べるものがカップ麺くらいしかないかもしれない。その時はどうしたらよいだろうかと悩んでいる。
B君は心に少し不自由があるのだけれど、DSのゲームをしていれば安心していられる。けれど、お母さんや保育園の先生はゲームは良くないものだから、みんなと外で遊びなさい、と言う。
その遊びも、ウルトラマンごっこのような戦いは良くないと言って、それをさせてくれない。B君はウルトラマンが大好きで、ウルトラマンごっこをしていれば明るく楽しく朗らかになれるのに。
Cさんは美人で聡明だけれど、陽性なアトピー症状で悩んでいる。
陽性なのだから、陽性な玄米は食べないほうがいい。陰性な果物やジュースをたくさん飲んだほうが良いとアドバイスを受けても、それを受け入れることが出来ない。
Dさんは法事の席で数珠のひもが切れた。その後、娘さんのボーイフレンドが交通事故に会った。
あの時、数珠のひもが切れたからだ、とずっと悩んでいる。
数珠が切れるのは拝んでいるからなのに。拝んでいない人の数珠は切れないのに。
でも、それらはみな、その人にとっては重要な問題です。
カップめんは食べてはいけない。
ゲームで遊んではいけない。
ヒーローもの、戦闘ものはいけない。
果物はいけない。
数珠が切れるのは良くない。
どうしてそうなのだろうか。
世の中にはしてはいけないことがあります。
日本は法治国家ですから、法的にしてはいけないことはしてはいけません。
人を殺めてはいけないし、贈収賄も賽銭泥棒もいけない。酔っ払い運転も麻薬もだめです。
法律の外でも倫理道徳として、してはいけないことがあります。僕らが社会で平安に暮らすために、それは守ったほうがいい。
宗教、特に仏教では、してはいけないことはありません。この辺は誤解されやすいですが、少なくとも仏教では何でもありです。
戒律は「してはいけないこと」ではなく、目的をもって修行すれば自然とそれから離れる、ということに過ぎません。
宗教は極めてプライベートなことですが、宗教的でなくてもその人の生きかたの中に、個人的に「してはいけないこと」を持つこともあります。
それらは、心身の成長成熟に役立ちます。
若いうちは作法通り、儀式通り、約束通りに練習すれば、その積み重ねが技術智慧になります。
すると、だんだんに作法も儀式も約束も不要になり、自然と制限戒律から離れるようになります。不要だけれど身についているから。
無駄遣いをしない、という決まりを守ることが難しくても、お金を貯めたいという強い目的があれば、自然と無駄遣いをしなくなります。
練習して基礎的な力がついてくれば、次は応用問題に向かえます。
最初は練習が必要。
その練習が心身に染みこんでくれば、臨機応変に対応できるようになります。
多くの場合、純粋で強い動機があれば目的に達することができます。そこにジャンプする勇気と努力があれば。
個人的に「してはいけなこと」は個人の問題です。それが自己を成長させるものならとてもよろしい。
しかし、それは集団の中では意味がありません。害になることも多い。
そして、失敗するところに共通なのが、練習を重ねないままいつまでも「~してはいけない」という概念があることです。
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