先日、『維摩経』ってどんなお経ですか、
と縁者から聞かれました。
学生時代に仏教概論の講義で、
これはドラマ仕立てになっているからおもしろいよ
と教わったなあ。
主人公(維摩居士)の病気見舞いにいった菩薩たちが、仏教についていろいろ話します。
生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、自我と無我、迷いと悟りなどの相反する概念は、
もともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという話。
そして、
そのような対立するもの、相対する概念を超越したところに解脱の境地があるということを、
主人公は沈黙を持って示します。
岩波現代文庫に入っていますので、関心のあるかたはどうぞお読みください。
この経典のなかに、
心清浄なるがゆえに有情清浄なり
という言葉があります。
山は山、水は水、あなたはあなたで、それぞれが真如の妙体。
清浄でないものの姿は、清浄でない心の反映、ということ。
『釈論』には、
自分の心・仏・衆生が三平等であると知る心が、真理の根源、万有の本体であり、
善悪、美醜、大小、優劣の別相は不平等心に映る仮像
とあります。
僕らの本体は、
その中に仏の性質を具えている
ということで、
それが、心という姿をとります。
心という現象は、それが仏そのものであるという真理と一である、
ということ。
すべては平等であり、ふたつに分かれたものは元々ひとつのものである
というのは事実ですが、
それが清浄である、というのは価値判断。
仏教は、そういう立場です。
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