先日、
ある勉強会に出席したら、
講師先生の目尻に汚いシミがたくさんあった。
そこは奸門と云い、人間関係特に男女関係のトラブルがあると汚れが現れる。
肝臓の排毒がある、ということ。
いろいろ大変なのだろうなあ、と思い、平安を祈った。
過日、
さわやかな朝食会場で、若いご婦人と向かい合ってハムエッグを食べている紳士の眉が立っていた。
性交の後は眉毛が陰性になる。
陽性が抜けるということだから、自慰行為や生理でも同じようになる。
いろいろ頑張っているのだろうなあ、と思い、無事を祈った。
そう思ったり祈るのは心ですが、
仏教では、
心の主体(大日如来・私そのもの)
心の作用(その他の諸尊・私を構成している細胞それぞれ)
の二つを考え、
さらに密教では心を
チッタ :対象をとらえて思い計らう心、煩悩、迷いの元(悟りの元でもある) 現象
フリダヤ:心臓 仏身そのもの 真如そのもの
のふたつを考えます。
このふたつはひとつでふたつ。
『大日経』に書かれているのは、
本当の我(仏、悟り、心)が一切のものを自己の細胞として包蔵し、これを生かし、育む。
だから、一切を見ることは、自分自身を観ることと同じである。
悟り(幸せ)を求める最初の心から、悟り(幸せ)に至るまでの過程が人生であり、
つまりそれは、
如実に自心を知るための過程。
人生とは何かと云えば、
自心を知ることである。
なぜならば、
悟りも迷いも、心より生ずるから。
それらの心が大日始め、諸尊を存続させる。
心を見つめると、
貪り、怒り、慢心、疑い、妬みなどがあり、
それを冷静に観察し、他人に対する慈悲の働きかけを通して超克する
それが仏教徒の人生と云えます。
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