虹を観ると得した気分になる。
それは見えるけれど、実体は無い。
虹の色は連続しているから七色ではなく、七色と見ているだけ。
僕も同じように実体はなく、自分だ、と見ているだけ。
僕は虹のようなもの。
水晶に映るものは、水晶の中にあるように見えるけれど、実際には無い。
世の中のものも同じように、僕の心に映っているだけ。
それは、世の中のものに働きがあるのではなく、
僕そのものの性質の働きで映る。それが心。
心の力によって知覚している、内的なイメージ。
それを、あるがままのもの(仏性)と云い、
本来あるべきもの。
ところが、実際にあるものが、あるべきものになっていないだけ。
その、本来あるべきものは、さまざまな形をとって心に映る。
虹や水晶に写るもののように、そのまま現れるもの。
自分の楽しみのため、他を楽しませるために現れるもの。
何か教えてくれるものに化身してあらわれるもの。
自分の周囲にあるすべてのものに伴って現れるもの。
心には仏性があり、如来蔵なのだから、
すべてものは心の発現であり、仏である、ということになる。
そう考えると、
僕らの心は本来仏であるとともに、身体も仏身である。
それは見えるけれど、実体は無い。
虹の色は連続しているから七色ではなく、七色と見ているだけ。
僕も同じように実体はなく、自分だ、と見ているだけ。
僕は虹のようなもの。
水晶に映るものは、水晶の中にあるように見えるけれど、実際には無い。
世の中のものも同じように、僕の心に映っているだけ。
それは、世の中のものに働きがあるのではなく、
僕そのものの性質の働きで映る。それが心。
心の力によって知覚している、内的なイメージ。
それを、あるがままのもの(仏性)と云い、
本来あるべきもの。
ところが、実際にあるものが、あるべきものになっていないだけ。
その、本来あるべきものは、さまざまな形をとって心に映る。
虹や水晶に写るもののように、そのまま現れるもの。
自分の楽しみのため、他を楽しませるために現れるもの。
何か教えてくれるものに化身してあらわれるもの。
自分の周囲にあるすべてのものに伴って現れるもの。
心には仏性があり、如来蔵なのだから、
すべてものは心の発現であり、仏である、ということになる。
そう考えると、
僕らの心は本来仏であるとともに、身体も仏身である。
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