2011年10月、
高野山大学でのシンポジウムで、脳科学者の茂木健一郎氏が、
科学者は意識を全く解明できていない、
と話した。
光や音を感じ、だるい疲れた、などと感じる現象を科学的に解釈すると、
脳内にある神経細胞やニューロンが外部刺激に反応していることである。
そこには、
いわゆる意識というものは存在していない。
脳のシステムのどこにも意識は見当たらない。
神経細胞の分子は意識ではない。
意識を持つとはどういうことか、意識は存在しているのか、
これをどう調べていいのか、検討すらつかない。
でも、
私たちは「意識はある」と認識している。
それに対してダライ・ラマ猊下は、
たえず意識と向き合い、検証し、研究史、修行する。
そうして少しづつわかる。
固定観念を持たず、現実に起こっていることをつぶさに観察すること。
そして、部分をつなぎ合わせて全体像を把握する。
意識は、
現実にそう思われるものと、もっと究極的なものがあり、
それは何かから生み出されたのでも、消えるものでもない。
始まりも終わりもなく、引き継がれてゆくもの
と云う。
仏教では
心(citta チッタ)
意(mano マノ)
識(vijñāna,ヴィジュニャーナ)
を区別し、
識は対象を認識する心の作用。
たとえば、
眼が対象を認識して「見る」ことが眼識
意識は、
その見たものの色や形を、好き嫌いなどに認識区別する精神作用。
見たことを思うこと。
ところで、
因果の法則では、
原因が無いところには結果は生じない。
だから、神の創造とか自然に生まれる、ということは無い。思いも意識も同じ。
不変から結果は生じない。
永遠のものは変化しないから、原因にも結果にもならない。
だから、すべては無常で変化する。思いも意識も同じ。
原因には結果を生み出す素質がある。
だから、無関係のものからは生じない。思いも意識も同じ。
そして、
意識が行為に関係する。
困っている人を見た時に、
その人を救いたいと思う心の働き(意識)が起これば、助けるという行為になり、
その人が嫌いという心の働きがあれば、冷たい態度という行為になるかもしれない。
心によって異なる意識にもとづく行為が、何かの因果になる。
高野山大学でのシンポジウムで、脳科学者の茂木健一郎氏が、
科学者は意識を全く解明できていない、
と話した。
光や音を感じ、だるい疲れた、などと感じる現象を科学的に解釈すると、
脳内にある神経細胞やニューロンが外部刺激に反応していることである。
そこには、
いわゆる意識というものは存在していない。
脳のシステムのどこにも意識は見当たらない。
神経細胞の分子は意識ではない。
意識を持つとはどういうことか、意識は存在しているのか、
これをどう調べていいのか、検討すらつかない。
でも、
私たちは「意識はある」と認識している。
それに対してダライ・ラマ猊下は、
たえず意識と向き合い、検証し、研究史、修行する。
そうして少しづつわかる。
固定観念を持たず、現実に起こっていることをつぶさに観察すること。
そして、部分をつなぎ合わせて全体像を把握する。
意識は、
現実にそう思われるものと、もっと究極的なものがあり、
それは何かから生み出されたのでも、消えるものでもない。
始まりも終わりもなく、引き継がれてゆくもの
と云う。
仏教では
心(citta チッタ)
意(mano マノ)
識(vijñāna,ヴィジュニャーナ)
を区別し、
識は対象を認識する心の作用。
たとえば、
眼が対象を認識して「見る」ことが眼識
意識は、
その見たものの色や形を、好き嫌いなどに認識区別する精神作用。
見たことを思うこと。
ところで、
因果の法則では、
原因が無いところには結果は生じない。
だから、神の創造とか自然に生まれる、ということは無い。思いも意識も同じ。
不変から結果は生じない。
永遠のものは変化しないから、原因にも結果にもならない。
だから、すべては無常で変化する。思いも意識も同じ。
原因には結果を生み出す素質がある。
だから、無関係のものからは生じない。思いも意識も同じ。
そして、
意識が行為に関係する。
困っている人を見た時に、
その人を救いたいと思う心の働き(意識)が起これば、助けるという行為になり、
その人が嫌いという心の働きがあれば、冷たい態度という行為になるかもしれない。
心によって異なる意識にもとづく行為が、何かの因果になる。
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