大乗仏教では、
個々の現象を分析して認識する「識」よりも、
存在全体を把握する「智慧」を重視します。
あの子は可愛い、
と認識するよりも(煩悩)、
あの子も仏性があり、
仏と僕とあの子は平等である(悟り)
と直観することが大切。
眼が色を見る、という眼識や、
耳識・鼻識・舌識・身識を、
意識が判断し、
自我(無意識)が構成され、
阿頼耶識に記録されます。
阿頼耶識に記録されたものは、
常に刺激されて何かの拍子に自我に表れ、意識に上る。
そして、
眼識などの表層にまた現れ、
意識は深層心理と表層心理をつなぎます。
意識は、見る(視覚)聞く(聴覚)と同じく知覚の作用。
これらの識は分別差別迷いの世界であり、
煩悩と煩悩の残りかすなので、
修行によって智慧に変えるのが仏教の立場。
意識は、よくよく分析して見極める智慧になります。
識が智になるのは陰陽五行説にある通り。
識は脳の働き、と考えれば、
神経反射で、身体の各部とつながります。
右脳の異変は右の便秘や左ひざの不調に、
右ひざの不調は左側の便秘や左脳に影響します。
ですから、
体調と心理は無関係では無い。
肉体をはじめ、
世の中のモノは心を表現するものです。
その心は識大と云い、一切の智慧を持つ、
というのが密教の考えかたです。
それは、
一切の所依であり、清涼なので悩みの熱を去り、
無知の薪を焼き、煩悩の塵を吹き飛ばす。
すべての分別を離れ、汚れに染まらない。
識が智慧に替わるとは、そういうことです。
※六大陰陽五行色体表の詳細は
拙著『望診法講義録 手相編』
神経反射については
拙著『望診法講義録 宇宙を診る』
をご参照ください。
個々の現象を分析して認識する「識」よりも、
存在全体を把握する「智慧」を重視します。
あの子は可愛い、
と認識するよりも(煩悩)、
あの子も仏性があり、
仏と僕とあの子は平等である(悟り)
と直観することが大切。
眼が色を見る、という眼識や、
耳識・鼻識・舌識・身識を、
意識が判断し、
自我(無意識)が構成され、
阿頼耶識に記録されます。
阿頼耶識に記録されたものは、
常に刺激されて何かの拍子に自我に表れ、意識に上る。
そして、
眼識などの表層にまた現れ、
意識は深層心理と表層心理をつなぎます。
意識は、見る(視覚)聞く(聴覚)と同じく知覚の作用。
これらの識は分別差別迷いの世界であり、
煩悩と煩悩の残りかすなので、
修行によって智慧に変えるのが仏教の立場。
意識は、よくよく分析して見極める智慧になります。
識が智になるのは陰陽五行説にある通り。
識は脳の働き、と考えれば、
神経反射で、身体の各部とつながります。
右脳の異変は右の便秘や左ひざの不調に、
右ひざの不調は左側の便秘や左脳に影響します。
ですから、
体調と心理は無関係では無い。
肉体をはじめ、
世の中のモノは心を表現するものです。
その心は識大と云い、一切の智慧を持つ、
というのが密教の考えかたです。
それは、
一切の所依であり、清涼なので悩みの熱を去り、
無知の薪を焼き、煩悩の塵を吹き飛ばす。
すべての分別を離れ、汚れに染まらない。
識が智慧に替わるとは、そういうことです。
※六大陰陽五行色体表の詳細は
拙著『望診法講義録 手相編』
神経反射については
拙著『望診法講義録 宇宙を診る』
をご参照ください。
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