高野山の麓、九度山の慈尊院は,
国宝弥勒菩薩がおわす美しい寺で、お大師さんのお母様と縁が深い。
お母様は、
お大師さんがいる高野山へお参りしたかったけれで、当時は女人禁制。
だから、麓の慈尊院で暮らした。
そして、
お大師さんは、
ひと月に9度も、母を訪ねたので「九度山」という地名になった、とのこと。
月に九度とは、三日に一度ですから、そんなことはあり得ないし、
そもそも、
修禅の行者が母親に会いに行く、というのも心理的に考えにくい。
日野西先生は、
慈尊院へ、お大師さんのお母さんは来ていない
とはっきり書かれています。
https:/ /books. google. co.jp/b ooks?id =r40lDw AAQBAJ& pg=PT27 &lpg=PT 27&dq=% E6%97%A 5%E9%87 %8E%E8% A5%BF%E 3%80%80 %E6%85% 88%E5%B 0%8A%E9 %99%A2& source= bl&ots= _Sxe51E 2T0&sig =iPa4Xv TAC4Q9F 5MCKv1Y tOLxx2w &hl=ja& sa=X&ve d=0ahUK Ewie_5G JgeDZAh ULwrwKH ZZVABQQ 6AEIMDA B#v=one page&q= %E6%97% A5%E9%8 7%8E%E8 %A5%BF% E3%80%8 0%E6%85 %88%E5% B0%8A%E 9%99%A2 &f=fals e
伝説や神話は 、
教理を象徴的に表したものですから、
信仰の内容が事実と違うのはよくあることです。
また、
永く伝わる間に、事実が変わってしまうことがよくあります。
例えば、僕らが唱える真言や梵字。
真言や梵字は書いたり見たりするのではなく、
観想するためのものです。
だから、
その姿と音が象徴する意義を正確に知らなければ意味がない。
仏像仏画も同じ。
『梵習字鑒』に、
国宝弥勒菩薩がおわす美しい寺で、お大師さんのお母様と縁が深い。
お母様は、
お大師さんがいる高野山へお参りしたかったけれで、当時は女人禁制。
だから、麓の慈尊院で暮らした。
そして、
お大師さんは、
ひと月に9度も、母を訪ねたので「九度山」という地名になった、とのこと。
月に九度とは、三日に一度ですから、そんなことはあり得ないし、
そもそも、
修禅の行者が母親に会いに行く、というのも心理的に考えにくい。
日野西先生は、
慈尊院へ、お大師さんのお母さんは来ていない
とはっきり書かれています。
https:/
伝説や神話は 、
教理を象徴的に表したものですから、
信仰の内容が事実と違うのはよくあることです。
また、
永く伝わる間に、事実が変わってしまうことがよくあります。
例えば、僕らが唱える真言や梵字。
真言や梵字は書いたり見たりするのではなく、
観想するためのものです。
だから、
その姿と音が象徴する意義を正確に知らなければ意味がない。
仏像仏画も同じ。
『梵習字鑒』に、
アヴィーラ(a vīra)がアヴィラ(a vira)になっていることが書かれているけれど、
前者は勇者・如来ので、後者では意味がない。
読み癖があるのはしょうがないけれど、
本来の意味と読みかたを知らないのなら、それを唱える必要は無い。
『吽字義』には、
あらゆる存在の深遠なる名称の特徴や真実の言葉や悟りの言葉を理解しなければ、
その者のあらゆることばや思惟や修行などは、
いづれも誤ったものであり、無意味な虚構の存在である。
なぜならば、彼は、究極の真理を知らないからである。
とある。
これは信仰に限らず、
普段の言葉にも云えることです。
前者は勇者・如来ので、後者では意味がない。
読み癖があるのはしょうがないけれど、
本来の意味と読みかたを知らないのなら、それを唱える必要は無い。
『吽字義』には、
あらゆる存在の深遠なる名称の特徴や真実の言葉や悟りの言葉を理解しなければ、
その者のあらゆることばや思惟や修行などは、
いづれも誤ったものであり、無意味な虚構の存在である。
なぜならば、彼は、究極の真理を知らないからである。
とある。
これは信仰に限らず、
普段の言葉にも云えることです。
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