墓前で故人の奥さんが、
あの人はどこにいるのでしょうか
と聞く。
故人を想う人の心の中、脳内にいます。
他のどこか具体的な場所にいるわけではありません。
人は死ねば肉体が無くなり、脳も無くなり、記憶も判断力も、とにかく思うことは無くなりますから、死後どうなるかを自分で知ることはできません。
死ねばその人は目の前からいなくなるのは事実だけれど、何か見えないもの、魂のようなものがどこかにある、と思いたい。
お墓にあるのは遺骨です。
そもそも、
遺骨が残るのが土葬
遺骨が残らないのが火葬
でも、日本ではわざわざ遺骨が残るように火葬します。
日本人にとってお骨は大切なものだから。
もし、魂のようなものがあるのなら、あの世へ行くのはその魂だけでしょうが、お骨を大切にするのは肉体そのものがあの世に行くと思うからでしょうか。
あの世で死者が幸福であれば、生きている人が幸せで安心する。
だから葬儀や法事をします。
本来なら因果の法則通り、生前の生きかたが死者の幸福を左右します。
だけど、
死後における葬儀や法事など遺族の行動によって、死者の幸福が変わると考えられてきました。
お葬儀や法事をするのは、
故人を偲び、その人から学び、その人を尊敬し、襟を正す所はただし、より良く生きるためです。
故人を手本にして、自らの生きかたを自分で決めるためです。
親孝行とか生きていることへの感謝、ということでしょう。
それらの儀式よりも、
死者故人が喜ぶのは、
残された人たちが仲良く暮らしていることのはずです。
魂は死者だけではなく、生きている人にもありますから、この世でも仲良く暮らすことが幸せになります。
諸行は無常です。何もかもが常に移り変わり、変化しています。
原因も時と場所、縁と条件によって変わり、その結果も同じです。
だから、
生まれるのも生き続けるのも死ぬもの、縁と条件によって変わります。
当然のことながら、その内容である幸福か不幸かということも、人により場所により環境により変わります。
だから、
自他の区別や生死の区別など無きに等しく、
区別がなければ苦しみも無く、僕らはいつも強い心で幸せを得ることができるでしょう。
同時に死者も幸福になります。
あの人はどこにいるのでしょうか
と聞く。
故人を想う人の心の中、脳内にいます。
他のどこか具体的な場所にいるわけではありません。
人は死ねば肉体が無くなり、脳も無くなり、記憶も判断力も、とにかく思うことは無くなりますから、死後どうなるかを自分で知ることはできません。
死ねばその人は目の前からいなくなるのは事実だけれど、何か見えないもの、魂のようなものがどこかにある、と思いたい。
お墓にあるのは遺骨です。
そもそも、
遺骨が残るのが土葬
遺骨が残らないのが火葬
でも、日本ではわざわざ遺骨が残るように火葬します。
日本人にとってお骨は大切なものだから。
もし、魂のようなものがあるのなら、あの世へ行くのはその魂だけでしょうが、お骨を大切にするのは肉体そのものがあの世に行くと思うからでしょうか。
あの世で死者が幸福であれば、生きている人が幸せで安心する。
だから葬儀や法事をします。
本来なら因果の法則通り、生前の生きかたが死者の幸福を左右します。
だけど、
死後における葬儀や法事など遺族の行動によって、死者の幸福が変わると考えられてきました。
お葬儀や法事をするのは、
故人を偲び、その人から学び、その人を尊敬し、襟を正す所はただし、より良く生きるためです。
故人を手本にして、自らの生きかたを自分で決めるためです。
親孝行とか生きていることへの感謝、ということでしょう。
それらの儀式よりも、
死者故人が喜ぶのは、
残された人たちが仲良く暮らしていることのはずです。
魂は死者だけではなく、生きている人にもありますから、この世でも仲良く暮らすことが幸せになります。
諸行は無常です。何もかもが常に移り変わり、変化しています。
原因も時と場所、縁と条件によって変わり、その結果も同じです。
だから、
生まれるのも生き続けるのも死ぬもの、縁と条件によって変わります。
当然のことながら、その内容である幸福か不幸かということも、人により場所により環境により変わります。
だから、
自他の区別や生死の区別など無きに等しく、
区別がなければ苦しみも無く、僕らはいつも強い心で幸せを得ることができるでしょう。
同時に死者も幸福になります。
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