豆腐ハンバーグのタネが残ったので、ちょっと細工してから皿うどんの具に。

ナスは新鮮なうちにスライスして酢で洗い、塩と粉わさびで和える。

それはさておき、
縁者から、体調不良なので仕事を手伝ってちょうだい、
と電話があり、もちろんお手伝いします、と答える。
病状を心配しているようなので、
拝んでおきますから大丈夫ですよ、
と言う。
それは何よりで、
と喜んでくれる。
病気にはいろいろな方法で対応しますが、いろいろな事情でうまくいかないこともある。
たとえば、陰陽の見かたさえ間違わなければ、食べ物で改善するけれど、
実践することが難しい場合が少なくない。
拝んで治るのかどうかは分からないけれど、
もし治らないものなら拝まなくても治らないのだから、拝まないともったいない。
で、朝のお勤め。
ご本尊さんの修法時、本尊加持後に病者を加持する。
加持とは、
仏の大悲を衆生が受け取ること。
祈祷は加持を受ける手段のひとつ。
密教の行法は、
自らの悟りを目標として求道する面と、
自分は本来仏と同じだから、その立場で人々を救う、
という面があります。
拝めば治る、と僕は信じて拝むけれど、
もしそうなら、拝まなければ治らないかもしれないということになるから、大変なことです。
拝む目的、祈祷の目的は現世利益と無上菩提。
その方法には四種あります。
この中で、
現世利益は即物的で、無常菩提は心の救い。
多くの場合、
現世利益の祈願をしたけれど反応がないことがあり、
願いが叶っても、祈ったときの新鮮さ一生懸命さはなくなります。
さらに、
現世の病気を治したいとは誰でも思うけれど、
無常菩提、つまり悟りを得たい、と思うのは一部の人のみで、しかも時間がかかる。
でも、
無常菩提(自分の心を知る)を知れば、
世間の解釈は豊かになり、利益は長持ちして増大します。
昔、恩師・田中先生が不調になった時、
ご法友の織田隆弘師が、
ヨッシャ、わしが拝もう、
と言ってその場で拝んでくれたらしい。
それで効果があったのかどうかは自分でもわからない。
治ったわけではないけれど、そうして拝んでくれたことだけで十分である。
とおっしゃっていました。
三井英光先生の『加持祈祷の原理と実修』や中村公隆僧正の『密教を生きる』には、
拝んで病気を治したようなことがいくつも書かれおり、
昔の高野山では、
ある住職が病気になり、お見舞いに行ってとりあえずお加持をする、
という雰囲気が普通であった、
と田中先生のいくつかの本にあります。
お大師さんも天皇のために拝んでいます。
そして、
天皇の病気平癒を七日間、昼夜を分かたず護摩を焚いて拝んでいるけれども、
はっきりとした兆候は現われない。
これは自分の力が足りないからで、肝がただれるくらいに苦しい
と『性霊集』巻第九にある。
そうであっても、
田中先生は、
坊さんならお加持をしたらいい
たじろぐことは無い。
効くとか効かないということは問題ではない。
と言う。
拝めば、お加持すれば、祈祷すれば、拝む人の心が変わる、拝まれる人の心も代わる。それが快癒へ向かう力にならないとはいえない。
少なくとも、
暗い気持ちを変えることができます。
そして、
覚鑁上人の『末代真言行者用心』には、
「お蔭が現われなくても、疑いや退心を生じてはいけない。
本人が気がついていないだけで、必ずお蔭がある。だから、怠ってはいけない」
とあります。
坊さんに限らず、
誰でも誰かが良い方向へ向かうように、相互に拝んでいる世界は平安で美しい。
拝む、祈祷する、お加持するというのは同じ意味ですが、
それらは法(真実の心)の力となります。
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※陰陽研究塾
「柔らかい食べ物と固い食べ物の違い」
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ナスは新鮮なうちにスライスして酢で洗い、塩と粉わさびで和える。
それはさておき、
縁者から、体調不良なので仕事を手伝ってちょうだい、
と電話があり、もちろんお手伝いします、と答える。
病状を心配しているようなので、
拝んでおきますから大丈夫ですよ、
と言う。
それは何よりで、
と喜んでくれる。
病気にはいろいろな方法で対応しますが、いろいろな事情でうまくいかないこともある。
たとえば、陰陽の見かたさえ間違わなければ、食べ物で改善するけれど、
実践することが難しい場合が少なくない。
拝んで治るのかどうかは分からないけれど、
もし治らないものなら拝まなくても治らないのだから、拝まないともったいない。
で、朝のお勤め。
ご本尊さんの修法時、本尊加持後に病者を加持する。
加持とは、
仏の大悲を衆生が受け取ること。
祈祷は加持を受ける手段のひとつ。
密教の行法は、
自らの悟りを目標として求道する面と、
自分は本来仏と同じだから、その立場で人々を救う、
という面があります。
拝めば治る、と僕は信じて拝むけれど、
もしそうなら、拝まなければ治らないかもしれないということになるから、大変なことです。
拝む目的、祈祷の目的は現世利益と無上菩提。
その方法には四種あります。
祈祷の修法 | 現世利益 | 無常菩提 |
息災 | 当病平癒、厄除けなど | 心の中の煩悩を除く |
増益 | 商売繁盛、立身出世など | 福智増長 |
降伏 | 怨敵退散など | 無智を降伏させる |
敬愛 | 良縁成就など | 慈悲の徳を増大させる |
この中で、
現世利益は即物的で、無常菩提は心の救い。
多くの場合、
現世利益の祈願をしたけれど反応がないことがあり、
願いが叶っても、祈ったときの新鮮さ一生懸命さはなくなります。
さらに、
現世の病気を治したいとは誰でも思うけれど、
無常菩提、つまり悟りを得たい、と思うのは一部の人のみで、しかも時間がかかる。
でも、
無常菩提(自分の心を知る)を知れば、
世間の解釈は豊かになり、利益は長持ちして増大します。
昔、恩師・田中先生が不調になった時、
ご法友の織田隆弘師が、
ヨッシャ、わしが拝もう、
と言ってその場で拝んでくれたらしい。
それで効果があったのかどうかは自分でもわからない。
治ったわけではないけれど、そうして拝んでくれたことだけで十分である。
とおっしゃっていました。
三井英光先生の『加持祈祷の原理と実修』や中村公隆僧正の『密教を生きる』には、
拝んで病気を治したようなことがいくつも書かれおり、
昔の高野山では、
ある住職が病気になり、お見舞いに行ってとりあえずお加持をする、
という雰囲気が普通であった、
と田中先生のいくつかの本にあります。
お大師さんも天皇のために拝んでいます。
そして、
天皇の病気平癒を七日間、昼夜を分かたず護摩を焚いて拝んでいるけれども、
はっきりとした兆候は現われない。
これは自分の力が足りないからで、肝がただれるくらいに苦しい
と『性霊集』巻第九にある。
そうであっても、
田中先生は、
坊さんならお加持をしたらいい
たじろぐことは無い。
効くとか効かないということは問題ではない。
と言う。
拝めば、お加持すれば、祈祷すれば、拝む人の心が変わる、拝まれる人の心も代わる。それが快癒へ向かう力にならないとはいえない。
少なくとも、
暗い気持ちを変えることができます。
そして、
覚鑁上人の『末代真言行者用心』には、
「お蔭が現われなくても、疑いや退心を生じてはいけない。
本人が気がついていないだけで、必ずお蔭がある。だから、怠ってはいけない」
とあります。
坊さんに限らず、
誰でも誰かが良い方向へ向かうように、相互に拝んでいる世界は平安で美しい。
拝む、祈祷する、お加持するというのは同じ意味ですが、
それらは法(真実の心)の力となります。
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※陰陽研究塾
「柔らかい食べ物と固い食べ物の違い」
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