昨日書いたように、
Ātman(アートマン)は元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり「自我」を現す代表的な語となりました。
仏教ではこの自我を否定します。アートマンは実在しない。
それが仏教であるかどうかは、無我であるかどうかですが、
「神」なども無我です。絶対的な神が存在するのではなく、
我々との関係の上にのみ存在する。
無我であれば、執着が消え、苦しみが無くなります。
「私」も何もかもは常に変化して、あれが欲しい、もっと欲しい、思い通りにならない私は過去の私。
「私」とは概念に過ぎないのです。
で、
呼吸を止めれば自我も無くなる。
肉体の束縛から離れ、心は開放されるけれど、それでは死んでしまう。
お釈迦さまは長い間の苦行を捨て、菩提樹下の瞑想によって悟りを開きますが、
その悟る前、最後の苦行が無息禅(阿含経によれば阿婆頗那迦三摩地)で、
これを境に、一切如来の真実に至る観法によって悟ります。
死ぬような呼吸停止ではなく、
呼吸を調えることにより自我の迷い煩悩を減らして、より良い希望に転換することはできます。
数十秒間呼吸を止めることで、副交感神経を刺激して、ストレスを開放できます。
呼吸の乱れは自我の混乱で、苦しみの原因。
呼吸を調えることが自我を調えることになり、
心は静になります。
Ātman(アートマン)は元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり「自我」を現す代表的な語となりました。
仏教ではこの自我を否定します。アートマンは実在しない。
それが仏教であるかどうかは、無我であるかどうかですが、
「神」なども無我です。絶対的な神が存在するのではなく、
我々との関係の上にのみ存在する。
無我であれば、執着が消え、苦しみが無くなります。
「私」も何もかもは常に変化して、あれが欲しい、もっと欲しい、思い通りにならない私は過去の私。
「私」とは概念に過ぎないのです。
で、
呼吸を止めれば自我も無くなる。
肉体の束縛から離れ、心は開放されるけれど、それでは死んでしまう。
お釈迦さまは長い間の苦行を捨て、菩提樹下の瞑想によって悟りを開きますが、
その悟る前、最後の苦行が無息禅(阿含経によれば阿婆頗那迦三摩地)で、
これを境に、一切如来の真実に至る観法によって悟ります。
死ぬような呼吸停止ではなく、
呼吸を調えることにより自我の迷い煩悩を減らして、より良い希望に転換することはできます。
数十秒間呼吸を止めることで、副交感神経を刺激して、ストレスを開放できます。
呼吸の乱れは自我の混乱で、苦しみの原因。
呼吸を調えることが自我を調えることになり、
心は静になります。
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