「ぎょうがん」と読む。
ことをなさん、とする願いで、身行と心願。
密教では慈悲のこと。
『菩提心論』に、
行願とは 、
誓って、われすべての人々を救いわたさん
との誓いを実行する心である。
一切の衆生を利益し安楽にするべし。
とある。
この行願を、
栂尾祥雲先生は「すくい」とカナを振り、
北尾克三郎氏は「生きる意味」と訳している。
そもそも、
こよなき悟りのありさまは、
その本質が自心を知るための瞑想修行
その姿が道を求めること、
その働きが大悲行願である。
普段の暮らしで、
いつでも誰にでもニコニコし、
常に手を差し伸べるようにしているのが良いのだろうけれど、
なかなかそうはいかない。
人に接する時、
母親が幼子を見守るよう、慈悲の心で包むように思うことがある 。
コラコラ、そんなことをしていけないよ、と叱るときもある。
おお、それはすばらしい、と讃嘆して喜び、
笑いながら怒ることもある。
それらはおそらく、
悪を改め楽を与えたい行願が元になっている。
なるべくそうして生きてゆきたい。
健康とか幸せは、もぎ取れるものではなく、
行願が体得できた瞬間に現れる 。
ことをなさん、とする願いで、身行と心願。
密教では慈悲のこと。
『菩提心論』に、
行願とは 、
誓って、われすべての人々を救いわたさん
との誓いを実行する心である。
一切の衆生を利益し安楽にするべし。
とある。
この行願を、
栂尾祥雲先生は「すくい」とカナを振り、
北尾克三郎氏は「生きる意味」と訳している。
そもそも、
こよなき悟りのありさまは、
その本質が自心を知るための瞑想修行
その姿が道を求めること、
その働きが大悲行願である。
普段の暮らしで、
いつでも誰にでもニコニコし、
常に手を差し伸べるようにしているのが良いのだろうけれど、
なかなかそうはいかない。
人に接する時、
母親が幼子を見守るよう、慈悲の心で包むように思うことがある 。
コラコラ、そんなことをしていけないよ、と叱るときもある。
おお、それはすばらしい、と讃嘆して喜び、
笑いながら怒ることもある。
それらはおそらく、
悪を改め楽を与えたい行願が元になっている。
なるべくそうして生きてゆきたい。
健康とか幸せは、もぎ取れるものではなく、
行願が体得できた瞬間に現れる 。
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