何かに集中していると、他のことに気づかないことはよくあることですが、
拝んでいる時に、気を失うようなことがあります。
何もかもが無くなり、ただ存在しているだけになる。
そうでなくても、
何か物思いにふける時もあり、
広々として風通しの良い静かな心持ちになることもある。
そういう時間はずいぶんと長く味わっていたように思われるのに、
実はほんの数分のことある。
誰でも心の扉を開ければ仏法の風が入ってくるけれど、
その扉は重かったり、鍵がかかっていることもある。
静かに座って懺悔反省していると、扉が軽くなり、鍵が開く。
その時間も長いように思うけれど、実は一瞬。
体験は時間を越えるようで、
心は実際の時間より、ずいぶんと速く動く。
「こだま」より「ひかり」、「ひかり」より「のぞみ」のほうが速い。
川上監督が現役のころ、
ピッチャーが投げたボールが止まって見えた。
それを撃てばヒットになる
という話は野球ファンには有名だけれど、
練習すれば速球も止まって見える。速いと思っていたものがゆっくりになることは、何でも同じである。
だから、
人生も一瞬に集約する。
心は間段の無い連続体だから、
この練習を繰り返せば、心をコントロールして怒りや貪り、慢心、疑いを、
心の平安(これを幸せという)に変えることが一瞬にできるはず。
アインシュタインは、
「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。それが相対性」
と言う。
そして、
特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、その系における時間の流れが遅くなる。
さらに、
時間はそのものの実体が無い。
例えば「今」というものは無い。
今を正確には定義できないから。
今は時間的な長さが無い一瞬で、
どこからどこまでが今なのか、
は定義できない。
「今」は存在するけれど、確かな実体はない。
過去とか未来とかの関係性においてのみ「今」がある。
これを「空」というのだけれど、
ともかくも、
今日も僕は長い一瞬を体験しながら生きている。
拝んでいる時に、気を失うようなことがあります。
何もかもが無くなり、ただ存在しているだけになる。
そうでなくても、
何か物思いにふける時もあり、
広々として風通しの良い静かな心持ちになることもある。
そういう時間はずいぶんと長く味わっていたように思われるのに、
実はほんの数分のことある。
誰でも心の扉を開ければ仏法の風が入ってくるけれど、
その扉は重かったり、鍵がかかっていることもある。
静かに座って懺悔反省していると、扉が軽くなり、鍵が開く。
その時間も長いように思うけれど、実は一瞬。
体験は時間を越えるようで、
心は実際の時間より、ずいぶんと速く動く。
「こだま」より「ひかり」、「ひかり」より「のぞみ」のほうが速い。
川上監督が現役のころ、
ピッチャーが投げたボールが止まって見えた。
それを撃てばヒットになる
という話は野球ファンには有名だけれど、
練習すれば速球も止まって見える。速いと思っていたものがゆっくりになることは、何でも同じである。
だから、
人生も一瞬に集約する。
心は間段の無い連続体だから、
この練習を繰り返せば、心をコントロールして怒りや貪り、慢心、疑いを、
心の平安(これを幸せという)に変えることが一瞬にできるはず。
アインシュタインは、
「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。それが相対性」
と言う。
そして、
特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、その系における時間の流れが遅くなる。
さらに、
時間はそのものの実体が無い。
例えば「今」というものは無い。
今を正確には定義できないから。
今は時間的な長さが無い一瞬で、
どこからどこまでが今なのか、
は定義できない。
「今」は存在するけれど、確かな実体はない。
過去とか未来とかの関係性においてのみ「今」がある。
これを「空」というのだけれど、
ともかくも、
今日も僕は長い一瞬を体験しながら生きている。
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