顕教の考えかたですが、
「僕」を構成しているのは
肉体、感覚、想い、意志、意識・判断
これを五蘊と言いますが、
これらはすべて執着の原因、苦しみをもたらすものです。
だから、
この五つが空である、と悟れば苦しみは無くなり、頭の働きも明晰になります。
しかし、
そのようなことができるでしょうか。
実際にこの心身があるのに。
初期仏教の相応部経典にあるお話ですが、
あるバラモンがお釈迦さまに聞きます。
私は時によると、大変澄み切った気持ちがして、これまで学んだことはもちろん、まだ学んでいないことまで、すらすらと弁じたてることができるのに、
時によると、
何か混迷して、日ごろ学んだことさえ、どうしても頭に浮かんでこないことがあります。
これはいったいどうしたことでしょうか、
と。
お釈迦さまが答えます。
水が濁っていれば、そこに顔を映しても、ありのままに見ることはできない。
それと同じように、
人の心が欲の貪りで濁っているときは、心は澄みきっていないのだから、何事もありのままには映らない。
もし、その水が沸騰していたら、
そこに顔を映してみることはできない。
同じように、
人の心が怒りにかきたてられている時には、やはり、何事もありのままに見ることはできない。
また、水の面に苔が浮かび、草でおおわれていたら、ありのままに顔を映してみることはできない。
それと同じように、
人の心が愚かさや疑いに蔽われていたら、物事をありのままに見ることはできない。
人の心もまた、
貪欲に濁っていないとき、
怒りに沸き立っていない時、
愚かさにおおわれていない時、
なにごとであれ、ありのままに、正しく見ることができる。
むさぼりの気持ちがあると、水が濁るように心も濁ります。これは胃腸に陽性毒があるから
水が沸騰すると何も映らないように、怒りで燃えていると、脳も興奮してばかになる。
これは心臓の陽性毒が原因。
同じように、
愚かさや疑いがあると、脳は何も見えない。
これは腎臓に陰性毒がたまっているから。
何事も良く観察して、
こうこうこういうわけでこうなるのである
と説明できることが智慧であり、
事実ではなく噂をもとに話すことが、愚かさ。
というわけで、
ありのままに見るには心が澄み切っていなければならず、内臓も健康なほうがいいだろうな。
「僕」を構成しているのは
肉体、感覚、想い、意志、意識・判断
これを五蘊と言いますが、
これらはすべて執着の原因、苦しみをもたらすものです。
だから、
この五つが空である、と悟れば苦しみは無くなり、頭の働きも明晰になります。
しかし、
そのようなことができるでしょうか。
実際にこの心身があるのに。
初期仏教の相応部経典にあるお話ですが、
あるバラモンがお釈迦さまに聞きます。
私は時によると、大変澄み切った気持ちがして、これまで学んだことはもちろん、まだ学んでいないことまで、すらすらと弁じたてることができるのに、
時によると、
何か混迷して、日ごろ学んだことさえ、どうしても頭に浮かんでこないことがあります。
これはいったいどうしたことでしょうか、
と。
お釈迦さまが答えます。
水が濁っていれば、そこに顔を映しても、ありのままに見ることはできない。
それと同じように、
人の心が欲の貪りで濁っているときは、心は澄みきっていないのだから、何事もありのままには映らない。
もし、その水が沸騰していたら、
そこに顔を映してみることはできない。
同じように、
人の心が怒りにかきたてられている時には、やはり、何事もありのままに見ることはできない。
また、水の面に苔が浮かび、草でおおわれていたら、ありのままに顔を映してみることはできない。
それと同じように、
人の心が愚かさや疑いに蔽われていたら、物事をありのままに見ることはできない。
人の心もまた、
貪欲に濁っていないとき、
怒りに沸き立っていない時、
愚かさにおおわれていない時、
なにごとであれ、ありのままに、正しく見ることができる。
むさぼりの気持ちがあると、水が濁るように心も濁ります。これは胃腸に陽性毒があるから
水が沸騰すると何も映らないように、怒りで燃えていると、脳も興奮してばかになる。
これは心臓の陽性毒が原因。
同じように、
愚かさや疑いがあると、脳は何も見えない。
これは腎臓に陰性毒がたまっているから。
何事も良く観察して、
こうこうこういうわけでこうなるのである
と説明できることが智慧であり、
事実ではなく噂をもとに話すことが、愚かさ。
というわけで、
ありのままに見るには心が澄み切っていなければならず、内臓も健康なほうがいいだろうな。
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