僕は好き嫌いが多いですが、食べ物の相談を受けていると、食べてはいけないものを聞かれます。
そういうものは無いですね。
料理を教えて欲しいと頼まれてご自宅に伺い、
いろいろ作っていると、
台所にいる時間が長くなりますねえ、
と言われる。
簡単便利にさっと作りたいらしい。
勉強しないで合格したい、練習しないで試合に勝ちたい
と言われているようでちょっと困ります。
時間と手間がかからないものは身につかないし、
楽をすると失敗を生むのに。
『雑阿含』十七には、
一切有情は食によって存す
とあり、
『倶舎論』第十などには四食があります。
1、段食 香味触を体とし、鼻舌にして食す
2、触食 喜楽に触れて身を養う
3、思食 意識を体としてその境界にて希望の念を生じて身命を保つ
4、識職 心の水面の源底を本体として、よく有情の身命を支持する
初期仏教では、
食は生存の条件であり、新たに生まれる命の助けとなる
衆生を教化する為の食 必要以上の貪りをしない
という考えかたでした。
そして、
食べてはいけないものは『智度論』などに、
(1)方口食(方邪)
四方に奔走して国王などの使命を先方に通じ、巧言で相手を説くなどして、その功績で得た食のこと。
(2)維口食(維邪)
修行僧の本務を忘れて医術・占相などで得た食のこと。
(3)仰口食(仰邪)
占星術で吉凶禍福を説いて得た金銭や食料のこと。
(4)下口食(下邪)
耕田して五穀を作って得た食のこと。
よこしまな生活態度によって得た食はダメ、
ということですね。
僧侶の食は托鉢によるべきで、耕作などの生産的なことはしない、というのが修行僧の決まりだったので、(4)があります。
『倶舎論頌疏』には
人を益すること有れば皆食と名づく
とあり、
単に身体を養うだけではなく、座禅瞑想心静めによって喜楽すること
悟りを喜ぶ心を養う
も食である、ということ。
『雑阿含経十五』に
四食の故に未来世に生老病死憂悲悩苦が集まる
とあり、食事は煩悩の元であるとしますが、
それは座禅瞑想などの心を観察する修行によって滅します。
さらに、
『集異門足論第一』には
考えなしに食べ、食べねば力が出ぬとて食べ、おごりたかぶる心をおこすために食べ、顔色をよくし皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、世間の人にみめよしといわれんとして食べるもので、食の意味もわからず、ただ食べるだけの愚かな食べかた
を避け、
この身体を存在させ、飢渇を防ぎ、修行を摂受するために食事をとり、節食よりの苦を断じ、飽食より生じる苦を起こさず、飲食を如法に受け、身体を衰えないように、心に喜楽を受けるために、行動に差し支えないために、この身を保ち、修行に必要な限度に食事を摂ること
を選ぶべきとあります。
密教では、食事を煩悩とせず、
心中金剛界三十七尊に供養するため
食を肯定して無量の福と化す
(『栄厳阿闍梨』口伝)
という立場。
僕らは仏と同じで本来悟っているのだから、その仏に供養するために、幸せになるために食べる。
いずれにしても、
敬虔なる感謝をし、常に心に喜びを持ちながら作り、食べることを心がけるのがよろしい。
そういうものは無いですね。
料理を教えて欲しいと頼まれてご自宅に伺い、
いろいろ作っていると、
台所にいる時間が長くなりますねえ、
と言われる。
簡単便利にさっと作りたいらしい。
勉強しないで合格したい、練習しないで試合に勝ちたい
と言われているようでちょっと困ります。
時間と手間がかからないものは身につかないし、
楽をすると失敗を生むのに。
『雑阿含』十七には、
一切有情は食によって存す
とあり、
『倶舎論』第十などには四食があります。
1、段食 香味触を体とし、鼻舌にして食す
2、触食 喜楽に触れて身を養う
3、思食 意識を体としてその境界にて希望の念を生じて身命を保つ
4、識職 心の水面の源底を本体として、よく有情の身命を支持する
初期仏教では、
食は生存の条件であり、新たに生まれる命の助けとなる
衆生を教化する為の食 必要以上の貪りをしない
という考えかたでした。
そして、
食べてはいけないものは『智度論』などに、
(1)方口食(方邪)
四方に奔走して国王などの使命を先方に通じ、巧言で相手を説くなどして、その功績で得た食のこと。
(2)維口食(維邪)
修行僧の本務を忘れて医術・占相などで得た食のこと。
(3)仰口食(仰邪)
占星術で吉凶禍福を説いて得た金銭や食料のこと。
(4)下口食(下邪)
耕田して五穀を作って得た食のこと。
よこしまな生活態度によって得た食はダメ、
ということですね。
僧侶の食は托鉢によるべきで、耕作などの生産的なことはしない、というのが修行僧の決まりだったので、(4)があります。
『倶舎論頌疏』には
人を益すること有れば皆食と名づく
とあり、
単に身体を養うだけではなく、座禅瞑想心静めによって喜楽すること
悟りを喜ぶ心を養う
も食である、ということ。
『雑阿含経十五』に
四食の故に未来世に生老病死憂悲悩苦が集まる
とあり、食事は煩悩の元であるとしますが、
それは座禅瞑想などの心を観察する修行によって滅します。
さらに、
『集異門足論第一』には
考えなしに食べ、食べねば力が出ぬとて食べ、おごりたかぶる心をおこすために食べ、顔色をよくし皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、世間の人にみめよしといわれんとして食べるもので、食の意味もわからず、ただ食べるだけの愚かな食べかた
を避け、
この身体を存在させ、飢渇を防ぎ、修行を摂受するために食事をとり、節食よりの苦を断じ、飽食より生じる苦を起こさず、飲食を如法に受け、身体を衰えないように、心に喜楽を受けるために、行動に差し支えないために、この身を保ち、修行に必要な限度に食事を摂ること
を選ぶべきとあります。
密教では、食事を煩悩とせず、
心中金剛界三十七尊に供養するため
食を肯定して無量の福と化す
(『栄厳阿闍梨』口伝)
という立場。
僕らは仏と同じで本来悟っているのだから、その仏に供養するために、幸せになるために食べる。
いずれにしても、
敬虔なる感謝をし、常に心に喜びを持ちながら作り、食べることを心がけるのがよろしい。
PR