望診法のバックボーンになっているのは陰陽の理論です。
それは、
陰と陽の(力の)バランスによって、あらゆるものが存在する、
と考えます。
物理学や数学にもそれぞれの原理法則があるのでしょうが、
仏教には、
空、無常、縁起、無我、本不生などの言葉で表現される、
あらゆるものの存在の原理と法則があります。
仏教の目的は、それを悟る、ことです。
そして、
この原理法則を、
三摩地という瞑想修行によって体験します。
なぜ、そのようなことをするかといえば、
僕、あなた、仏、人間関係、生死、地球、宇宙、動物植物鉱物、心、悩み、不安・・・。
それら存在の原理法則を知らないことが、苦しみになるからです。
仏教は平等を基本にしていますから、
僕、あなた、仏、人間関係、生死、地球、宇宙、動物植物鉱物、心、悩み、不安は、
みな平等です。
ですから、
すべてのものは他のものが存在する助縁になっている、
つまり、
あなたが僕を存在させている、
植物が動物を、僕が地球を、生が死を存在させ、
他のものを生み出す働きをしている、
育てる働きをしている
助ける働きをしている
と考えています。
それを慈悲と云います。
そして、
他を助けるため(つまりは私が存在するため)には智慧が必要になる。
慈悲と智慧というふたつが、仏教の中心になります。
僕はお腹が冷えやすいので、オコゲのような陽性をおいしく感じます。
オコゲは炭素だけれど、
炭素は空気中にも体内にも、食べ物にも、いろいろなところにあります。
有機物ですね。
空気中の二酸化炭素や塵などに含まれている炭素は、
もちろんひとつではなく、たくさんあります。
それらは同じ炭素だから、同じ姿と性質と働きがあると考えられます。
その空気中の炭素と、
僕の身体の中にある炭素と、トーストの炭素は、同じなのか違うのか。
きっと、隣に寄り添っているものは違うでしょうね。
でも、
個としては別物だけれど、
同じ性質、姿、働きを持っている炭素。
その炭素はどこからきて、どこへ行くのか。
エネルギーになり、
空気になり、
身体になり、水にもなり、
炭になり、
ダイヤモンドにもなる。
変化して、何かの共になる。
もちろん、
仏にも僕にも衆生にもなる。
しかし、
炭素という実体は、
本当は無い。
※「ひとこと」
※「阿吽・精進料理散策」
※「僕の鉄道日記」
1、体調と性格を観る
生命線は胃腸などの消化器系
頭脳線は神経系
感情線は循環器系の様子が現れます。
消化器は意志力
神経は知能
循環器は情緒に関係していますので、
その辺りも、線の色艶で観ます。
2、人間関係を観る
親指は親、人差し指は友人、中指は自分、薬指は連れ合い、小指は子どもとの関係が現れます。
指の形、傾き、指間の隙間で観ます。
3、将来を観る
生命線と頭脳線の色、
掌全体に現れる縦線と横線の始点(0歳)と終点(90歳)を観ます。
手相は体調が現れるので、
毎日変わります。
ですから、
心身のチェックにとても便利です。
といってもよいのですが、
唱えることは凡聖不二になるひとつの方法です。
十一面観音真言
「オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ」
マカ・キャロニキャは「大悲尊」の意味。
不動明王真言
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・
ソハタヤ・ウン・タラタ・カンマン」
大忿怒尊よ、砕破し、忿怒し、害障を破摧したまえ、
という意味。
真言を唱えると、その音声が自分の外へ出ます。
真言は仏の言葉ですから、
仏の音声も外に漂う。
空中に香煙のように漂う音声
これらの音声はどこからきてどこへいくのか
如来の口から自分の中に
自分の口から虚空の中に
音声が交流します。
そして、凡聖不二となる
さらには、
自分の言葉、周囲の音、全ての声が曼荼羅(仏の世界)を構成しています。
その中に自分も、全てもある。
オン・サンマヤ・サトバン
という三昧耶戒(さんまやかい)の真言が必ずあり、
多くの人が唱えています。
この三昧耶戒を保つのが、真言密教の土台・基本。
その内容は、
1、大悲
(思いやりと優しさ、生きる上での最低限の行為、自他平等に観ること)
2、勝義
(向上心、存在とは何かを知ること)
3、三摩地(さんまぢ)
(あるがままの心を知ること)
『三昧耶戒序』に書かれているのは、
「諸仏如来、この大悲・勝義・三摩地をもって戒となし、時としてしばらくも忘るること無し」
戒には二種類あります。
ひとつは、調伏。
自他平等に、
一切衆生を観ること、自分自身及び自分の恩人を観る如くならば、
自然に殺盗邪怒貪愚痴から離れる、
敢えて身命を害さない、
だましたり、あざむいたりしない。
もうひとつは、清涼寂静。
悪心を離れるから、心が清らかで静かになる。
小学生の勉強やトレーニングは、高校生になれば物足りない。
大学生、社会人と成長すれば、
もっと効果的なものを得るでしょう。
そのようにして、
最高の智慧を持つことが勝義ですが、
そこへ行けば他は未完成。
未完成では個別心があるから悪が残ります。
最高の智慧は内外の悪を調伏し、善を増長し、心清涼になります。
三摩地は三密行によって、智慧を本物にすること。
仏と自分が相応することによって、
宇宙大の全てを包む心が出現します。
その心は、
人を生かし、人に元気を与える。
そして、
大悲と勝義(慈悲と智慧)は一切の制限を捨てて無限になります。
これが三昧耶戒。
虚空蔵菩薩の真言には、ちょっとした違いがある。
ノウボウ アキャシャ キャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ
というものと
ノウボウ アキャシャ キャラバヤ オン マリ キャマリ ボリ ソワカ
と載っているもの。
真言は経典や儀軌によって違いがあり、
また訳者によって表記も異なるけれど、
梵語アリキャは「怨敵」の意味になる。
だから、
上の真言なら、
虚空蔵さんが怨敵(煩悩迷い執着)を砕破するイメージ。
僕は下の、
ノウボウ アキャシャ キャラバヤ オン マリ キャマリ ボリソワカ
と求聞持儀軌による音で唱えている。
意味は、
マリが「華鬘」
キャマリが「蓮華」
で、
虚空蔵さんの福徳によって、すべてがつつまれるイメージ。
我が家の虚空蔵菩薩像
左手は宝珠を載せた蓮華(智慧と慈悲)を持ち、
右手は五指を外へ向けて垂れ下げる、諸願を与えようとする形の印
マンダラに描かれている虚空蔵さんは、
左手を胸にあて、上に宝珠(福徳)を置く蓮華を持ち、
右手に剣(智慧)を持っている。
図像にも、いろいろ違い種類がある。
お経を聴きながら寝てしまう人は少なくないですが、
ただの居眠りよりは、
お経の音声に包まれて寝たほうが功徳になるでしょう。
読経の動画を撮りました。
ちょっと唱えかたのテンポが速いですが、
睡眠薬替りになるでしょうか。
仏さまに、
希望に、
光明に包まれますように。
仕事柄、名づけ親を頼まれることがあります。
依頼してきたかたに、
候補の名前をいくつか考えてもらい、
その中から、最も適切な画数と数字の流れを選ぶようにしています。
将来お金に困らないように、とか、
親子兄弟が仲良く意思疎通できるように、とか、
そういう画数と数字の流れを選んで名まえをつければ、
保険に入ったような安心感が生まれます。
真言は、仏さまの名前ではないけれど、
名まえのように使われることもあります。
そして、その音声になった理由がある。
大日如来の真言のうち、
(オン)ア・ビ・ラ・ウン・ケン
は梵字でこう書きます。
(『梵習字鑒』より)
大日如来は、
本不生(存在とは何か)を悟った勇者で、
あびら avīra (原語に近く発音すればアヴィーラ)が勇者の意味。
これは、
お釈迦さまが菩提樹下で降魔成道した時、
神々が
ア ヴィーラ フーム カン
(おお勇者よ)
と讃嘆したことに由来しています。
ところが、
多くの経本や次第には、
(『十八道次第』より)
このように、
avīra(アヴィーラ)ではなく、
avira(アヴィラ)と書かれています。
梵字が違いますね。
これでは勇者の意味にならない。
永い年月の間に、間違ったまま伝えられているのでしょうが、
ちょっともったいないですね。
『秘蔵記』にも、
「本不生は阿卑羅吽欠(あびらうんけん)なり」
とあります。
その頃を初夜と云い、修行が始まります。
露地偈(ろぢげ)は、
道場に入る前に唱える偈文。
出典は『増一阿含経』二四
結婚式や七五三でも唱えています。
今日の節分、
来月10日の旧初午、
と厄除けを拝む季節です。
厄年に根拠は無く、
営業的戦略のひとつかと思いますが、
厄年だから厄除けする、
では遅いような気もします。
厄除けについては、
『如意輪陀羅尼経』に、
厄を除くことが観音の本誓である、と書かれています。
午の日に厄除け祈願するのは、馬頭観音の縁と思われますが、
観音の陀羅尼を唱えることが厄をはらう力になります。
陀羅尼は、心を静かにまとめること、つまり瞑想修行。
そうすることで、智慧(向上心)と慈悲(思いやり)が増長する。
智慧と慈悲があれば、厄払いになる。
いづれにしても、
毎日拝み、
普段から健康に気をつけるのが良いでしょう。
左から、
「玄米ポリッポリ」
「Best Always]
大滝詠一のオールタイムベストアルバム。
聴いているだけでしあわせになる
『葬送の仕事師たち』
葬儀屋さん、エンバーマー、納棺師、復元師など、葬送のプロを取材したルポ。
特に、
ご遺体をきれいに焼くため努力する火葬場職員の話は荘厳で圧巻。
大日は真如、
法界は、
法が六大、界が蔵であり体。
そして、
全ての存在は大日の三昧耶形。
霊園へ行くと、いろいろな塔婆が見られる。
観音経の文句や、念仏、お題目なども書かれている。
何でもいいのだろうか。
塔婆の上部は五輪に似せて刻みが入っています。
なぜなら、
塔婆は大日如来の三昧耶形だから。
五輪は五大(地・水・火・風・空)をあらわし、
それは大日如来のことでもある。
なので、
表には胎蔵大日を現す五字、
裏には金剛界大日を現すバン字を書く。
大日は法界だから、
塔婆も宇宙法界を表したもの。
それは、
自性清浄心、つまり自心のこと。
『金剛界次第」などでは、
五相成身観・証金剛身のところで、
「自身卒塔婆の如くなりと思惟すべし」
とあるけれど、
本来は卒塔婆ではなく制底ではないだろうか。
仏塔のうち、
卒塔婆(塔婆:ストゥーパ)は仏舎利を収め、
仏舎利なしが制底(チャイトヤ)である。
もっとも、
『秘蔵記』に、
「卒塔婆はバンの一字の所成なり。また、アビラウンケンの五字の所成なり」
とあるから、
ずいぶん昔から、その違いは関係なくなっているみたい。
いづれにしても、
霊園や墓地にある塔婆は、
大日であり、悟りの象徴であり、瞑想対象である。
療術師の妻に教わり、毎日お尻を燻(いぶ)しています。
テルミー線を5本、
ボキボキ小さく折って火をつけ、
ポータブルトイレの中に入れて煙を出し、
便座に坐って20分。
その間、ゆっくり本を読む。
症状の改善はもとより、何とも気持ちがいい。
あの辺の血行が良くなるから、いろいろ効果がありそう。
何より、
ケツを温めるのは気持ちよく、
癖になる。
お経や真言や陀羅尼は、
内容を理解して、正しく唱えなければ意味がありません。
そうでないなら、何でもよくなってしまう。
恋人の名前を間違って呼んだら、ちょっとねえ。
まあ、それはそれでもいいけれど。
そして、
お経や真言は、お堂の中でのみ唱えるのではなく、
日常の中で唱え、生きかたと合致させるのがいい。
ところで、
梵字や真言を印刷したTシャツが売られていますが、
真言を身につけているようで、おもしろい。
使い捨てカイロのように、背中やお腹に貼れればもっとおもしろい。
という思いから、
持ち歩けるような、真言(マントラ)カードを作りました。
バッグやカバンではなく、ポケットに入れて持ち歩いてください。
先着20名に差し上げます。
赤か青、ご希望の色をご連絡ください。
おまじないとしては、とてもクオリティが高いはず。
※2019.2.13追記
別デザイン、作りました。
さて、
大乗仏教には、
言葉を否定するような面があります。
なぜなら、
言葉の対象は、言葉の意味に他ならないから。
たとえば、
月を観る時 、月そのものを観ているのではなく、
多くの場合、「月」という言葉の意味を見ています。
言葉の意味を本物の「月」に与えている。
すると、月は常住で普遍的なものになってしまい、それは事実では無い。
事実というのは、
多くの原因や条件によって生じ、
他のものと相対的にのみ存在し、無常であり、複合的なものです。
しかし、密教は言葉を重要視します。
世界は仏の現れ(マンダラ)であり、
あなたも僕も動物植物鉱物みな、仏の象徴です。
だから、
僕らの働きは仏の働きであり、
世の中の音は全て仏の声、音のマンダラ。
密教の修行は、
象徴と象徴されるものの一致を目指します。
簡単に云えば、
似ているものは同じものである
という境界。
仏の言葉である真言を唱え、身につければ仏になる。
ですから、
真言などの音声は、
合理的な言葉では無いけれど、
修行によってその意味を発見するもので、
言葉というより「行為」になります。
声字は実相、
つまり、
仏を、悟りを、真如を表現する方法のひとつが言葉。
今回、真言カードに書いたのは十一面観音の真言。
読みかたは 、
om mahākāruņika svāhā
おん まかーきゃーろに(でぃ)きゃ すばーはー
意味は、
大悲を持てるものよ
お酒が好きだったころは ,
酒もを飲まないヤツはロクなもんじゃねえ、
なんて思っていたけれど、それが間違いであることはあきらかである。
飲めない、飲まないけれど立派な人は大勢いる。
酒を止めてみると、
なんであんなものを飲んでいたのかと思う。
時間もお金も無駄遣いしていたようにも感じる。
酒を飲んでの会話は、すべてたわ言である。
しかし、
心がこのように変わることで、
何かを我慢するのではなく、そこから自然と離れる、
ということにもなる。
どんなことでも、
思いようで人は変わり、
良いことをしようと努力しなくても、それに近づき、
悪いことをしないように工夫しなくても、いつの間にか離れる。
どうしようもないから、うづくまって般若心経を唱えていたら回復した。
般若心経はやっぱりすごいですよ
と年配の女性が云う。
こういう話はよく聞きます。
お経を唱えれば願いがかなう
などということは、あるわけがない。
お経に書いてあるように修行して真如を悟れば、
人格が向上し、心に混じりけがなくなり、
自我への執着がなくなるので願いがかなうのである。
同じように、
お経を唱えれば故人が成仏するのではなく、
お経に書いてあるような生きかたをして、
仲良く楽しく暮らし、立派な人になれば、故人の供養になる、
ということでしょう。
般若心経には
色即是空とか、不生不滅とか、空などの説明が書かれています。
それを支えるものは瞑想修行。
宇宙の成り立ちを物理化学数学で考え、
望遠鏡や人工衛星で確認するのと同じかな。
ある対象に注意を集中して瞑想を続けると、
その対象の名前や形は消え、
迷い不安悩み苦しみなどの、
考えるもの、表現されるもの、知覚されるものも消え、
最後まで残っている最高の真実は、
生じもせず、滅しもせず、作られたものでもなく、変化もない 。
それはすべての規定を離れて、静寂で清浄。
迷い、苦しみは無い。
それが色即是空、不生不滅、空。
お経を唱えるだけでは何もわからない。
ところで、
『般若心経秘鍵』には、
その空の世界はまだ二流で、完全なものではないと書かれています。
密教は、
自分が宇宙本体(仏)そのものになる、
という瞑想修行によって、
世俗をそのまま最高の真実に引き上げようとします。
その時、
行者は真実そのものになる。
今の世界、今の自分を転換して、
再評価するのです。
成仏とは、仏陀(ブッダ)に成ること。
仏陀とは、目覚めた人、悟った人。
何に目覚め、何を悟るかといえば、法(ダルマ:宇宙の真理)
その中身は、
存在とは何か(智慧)と、
生きる意味(慈悲)
実践的には 、
「実の如く自心を知ること」
『大日経』住心品に、
「云何が菩提とならば、いはく実の如く自心を知るなり」
そして、
『十住心論」には、
「一切の仏教悉くこの一句に摂め尽くされる」
とあります。
どのようにして自心を知るかは、立場(宗派)によっていろいろあり、
密教では三密行を修法します。
その中には、
仏心を得る観想や、仏身を円満する方法がありますが、
とにかく、瞑想修行によって自心を知る。
瞑想で知る、と云うのは直観であり、
言葉や、言葉によって作られる概念の実体化ではありません。
悟りは、談や説や論ではないのです。
本来仏であるのに、愚かさの迷いよって覆われている凡人が、仏とひとつになり、
生滅を繰り返す現実と、不生不滅の本性がひとつになる。
水に塩や砂糖を溶かすと、
見た目は変わらない同じ水だけれど、味が変わる。
そんな感じ 。
成仏とはそういうこと。

