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[ 2025/03/17 13:22 | ]
初夜と初七日
お通夜の風習は、地域によって随分と違う。

納棺してから拝む所があり、

拝んでから、皆で納棺する地域もある。

通夜は家族身内の儀式だから、

普段着で家族親族のみ参列、というところがあれば、

ご縁のある人は誰でも喪服を着て、お参りに来るお通夜もある。

お通夜、というものは無い、

という地域もある。


お通夜は初夜のお勤めで、

儀軌口訣 には多少の違いがあるけれど、

初夜は戌の刻、黄昏、宵、午後8時

に行じる。

寅の刻、暁、午前4時などに後夜の行。

この時間が、朝のお勤めになり、

本尊に自分の徳の欠けている所を補ってもらうよう祈願する。
 
そして、

日中行は午の刻、正午、午前中など。

これが所謂お葬式になる、

と僕は考えている。



葬儀の後に続けて初七日を拝むことが多くなっている。

これも地域によって随分と違いがある。

火葬・葬儀・初七日の順に行うところがあり、

葬儀・火葬・初七日もある。

葬儀・初七日・火葬も増えた。

昔は土葬だったのだから、

今の風習はどれも新しいやりかたである。


初七日は亡くなった日から数えて七日目だけれど、

火葬場が混んでいれば、

その日を過ぎてからの葬儀もある。

今は、火葬場の予約最優先で葬儀日程が決まることが多い。

すると、

初七日はすでに過ぎているのに、初七日がセットになっていることもある。


過ぎていますよ、

と言っても、

構いません、

と返事がある。

いいのだろうか。


そもそも、

なぜ初七日があるのか、

その本尊がなぜ不動明王なのか、

典拠があるのか。


先日、ある地方の葬儀次第を見せてもらった。

棺前作法と野辺送りの作法が別々に、葬儀式次第として組まれており、

僕が知っているものとはずいぶんと違った。


密教の葬儀次第は、

即身成仏の思想と、世間で流行している往生浄土の思想が融合したもの、

になっているけれど、それがまとまったのは室町時代以降くらい。

お釈迦さんやお大師さんの頃には無い。


どんな儀式作法所作も、

自身の求道と、

他者の祈願のために行う。

その目的は、

菩提、さとり、しあわせである。  


通夜も初七日も、

自他の成仏のためであり、

「他」には故人も含まれている。

なぜなら、

総てに仏性があるからである。



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[ 2018/05/01 10:18 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
社長の戒名
麦畑が多い栃木県南部


 
青々として美しい。しばらくすれば、黄金色の麦秋になります。


それはさておき、

2年前に亡くなったかたに、戒名をつけて欲しいと依頼があり、

ご家族に電話でお話を伺い、

いろいろ考えて授与。

最近は、このような形も少なくない。


数年前、

木材関係の社長さんから、生前戒名が欲しいと言われた。

仕事と人柄にかかわりのある字を選び、

形ばかりだけれど、授戒もした。

●●院△△■■居士

という戒名。



その後、

知り合いの石材屋さんに会ったら、

すごい戒名だねえ、

と云う。

そうでもないけどなあ、

とよくよく聞いたら、

社長さんは、自分の墓を建て、そこに戒名を刻んだ。

それは、

上記戒名の、

院の次に「殿」をつけ加え、

△△(道号と云う)を4文字に増やし、

居士の前に「大」を足した。

ずいぶんと長いものになっているようだ。


世の中にはいろいろな人がいるものです。


戒名は必要か、

と聞かれれば、

ある意味では必要だけれど、仏教的にはどちらでもかまわない、

と僕は考えます。

仏教の目的は成菩提、人格の完成。

そのために必要なのは戒律と修行と勉強。

戒名の有無とは関係ない。


でも、

生前に得度授戒して戒名になるのなら、

心機一転の良いきっかけになるでしょう。


社長さんはどうだったのだろうか。




[ 2018/05/03 12:57 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
なるほどなるほど
豆腐を水切りして並べ、

畑で採ったニラと一緒に蒸し焼きし、

裏山で摘んだ木の芽を盛る。



ニラの辛味と木の芽の香りは、

ともに強い陰性で、陽性を溶かし、

身体が柔らかく軽くなります。

暑がりは陽性過多であり、

そういう人は冷房に強い。


それはさておき、 

ヨドバシカメラで新しいレンズを買う。

デジタルカメラのセンサーには種類があり、

フルサイズセンサー(フィルムカメラでいう35ミリ)は高価。

小さいサイズの場合、

同じ焦点距離なら望遠になる

と云うことを初めて知った。

同じ焦点距離でもセンサーが違うと、画角が違うのですね。



センサーといえば、

僕は自動ドアや水道の蛇口センサーに反応しない。

と話したら、

一歩足りないだけだよ、

と長男が言う。

人生そのものだな。



僕は服をあまり持っていないので、

妻子に付き添ってもらいユニクロへ行く。


僕の着こなしを見た妻が、

だらしなく着ない、

歳をとったらそういうことに気をつけなさい

と云う。

この歳になると、

ただでさえ、だらしなく見えるらしい。


法衣を着るまでもない時のために、

ジャケットが1着あるといいよ、

と次男が云う。

さらに、

黒とグレーと紺のパンツがあれば、

何とかなるよ。

言われた通りのものを買う。


これなら、外見でいじめられることはないだろうな、

と言ったら、

私は友達がいない、

だから、いじめられることは無いのよ、

と母が云う。


 最近気がついたのは、

立石寺は16画

僕の名前、須永晃仁の外格も16画 


同じ数がひとつあると仲良しになり、

ふたつ以上あると、もっと深い関係になります。




[ 2018/05/04 10:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仲良くしよう
国家間でも組織集団でも、

個人と個人でも、

仲良くすればうまくいくし、楽しい。

それがなかなかできずに、争うことは多い。

生存競争で勝ち抜くために、

そういう生き物になったのだろうか。


故人が一番喜ぶのは、

残された家族親族遺族が仲良く暮らすことです。

 それは、

生きている僕らが、

子や孫が仲良く楽しく暮らしているのを見て、

うれしく思い、安心するのと同じ。


誰かと仲良くすることで、

一番の恩恵を受けるのは自分自身です。

仲良くする、という行為が、

自分に無上の平安と充実感を与えるから。

そこに見返りはいらない。

その時、

他を助けたから自分が助けられる、というものではなく、

助けたら助かる

という縁起になる。


 反対に、
 
争いや揉め事を起こしていれば、

自分の心は乱れ、悩みは増える。

助けないから助からない、ということになる。


何か意見が合わないことがあっても、

違うのはその意見だけのことであり、

人格とは関係ない。

意見が違えば、こちらの知見は広がる。


急がなくてもいい、

ゆっくり仲良くすれば良い。



『菩提心論』では、
 
こよなきさとりを求めるためには、

慈悲(仲良くすること)
向上心(道を求めること)
瞑想修行(心をまとめること)

が必要としているけれど、

仲良くすることが第一に挙げられているのは、

僕らは、本来清浄で仏のような無限の心をもっているのだから、

仲良くして、

互いに利益安楽しようとするのが当たり前なのである。


[ 2018/05/06 14:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ウコンによる肝障害について

陰陽研究塾の記事 79   



ウコンによる肝障害について


https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/XWQdEx23w4I


 



[ 2018/05/10 08:00 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
飲み物くらべ
本文を読むにはこちらからパスワードを入力してください。

[ 2018/05/10 10:53 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
純愛

毎日タケノコ、の季節ですが、

娘のリクエストでから揚げ



僕は焼いて葛かけ



翌朝は、おこわ

うるちともち米半々で3合、水2合半、昆布と純米酒少々振って炊く。



木の芽が柔らかくてうまい。


それはさておき、

学生時代に友人と恋愛談義をしたことを思い出し、

その時、話題に上がった泉鏡花の『外科室』を再読した。

医学士と伯爵夫人の恋愛。

といっても、この二人は以前に一度だけ、

それも小石川の植物園ですれ違う程度に会っただけである。

それだけなのに、

相手を思う心を外へ出さないために、

ふたりとも自死を選ぶ。

「語を寄す、天下の宗教家、かれら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか」

で話は終わる。



柴又帝釈天の東、

江戸川を矢切の渡しで越えると、


対岸が矢切の村。

ネギ畑が広がる農村で、『野菊の墓』の舞台。

子どものころから仲良しの二人、政夫と民子に、いつしか恋心が芽生えるけれど、

世間体を気にする家族親戚によって引き離され、

望まない結婚をした民子は、

産後のひだちが悪くて死んでしまう。

その手には、

政夫からの手紙と写真が握られていた。


この話で思い出すのは落語の『たちぎれ線香』

若旦那と芸妓の小糸は幼い恋仲だけれど、

これも周囲の力で引き離され、若旦那は百日間の蔵住まい。

その間に、

小糸は、今で云うノイローゼか拒食症になって死んでしまう。

若旦那から贈られた紋入りの三味線にもたれて。

「小糸、堪忍してや。怨んだやろなぁ。

こんなんと分かってたら、わしゃ、蔵破ってでも抜け出して来たんや。

堪忍してや。その代わりなぁ、

わたしはもぉ、生涯女房と名の付くものは持たんで」

と若旦那は云う。



仏教で最も大切な行願(慈悲)は、

相手の要求になんでも命がけで答える、

捨て身になることである。

でも、

『宝積経』には、禁じている五つの布施がある。

・不浄の財

・酒と毒薬

・狩りの器具

・刀杖弓箭

・女色 

つまり、

相手に与えるもの、助けるものは、

自他を高め、ともに清い喜びをもたらすものでなければならない。


あの時の恋愛談義が、

どんな結論になったのかは、忘れてしまった。


[ 2018/05/10 11:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
自利と利他
自分が努力して良いプレーをすれば、

それを観たファンも喜ぶ。

自分の成績が上がれば収入も増え、

プレーヤーとしても充実し、ファンもしあわせな気持ちになる。

このように、

自他共に喜びが生まれるのは、理想的な人生である。



仏教の言葉で、

自利とは、菩提(悟り)を求めること、

利他は、衆生を救うこと。悟りに導くこと。

つまり、

みんなのしあわせ、菩薩はこれを同時に達成できると云う。

そんなことができるのだろうか、

と僕はずっと思っている。


2011年10月、高野山大学の講演で

煩悩障と所知障を断滅すれば、

自利と利他が同時に達成される
 
とダライ・ラマは云っていた。

煩悩障は、

悟りを妨げる全煩悩

所知障 は、

智慧を妨げるもの、煩悩の残りかす。



若い頃から仲間とは、

真言密教の目的は即身成仏であり、

そのために毎日三密行という修行をする。

即身成仏(今、この身のままで悟りを得ること)がなければ、

他を救うことはできないだろう。

行者の心は、

発心修行菩提涅槃の順であり、

自利がなければ、利他は難しいのではないか、

というような話になる。

利他できるレベルに、自分を持っていく、という考えである。


田中千秋先生は、

本来誰もが仏なのだから、すぐにでも一切衆生を救おうとするのが当たり前である。

もっと自分を作ってから先で、

というのは言い訳である。

「外道二乗はこの心をおこさない。ただ、菩薩大士のみがこの心をおこす。

菩薩大士はこの心をもって、法界無縁の一切衆生を観ること自分自身の如くである」

と三昧耶戒序にあるように、

もっと力をつけてから

というのは外道かもしれない

と『菩提心論講義』に書いている。


外道とは、仏教から離れた思想のこと。 


そして、

人がすべて値打ちのある満徳を本来円満しているという基本から、

どういう生活を日常に展開するのか

それは、

自分で自分をけがすような恥知らずなことをしない。

周りの人々に対してみなそれぞれ仏さまである尊い人である。

もし人が気の毒な状態にある時は、

個人的な好き嫌いの感情をすてて懸命になって友情の手をさしのべる。

これが自利と利他である

と『仏性を伸ばす』にある。





[ 2018/05/11 12:10 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
キュウリのサンドイッチ
畑のキュウリに手を加え、ネットを張る。

いよいよ胡瓜の季節が来る。

タケノコもそうだけれど、

キュウリは旬と新鮮さがいのちである。

季節はずれの、しかも収穫して時間が経ったものはうまくない。

高級すし屋にもカッパ巻があるのかどうかは知らないけれど、

そこでのキュウリは、魚と同じように旬で新鮮なのだろうか。


阿川 弘之の『食味風々録』に、

バッキンガム宮殿で開かれる園遊会で、

格別珍重されるのが胡瓜のサンドイッチ 。

あちらでは古来、胡瓜は高級品貴重品

栄養の上、品位の上で最も優雅な上流社会の風俗

とある。



トーストして味噌漬けの豆腐を塗り、

胡瓜を載せる。



東海林さだお の『タクアンの丸かじり』にも、

サンドイッチの話があり、おもしろい。



[ 2018/05/12 06:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
直住月宮
空腹のとき食べ物を求め、

病気のときは薬に頼るように、

心に迷いがある、

または

心とは何か、自分とは何か、を知りたければ、

修行したくなる。


空腹の度合いが高ければ、食べる量も多くなるように、

迷いが多ければ、修行も深くなる。


仏教では、

人はみなもともと仏であるが、

迷い煩悩にまみれて、それに気がつかない、

としている。

満月が雲に隠れているようなものである、と。


多くの場合、

その雲を取り除くことを考える。


迷い煩悩を修行や生活の工夫によって、はぎとれば、

満月が、仏が現れる、と。

僕らが備えている仏の(悟り、しあわせ)の可能性(仏性)を、

覆い隠している雲をいかにして払うかに努力する。


すると、

その雲にとらわれ、月を見失うことが少なくない。

悟りではなく、煩悩に関心を持ってしまう。


だから、

雲(迷い、苦しみ、悩み、不安、悲観的な思考)ではなく、

もともとある月(仏性、しあわせ、悟り)に着目したほうが、

悟る可能性は大きい。

お大師さんの高弟、実慧大徳の『大毘盧遮那経王疏伝』に

直住月宮 (じきじゅうがっくう)という言葉がある。

遠い月を望むのではなく、

そこに行って、直に坐る、ということ。

その月(仏性)がある、ということを知っていれば、

どんな困難も乗り越えられる力になる。


月に坐るのは、

三摩地という瞑想修行によるのだけれど、

これは、

身体と口(言葉)を使う。


能書きを読むのではなく、薬を飲むように、

言い訳をしないで実行するように、

目的地にジャンプするように、

対処療法よりも、体質を改善するように、

クダクダ言わずに遊びに熱中するように、

修法は身体的である。



もちろん、

三摩地などの瞑想修行も、

その基本にあるのは、

他に対する思いやりとやさしさという慈悲の心。

普段の生活で、

ありがとう、

おいしかった、

と誰かをほめれば、仏の口になり、

心の中で誰かに合掌礼拝すれば、仏の身体になる。 


雲のような煩悩の根本は、

無始の間隔(けんきゃく)である。
 
人と仏を間隔(わか)つ微細の迷い


このために人は苦しむ。
 
しかし、

「三世の諸佛ことごとく中において現じ、本尊の身を証して普賢の一切の行願を満足す」
(『菩提心論』)

とあるように、

月に坐れば、

私の中に一切三世十方が映り、一切が入る。

自と他の間にはしきりが無くなる。



以上は、恩師の講義を僕なりにまとめたもの。



[ 2018/05/13 06:36 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
町の名前
信州へ車で往復するとき、

中央道を通ることもある。


山梨県に入ると、都市名標識を見て、へえーと思う。

もともと、

町名都市名は地名だった。

今は違うところが多くなった。


大月甲府塩山と昔からの地名を見ると、

ああ、甲州に来たなあと思う。

そんな中、

南アルプス市という看板標識が見える。

カタカナの名前は他にもあるけれど、へーと思う。

南アルプスとは、赤石山脈のことではないのか。

 
中央市もある。

シンプルだけれど、その土地を表しているとは思えない。


甲斐市と甲州市がある。

山梨県の旧国名は甲斐

甲州と言うのは、

信濃を信州、長門を長州と呼ぶのと同じ。

 
甲州の生まれ、

といえば山梨県の生まれで、

甲州へ行ってきた、

といえば、山梨へ行ったと、僕は思う。



山梨県が甲斐で甲州なのに。

全体を表す名を、一部の地域が使うのはどうなのだろうか。


僕の現住所がある下野(しもつけ)市は、

以前、下都賀郡国分寺町だった。下野国分寺がおかれた町。

合併で下野市になった。

県南の一部地域である。

もちろん、

栃木県の旧国名が下野。

詐称と言ってよいような気がする。


昔々、この辺りを毛野と呼んだ。

豊かな土地、という意味である。

不毛ではない土地。

鬼怒川は毛野川であろう。


都に近いほうが上毛野(かみつけの」

遠い地域が下毛野(しもつけの)

律令制度では、国名は二文字と決められたから、

上野と下野になり、

読みかたには「け」が残り、

こうづけ、しもつけ

になった。

上野は上州、下野は野州である。


 
ここは小山市 三田地区。

名前の通り美しい毛野で、

今は実った麦畑と、田植えが済んだばかりのたんぼが広がる。


そういえば、

名前の相談でもいろいろある。

人の名前、商品や会社の名前で、

画数のことばかり気にして、

吉数だけれど、音や字面がなあ、

ということは少なくない。


まあ、どうでもよいのですが。




[ 2018/05/14 05:42 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
はしかなど、陽性症状の食養
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[ 2018/05/16 11:01 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
いざという時
山椒の実を収穫



今が旬で、数日後には固く茶色になる。

今年は時期が早く、収穫量が多い。



それはさておき、

被災時を思い出すと、

安否確認の方法は悩ましい。

その後

LINEというサービスができて、災害時に役立ちそうである。


普段の生活でも、

歳をとって、しかもひとり暮らしになると、

その安否はなかなか分からないことがある。

あの人は、生きているのだろうか、と。

そこで、

LINEでトーク(メッセージ)を送り、

既読になれば、

生きている、と判断する。

既読が無ければ、

電話をかける、家を訪ねるなどして安否確認をする。 

こちらは、

既読にすることで、

相手に「生きてますよ」とサインを送る。



終活の相談が増えてきた。

多いのは遺品整理の問い合わせ。

引き継げない位牌や仏具をはじめ、

遺品になるであろうものを、供養処分または保管して欲しい、

などなど。

エンディングノートにアンタの連絡先を書くからヨロシク、

もある。



護摩の後に、

不動明王の話をするように云われ、

『不動次第』にある因業不可得を説明した。

お不動さんを象徴する梵字には、

原因と結果の束縛から離れる

という意味がある。

たとえば、

自分の不幸不調不満の原因を探ると、

多くの場合、言い訳にたどり着く。

そうではなく、

それらの現実は真実であり、始まりも終わりも無いものである。

だから、

あるがままに生きて、

慈悲心と向上心が身につくことを護摩で祈願すればよろしい。

身につけば、確実に改善する。


いざと云うときにも、役に立つと考えています。



[ 2018/05/16 11:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
いま僕にできること
泊まったホテル近くでライブがあり、

TANEBIが歌っていた。

TANEBIは、

上田和寛(うえだ たかひろ)と 杉山勝彦のデュオ。

杉山さんは 、

乃木坂46、家入レオ など多くの作曲を手がける音楽プロデューサー、

去年、レコード大賞作曲賞を受けている。


10年くらい前 、

大阪の天才治療家・宮島先生から

関西で一番歌がうまいヤツです、

と紹介されたのが 上田さん。 同級生とのこと。


震災後、

津波に遭った町を巡拝していたら、上田さんが老人施設で歌っていた。

何遍も来てくれている。


ウチの護摩と上田さんの「いま僕にできること」




オリジナルはこちら




ライブで歌っていたTANEBIの「スターマイン」

 



震災復興ソング「また明日」



僕らに必要なのは、

温かいうまい食べ物と希望であり、

どちらかを選べば希望かもしれない。

希望があれば生きてゆける。

歌には希望がある。


僕らは何のために拝むのか

そんなことに意味があるのか。

理由はいくつもあるだろうけれど、

そのひとつが、

いま僕にできること

だからだろうな。



[ 2018/05/17 08:59 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夏の湯豆腐
野菜や果物は、昔とずいぶん変わりました。

形・色・肌触り、そして味も。

それは、

土地や肥料や気候や栽培方法などが変わったからでしょう。


人間も変わりました。

昔とは違う。

これも、

食べ物・環境・育てかたが変わったからでしょう。

昔の野菜を食べるには、

昔のタネを昔のように育てれば可能かもしれませんが、

人間はどうなのでしょう。

おそらく、

もう戻れませんね。



密教は縁起論(存在分析学)よりも、

仏身論(仏とは何か)、成仏論(悟りの方法)に重きをおいているから、

なぜだろう、なぜかしらの原因より、

現実の価値を大切にする修行法になっています。

でも、

最近はそんな特徴が世間の仏教には見られない。

宗教へのアプローチも、

変わるのでしょうね。

夏は沐浴もしやすく、

朝が早いので、修行によろしい。



暑い夏に、

昔は麦茶、トマト、キュウリ、スイカなどのカリウムで冷やしていたのが、

最近はエアコンと冷たい食べ物飲み物で冷やすことが多い。


夏に暑い煎茶やほうじ茶はうまいものですが、

湯豆腐もうまい。

夏の薬味は、

みょうが、しょうが、実山椒、すだち

辛味酸味が、夏に濃くなる血を薄めて血行を促します。

これが暑さをしのぐ方法のひとつ。

暑いと感じるのは血が濃い血行が悪い陽性だから。

汗をかくのは排毒に最もよろしい。

どぜう鍋は夏に汗をかきかき食べるようですが、

精進では、

油揚げと豆腐を煮きり、熱々にトウガラシを振る。


夏は油が傷みやすい。

うまい天ぷら屋は店内に油の匂いがしませんが、

それは油が新鮮だからでしょう。

そういう天ぷらは夏でもうまく、胃にもたれない。


サラダを注文して、

ドレッシングは何にしますか、

と聞かれても、酸化した油のドレッシングはいらない。

夏は、

酸味辛味に塩をあわせたものがすっきり感じます。




[ 2018/05/18 10:32 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
修行論
十善戒というものがある。

1、殺さない(食べるためにはしょうがない、というものではない)
2、盗まない
3、性交しない(夫婦や恋人なら良い、というものではない)
4、嘘をつかない(ウソも方便は無い)
5、飾りごとを言わない
6、悪口を言わない
7、二枚舌を使わない
8、貪らない
9、怒らない
10、不邪見:事実ではなく噂話で判断しない

自分流に都合良く解釈せず、

これらを守ることが出来ない自分をどう思うか、

をよくよく考え、懺悔反省する。


それらの悪をなす煩悩の根本が三毒とされる。

1、貪り
2、怒り
3、無知 (真実とか本質を見ないこと)


以上を制御するための修行カリキュラムとして六度(六波羅蜜)がある。

1、布施 仲良くする
2、持戒 思いやり
3、忍辱 微笑む
4、精進 淡々と続ける
5、禅定 こころをまとめる
6、般若 向上心


十善戒のうち、

殺盗淫は持戒で、

口が災いとなるものは精進と禅定で、
 
邪見は智恵 で調う。

また、

三毒の貪りは布施で、

怒りは忍辱で、

無知は般若で治まる。

しかし、

これらは対処療法であり、

根本を退治するものではないから、毎回毎日それを続けなければならない。



お大師さんの『三業十條義』には、

「六度のうち、どれかひとつでも完全に実修すれば、他の五度は包含される」

とある。

六度を実践するべき、とお大師さんの書いたものには多くみられ、

「成仏には慈悲を根本とする福智二行が必要。

福は五度を行じる。
 
智は経典の研究、講讃、思惟」

と『理趣経開題』にもある。

しかし、

六度は一生の間、長い時間修行するもので、その先に悟りがあるのかどうかはわからない。

密教は、

今すぐに悟る即身成仏の立場である。

三密行という密教の修法により忽ちに悟る、

という文章も、お大師さんの書いたものには多くある。

三密行は、

仏の身体、言葉、心を、

自分のそれらと相応させるもので、

いくつかのカリキュラムがある。



那須政隆博士の『弘法大師の修行論』には、

六度は法性自爾、誰しもその自性の内に具有している。

自性開悟の時には、六度の功徳が自然に現れる。

とある。


お大師さんの『ばざらだらま(原文は梵字)記』に、

「本来六度等を具足して一生の中にして満徳円満するなり」

とあるように。


つまり、

六度は元々僕らの心の源底にあるものだから

実の如く自心を知る、

という三密の修行の果で自然に身につく。

そして、

本不生(存在の理由)を理解し、

三摩地(自分以外と自分の交流相応)の妙境を味わえば、
 
現実すべてにおいて、真実性を発見する。


そこでは、

十善戒は保たれ、

三毒は消える。




[ 2018/05/20 16:15 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
判断基準

陰陽研究塾の記事 80   



●判断基準
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/pCkuPy8sU1I


 






[ 2018/05/21 09:35 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
D51とシロナガスクジラ
小学生の頃から鉄道ファン時刻表愛読者なので、

地図にも馴染みがある。


最近、

節約のためにスマホからガラケーに換えたのだけれど、

ナビを使えないことが少々気がかりだった。

でも、

地図があれば問題ない。

関東と長野の道路地図を買って愛用している。

地図はナビと違い大きく見るので、広く地域を理解できる。

運転していても、標識をみれば自分がどのあたりにいるのかがわかる。

便利なものは、運動不足とバカ化を促すものだ、

と地図を使いながら感じる。


先日、

JRと地域のイベントで、

近くの両毛線にD51が牽引する列車が走った。



D51は英雄である。

 
10年ほど前、

郡山にD51が走った時、

幼児だった次男と写真を撮りに行った。

大きなD51を見た息子が、

D51とシロナガスクジラはどちらが大きいの?

と聞いた。

 
D51 は、

全長19メートル、重さ80t

シロナガスクジラは 、

全長20メートルから30メートル、体重80~190t


この大きさを実感して感動するのは、

スマホやパソコンではない世界だろうな。


[ 2018/05/21 17:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
広げたりまとめたり
密教では、

我即大日とか我即法界という言葉をよく使う。


大日は大日如来


(仙台市西光院の大日如来 )

大日如来の特徴は、僕らと似ていること。

異形ではなく、

手足が二本づつ、頭はひとつで、身を飾っている 


法界の法は五大(地水火風空)のこと、

界は蔵とか入れ物。

つまり、宇宙のこと。


瞑想次第にも、

『五字略頌』には、

我はすなわちアビラウンケン(大日如来の真言)


『五相成身』には、

我即ち卒塔婆のごとく


とある。

卒塔婆は法界を表したもの、

また、

大日を象徴するもの。だから、裏表に大日如来の真言が書かれている。

日の丸が日本をあらわすように

卒塔婆が大日である。


我れが大日、というのは、

どこからかウルトラマンのように大日がやってくるのではなく、

自分の中から現れる。細胞ひとつひとつ大日である。

もちろん、

中身が変わるのである。

大日の智恵が現れる。

それは五つあり、

生活する智恵
創造する智恵
学習して向上する智恵
身体を使って慈悲の行動をする智恵
生命そのものの智恵

即法界だから、

それは僕の中だけではなく、

一切衆生に、宇宙全体に、一塵の土の中にもある。


勉強や練習を重ねたら、

仕事や遊びや試合で自分の能力を発揮するように、

祈りや瞑想修行も、

生活のなかで、食事中でも誰かと会っても、風呂でもトイレでも、

忘れないようにする。

修行を生活化日常化する。


そうして、役に立つ。


 

 


[ 2018/05/22 11:48 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
オリーブオイルとベジタリアンについての考察

陰陽研究塾の記事 81    



●オリーブオイルとベジタリアンについての考察

https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/ncniEjebtMw






 

[ 2018/05/24 13:15 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
上を向く
上を向くと良いことがある。

月が見え、お空が見える。
 
大きな木の花や緑が見える。

そして、

姿勢が良くなる。

天井もよく見るとなかなか楽しいものである。

じっと、ものを考えるのによろしい。


坐った状態から立ち上がるとき、

顔を上に向けて立てば、腰が楽である。


机の上、膝の上、その他どこでも、

両掌を上に向ければ、

身体の余計な緊張が取れ、リラックスできる。

その後、

力が発揮できる。 


上を向くと、

腰と心が柔らかくなる。

その時、

左手で何かをつかむといい。




ホームページ作成中
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[ 2018/05/24 13:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
大切なこと
昨年はお腹に乾癬が出来て痒かった。

これは陰性の排毒。

今は右背中、肩甲骨辺りが痒い。

これは陽性の排毒。

あらゆる症状は排毒ですが、

この排毒は、まず陰性なものから始まります。

それは、

陰性は広がる力なので外へ排泄されやすく、

陽性は縮む力なので、身中にとどまりやすいからです。

なので、

陽性な排毒が済めば、症状は治まります。

他の症状では、

陰性なお小水がたくさん出てから、

陽性なおしっこになり、それで改善する。


悩みや苦しみは心の排毒で、

それらは悟りと安楽に転換します。

そのためには 、

自分に合った悟りへの方法を選び、

その方法を実践するだけ。
 

世の中の事件トラブルも同じでしょう。

それらは社会の排毒と考えられます。

陰性な事象には陽性な手当て(対応)をすれば解決しますが、

陰性なものに陰性な対応や、

陽性に陽性な手当てをしてしまうと、

治らないで悪化するのは、身体や心と同じです。


世の中には、

他のためにやさしさと思いやり、

自分のために向上心、

これらを伸ばし、

トラブルを解決するいろいろなツールがありますが、

それをどう使うかを学び、実践することが、

人生で大切なこと、と考えています。



[ 2018/05/25 07:25 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
トレーニング
キャベツの収穫時期。



採れたてをバリバリ食べるのが楽しい。

寮生活の息子が1玉持ち帰る。


豊富に含まれるビタミンUは胃薬になるけれど、

Uは ulcer(潰瘍)の頭文字、

新鮮なものほどたくさん含まれる。

 
それはさておき、

たとえば好きな人がいて、

その人のことを考える。

育った環境、学歴、今の仕事、年収、身長、体重、性格・・・。

そんなことをいろいろ考えても、

その人の本質が分かるわけでもない。

ただ、その人を見て、

心に姿を思い浮かべる。




坐禅瞑想の時、

仏とか空とか無とか、

月とか蓮華とか梵字とか、

いろいろなものを悟りのシンボルとして観想するけれど、

うまくいかないことも多い。

理や義が勝って邪魔をする。


『桧尾口決』には、

「観法のときは、別に義理を思惟せず、ただその形色のみを法のごとく歴然として観ずるばかりなり」

とある。

ただはっきりと、ありありと観ていればいい

ということ。
 
雑念は除こうとすると倍増する。


ただ観る、思うことに集中すると、

雑念に気がつかなくなる。

遊びに熱中している時のように。


このような心の働きは、草木の根のようなもので、

普段は見えないけれど、基礎になる。

そこから、

茎葉花実が育つように、

慈悲や向上心や智恵が生じる。


『大日経供養次第法』に、

もし真言行者にして、財施等の勢力をもって、広く有情を助けることができなならば、

ただ一心に月輪観等の法に住して、ひたすらに菩提心を観ずがよい

もし勢力の広く増益するなくんば、法に住して、菩提心を観ずべし


とある。



[ 2018/05/26 10:45 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
行願
「ぎょうがん」と読む。

ことをなさん、とする願いで、身行と心願。

密教では慈悲のこと。

『菩提心論』に、

行願とは 、

誓って、われすべての人々を救いわたさん

との誓いを実行する心である。

一切の衆生を利益し安楽にするべし。

とある。

この行願を、

栂尾祥雲先生は「すくい」とカナを振り、

北尾克三郎氏は「生きる意味」と訳している。



そもそも、


こよなき悟りのありさまは、

その本質が自心を知るための瞑想修行

その姿が道を求めること、

その働きが大悲行願である。



普段の暮らしで、

いつでも誰にでもニコニコし、

常に手を差し伸べるようにしているのが良いのだろうけれど、

なかなかそうはいかない。


人に接する時、

母親が幼子を見守るよう、慈悲の心で包むように思うことがある 。

コラコラ、そんなことをしていけないよ、と叱るときもある。

おお、それはすばらしい、と讃嘆して喜び、

笑いながら怒ることもある。


それらはおそらく、

悪を改め楽を与えたい行願が元になっている。

なるべくそうして生きてゆきたい。


健康とか幸せは、もぎ取れるものではなく、

行願が体得できた瞬間に現れる 。




[ 2018/05/27 11:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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