常磐線が開通している北端の富岡へ行ってきました。
着々と復旧工事が進んでいますが、
それでいいのか、とも感じます。
動画にまとめました。
最後の偈頌は少し長い。
我、秘密真言の義に依って
われ ひみつしんごんの ぎによって
略して心経五分の文を讃ず
りゃくして しんぎょう ごぶんの もんの さんず
一字一文、法界に遍じ
いちじいちもん ほうかいに へんじ
無終無始にして、我が心分なり
むじゅうむしにして わがしんぶんなり
翳眼の衆生は、盲て見ず
えげんの しゅじょうは めしひて みず
曼儒・般若は能く紛を解く
まんじゅはんにゃは よくふんの とく
この甘露を灑いで迷者を霑し
このかんろを そそいで めいじゃを うるほす
同じく無明を断じて魔軍を破せん
おなじく むみょうをだんじて まぐんをはせん
『般若心経秘鍵』の冒頭に、
「仏法は悠にあらず心中にして即ち近し
真如ほかにあらず、身を捨てて いづくにか求めん」
とあり、
この最後の頌に、
「一字一文法界に遍じ、無終無始にしてわが心分なり」
と、同じような趣旨の文があるのは、
本来我々は仏である、悟っている、大きく素晴らしく、自性清浄である
という事が主題だからでしょう。
このことは、それを知らない人もそうであり、
悟るのは自分自身です。
終わりに、栂尾先生の訳を載せます。
我いま秘密真言の義趣によって
この心経の分を五つに分かち
略してその深義を讃述した。
この心経の一字一文がそのまま、法(のり)の仏にして
ひとつひとつが、天地のいたるところに遍満し
それがそのまま終わりも始めもなき、
不生不滅のわが一心の分徳である
しかるに心の眼のくらみたる衆生は
その盲のためにそれを観ることができない
ただ、文殊菩薩と般若菩薩ありてのみ
この迷いの乱れを解くことができる
願わくは、この甘露の法雨をそそいで、
あらゆる道に迷えるものをうるおし、
内には、同じく愚かさのきづなを断ち
外には、魔軍の障りを砕き破らんことを
正しく服用すれば病気が改善します。
同じように、
経典を読んで、
そこに書かれているように、
正しく生活・修行すれば菩提・心の平安が得られます。
その経典には、タントラとスートラがあります。
ポピュラーな経本に書かれているのがスートラで、
いわゆる「お経」です。
これには、宗教の教理的なものが主に書かれています。
それに対して、
実践面の規約に重点を置いて書かれたものがタントラ。
織物が縦糸と横糸で作られるように、
タントラとスートラを両方学習実践することで、
体得できます。
密教タントラには四つあり、
順番に修行します。
1、所作タントラ
修法の作法を覚え、それを繰り返して身につけます。
歩くときは、意識しなくても右足と左足が交互に前へ出るように。
2、行タントラ
大日経に説かれている慈悲のトレーニングを、
所作タントラと同じようにできるまで実践します。
3、瑜伽タントラ
金剛頂経に説かれている瞑想修行を、
やはり歩くように実践します。
それによって、この身体のままで成仏でき、
そうなれば、自他のあらゆる側面を救済できます。
なぜなら、仏になっているのだから。
4、無上瑜伽タントラ
これは、瑜伽タントラの儀式や修法をより精密にしたものですが、
日本ではあまり取り入れられていません。
菩提心を持ち続け、
慈悲の行いによって少しずつ清浄になり、
最後に完全な自性清浄心を知る
そして、金剛頂経や理趣経に説かれている観想(三密行)によって、
菩提を得る、
という流れ。
仏教には、
A:本来、心は清らかである、元から仏である
B:修行し、心の汚れを取り除いて仏になる
という二つの立場があり、
タントラは、BあってのAという立場になっています。
普段の生活や心の安定平安に、
この立場は、安全で役に立つと考えています。
と妻が教えてくれたのは、
『戒名探偵 卒塔婆くん』(高殿 円 著)
マニアックな卒塔婆くんが、
古い墓石の戒名から、いろいろなナゾを解き明かします。
これは戒名の特徴が表れていますね。
親は、
立派な人になって欲しいと
将来の夢や希望をこめて、子に名前をつけます。
でも、
そうなるかどうかはわからない。
故人につける戒名は、
多くの場合、その人がどんな人だったか、
仕事、趣味、性格、環境などを考慮してつけます。
昔なら、その人の地位も反映されたでしょう。
だから、
戒名を見れば人柄以外にも、
いろいろなことが分かるかもしれない。
先日、
葬儀屋さんの紹介でお勤めした葬儀の際、
戒名をどうしようか迷っています、
と施主さんから相談されました。
戒名は仏典に根拠がなく、
歴史の中で定着してきた習慣・文化です。
戒律と戒名を授けて仏弟子にする、
という仕組みでしょうが、
大切なのは戒名ではなく戒律ですね。
戒律は宗教の基礎、土台。
戒は修行・勉強を助け、
それによって智慧が完成します。
故人は拝む人の心中にいるのだから、
拝む人も戒を保つべき。
『日本後紀』に、
桓武天皇が早良親王のため、春秋二季の仲月に法会を行ったのがはじめ、
とされています。
なぜお彼岸に拝むのか、
いくつのかの説があります。
もっとも分かりやすいのが、
『観無量寿経』の解釈によるもの。
念仏して西方浄土への往生を願うなら、
春秋の彼岸、真東から日が昇り真西に沈むとき、
つまり、阿弥陀様の極楽浄土がある真西の方角を正しく示して、
往生の願いを遂げさせる。
これは善導大師の釈、
と『密教仏事問答』にあります。
「一切有情は如来蔵を具す」(慈無量観)
唱える理趣経には、
「一切有情は如来蔵なり」(第十二段)
とあります。
如来蔵(にょらいぞう)は
誰もが仏の本質、仏になるための原因を持っている、
ということ。
仏性と同じような言葉です。
迷いによって覆われるかどうかの違いがあるのだけれど。
いづれにしても、
これを開発すると、
仏になる、成仏する、悟る、完成する。
お大師さんの『性霊集』には、
故人の周忌法要の願文が28種、載っています。
それらは、死者の追善菩提を願うものですが、
大日如来の悟りの境地にいざないたまえ
と、成仏することを祈願しています。
如来蔵である誰もが、
死後において成仏することを願う。
通常、
生きている人は、三密瑜伽という修行によって、悟りの境地へ出られます。
つまり、如来蔵が開発されて成仏する。
しかし、
三密瑜伽の機会を持たないまま、
死によって如来蔵が可能性のままに残される人の成仏を願う。
さらに、
その功徳によって、
全てのいのち、存在の成仏を願う。
なぜなら、みな本来仏だから。
そういう構成の願文になっています。
長野県飯田市 千頭山立石寺 護摩供の炉と火
こちらは短縮版
次回は
4月13日(土)10時から修法します。
基礎の大切さ。
基礎を身につければ、
高学年になっても楽ちん。
どんなことでも、
基礎を知らないと、
悩み、不安、不幸につながる可能性がある。
密教では、
実践面の基礎であり、
『御遺告』に、
唯識(認識とそれを超越すること)
が勉強面の基礎であるから、
必ず実習するように書かれている。
基礎土台がなければ、
多くは戯言になってしまう。
何よりも、
基礎が固まっているほうが平安で楽しい。
自分でやらなければならない、
ということ。
新しく目的をもって何かを始める、
そういう時には、それまでの問題を解決してすっきりしたほうが、
うまく進む。
その分、心が軽くなるからである。
人間関係、異性問題、金銭のトラブル等々、
それらがもしあるのなら、
自分で解決してから、勉強練習トレーニングに入るべき。
それらを抱えているということは、
それらの原因が自分にあるということだから、
その原因を取り除けば解決できるし、
それは自分にしかできない。
仏教の場合、
俗世間の問題は、拝む前に済ませてから望むべきである。
それらを解決できるよう神仏に祈っても解決するわけがない。
解決してから、修行に入る。
春に多い、出会いと別れ。
数年ぶりにある人が帰ってきた。
駅まで迎えに行き、
改札口の向こうに顔が見えた途端、僕は心弾んだ。
その人は
僕の前に来ると、恥ずかしそうに下を向き、
深々と頭を下げた。
涙をこらえているように感じたので、
僕は、肩に触れようとした手をひっこめ、
ただ会釈をして
お帰りなさい、と言った。
長く一緒にいた人が、遠地へ旅立った。
送って別れる時、
その人は唇をかみ、直立不動で軽く会釈をした。
必死に感情をコントロールしているようだったので、
僕も、伝えたいこと話したいことみな、封印して、
ただ、
お元気で、
と手を振った。
やりたいことがあれば、行きたいところがあれば、
旅立とう。
多くの人は、それを我慢させることを望んでいない。
可能性の中へ出かけよう。