シャンティ国際ボランティア会https:/ /sva.or .jp/abo ut/
から届いたニュースレターに載っていた言葉です。
写真で見ると10歳くらいの男の子、
紛争で親を亡くし、
自分の誕生日も知らない。だから、自分の年齢もわからない。
その子が云った言葉。
やはり10歳くらいの女の子は、
一日中ゴミを集めて、日給150円貰って生活している。
固い表情しかなかったその子が、
本に出会って子どもらしく、目を輝かせるようになる 。
嬉しいことは、
水を飲むこと
と答える幼い子もいる。
わずかな額を寄附することしかできないけれど、
子どもを助けることにつながるなら。
東日本大震災翌年5月、
僕は津波被災地・宮城県東松島東名の復興イベントに参加しました。
全国から集ったボランティアに混ざり、
僕らはご祈祷スペースを作りました。
そこへ、
10歳の女の子が来て、願いごとを護摩木に書きました。
「友達に会いたい」
津波で流された親友に会いたいとのこと。
僕はその願いをかなえてあげることができない。
僕ができるのは、
生きている人に思いやりと優しさをもって接することくらいだろうか。
仏教は生きている人のためにある、
亡くなった人をどうこうすることはできない。
ということを、つくづく感じました。
しかし、
戦争や災害があれば、
それに立ち向かえない子どもには、
業や因果で人生を説明できない。
から届いたニュースレターに載っていた言葉です。
写真で見ると10歳くらいの男の子、
紛争で親を亡くし、
自分の誕生日も知らない。だから、自分の年齢もわからない。
その子が云った言葉。
やはり10歳くらいの女の子は、
一日中ゴミを集めて、日給150円貰って生活している。
固い表情しかなかったその子が、
本に出会って子どもらしく、目を輝かせるようになる 。
嬉しいことは、
水を飲むこと
と答える幼い子もいる。
わずかな額を寄附することしかできないけれど、
子どもを助けることにつながるなら。
東日本大震災翌年5月、
僕は津波被災地・宮城県東松島東名の復興イベントに参加しました。
全国から集ったボランティアに混ざり、
僕らはご祈祷スペースを作りました。
そこへ、
10歳の女の子が来て、願いごとを護摩木に書きました。
「友達に会いたい」
津波で流された親友に会いたいとのこと。
僕はその願いをかなえてあげることができない。
僕ができるのは、
生きている人に思いやりと優しさをもって接することくらいだろうか。
仏教は生きている人のためにある、
亡くなった人をどうこうすることはできない。
ということを、つくづく感じました。
しかし、
戦争や災害があれば、
それに立ち向かえない子どもには、
業や因果で人生を説明できない。
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文字は意味伝達の記号なのだけれど、
文字によって如来は説法する、
というのが密教の立場です。
『声字実相義』には、
書き言葉、話言葉はもちろん、
形も色も匂いも、文字のひとつとして
すべてが如来の説法としています。
つまり、
あらゆるところ、すべての環境がそうである、と。
文字には、
論理的な解釈と、感情的なシンボルとしての部分があります。
真言は、
そのシンボル的な部分を、宗教的直観で得るものです。
真言は、サンスクリット語・マントラの訳語ですが、
動詞「man」は、思考する
接尾語「tra」は、器、道具
の意味です。
ですから、
真言は唱えるだけのものではない。
化学式や数学の方程式を知らない人にとって、
それらを使うことはできません。
同じように真言の使いかたを知らない人にとっては、
真言は無用の長物で、唱えても何も生み出さず、時間の浪費であり、
錯覚や妄想のもとになるかもしれません。
H₂OやCO₂を唱えても、、
水や二酸化炭素はできないのと同じです。
真言自体に不思議な力があるわけではなく、
意味を考え、正しく唱えることで、その人の心や意識が変わります。
ロックなどの洋楽を聴くと、
言葉の意味が分からなくても、メロディなどで感動することがありますが、
論理的な理由のない感情を引き出すことは、
真言にもあります。
しかし、
それも正しく唱えないと、妄想につながり、心を傷める可能性があります。
世界はすべて如来の説法ですが、
それを体験できるように準備をし、
知らないことを知るようにしなければそれはわからない。
『秘鍵』に、
翳眼の衆生は盲いて見えず
とありますが、
日常すべての言葉、文字は、
勉強して意味を理解して、
正しく使うことが、
良い効果を生み出すでしょう。
僕らは、
音、声、言葉、文字、つまり如来に包まれている。
文字によって如来は説法する、
というのが密教の立場です。
『声字実相義』には、
書き言葉、話言葉はもちろん、
形も色も匂いも、文字のひとつとして
すべてが如来の説法としています。
つまり、
あらゆるところ、すべての環境がそうである、と。
文字には、
論理的な解釈と、感情的なシンボルとしての部分があります。
真言は、
そのシンボル的な部分を、宗教的直観で得るものです。
真言は、サンスクリット語・マントラの訳語ですが、
動詞「man」は、思考する
接尾語「tra」は、器、道具
の意味です。
ですから、
真言は唱えるだけのものではない。
化学式や数学の方程式を知らない人にとって、
それらを使うことはできません。
同じように真言の使いかたを知らない人にとっては、
真言は無用の長物で、唱えても何も生み出さず、時間の浪費であり、
錯覚や妄想のもとになるかもしれません。
H₂OやCO₂を唱えても、、
水や二酸化炭素はできないのと同じです。
真言自体に不思議な力があるわけではなく、
意味を考え、正しく唱えることで、その人の心や意識が変わります。
ロックなどの洋楽を聴くと、
言葉の意味が分からなくても、メロディなどで感動することがありますが、
論理的な理由のない感情を引き出すことは、
真言にもあります。
しかし、
それも正しく唱えないと、妄想につながり、心を傷める可能性があります。
世界はすべて如来の説法ですが、
それを体験できるように準備をし、
知らないことを知るようにしなければそれはわからない。
『秘鍵』に、
翳眼の衆生は盲いて見えず
とありますが、
日常すべての言葉、文字は、
勉強して意味を理解して、
正しく使うことが、
良い効果を生み出すでしょう。
僕らは、
音、声、言葉、文字、つまり如来に包まれている。
『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』に、
一切の言葉を、
迷いと悟りを基準に、五つにわけた五種言説が説かれています。
「言葉には五つの種類がある。
1、相言説(すがたの言説)
2、夢言説
3、妄執言説(とらわれの言説)
4、無始言説(ならわしの言説)
5、如義言説(まことの言説)」
( )内は栂尾先生の訳。
これを、お大師さんが
『弁顕密二教論 』に引いています。
真如は、人間の言葉で思考し、表現するのは難しいけれど、
如義言説という真実の「仏の言葉」で説くことができる
という内容ですが、
夢言説について、こうあります。
「夢の言説とは
もと過去に受用し、
経験した因縁生のいつわりの境界をつねに思念することから、
その境界を夢み、その夢の覚めおわった後
それがいつわりの境界によって起るもので、
実体があるわけではないことを知って生じるもの」
自分の過去に執着することが迷いである、
ということ。
今から1000年以上前に、
夢は過去の再生にすぎない虚妄である、
と判断していることが、
すごいことだなあ、と感じます。
一切の言葉を、
迷いと悟りを基準に、五つにわけた五種言説が説かれています。
「言葉には五つの種類がある。
1、相言説(すがたの言説)
2、夢言説
3、妄執言説(とらわれの言説)
4、無始言説(ならわしの言説)
5、如義言説(まことの言説)」
( )内は栂尾先生の訳。
これを、お大師さんが
『弁顕密二教論 』に引いています。
真如は、人間の言葉で思考し、表現するのは難しいけれど、
如義言説という真実の「仏の言葉」で説くことができる
という内容ですが、
夢言説について、こうあります。
「夢の言説とは
もと過去に受用し、
経験した因縁生のいつわりの境界をつねに思念することから、
その境界を夢み、その夢の覚めおわった後
それがいつわりの境界によって起るもので、
実体があるわけではないことを知って生じるもの」
自分の過去に執着することが迷いである、
ということ。
今から1000年以上前に、
夢は過去の再生にすぎない虚妄である、
と判断していることが、
すごいことだなあ、と感じます。
先日の葬儀は、
火葬場の炉前で拝む火葬式。
最近増えています。
炉の前(告別室など、焼香する部屋のあることが多い)
で、全員立ったまま、時間も長くて15分。
こういう時は、
早目に行って、
火葬の前に待合室などでお話をします。
火は暖かさと明るさをもたらし、
調理を助け、
化学反応に関わります。
多くの産業に必要。
でも、
管理を怠ると、火傷や火事など、危険なことも起こります。
護摩の火は如来の智慧の象徴で、
無知を焼きます。
しかし、
怒り貪り執着などの煩悩も、燃える火となります。
欲望の火が、智慧の火に昇華するためには、
空性(無我や無常を体得すること)の理解が必要です。
空性が迷いを焼く、と云ってもいい。
深い心のコントロ-ルにより
自我への執着が無意味であり、
自他の比較も無意味であり、
自他の仕切りが低くなることで得られます。
智慧の火によって、迷い執着が焼ければ、
火の中に宇宙の真理が現れる。
その時、拝んでいる人は大日如来、宇宙の真理に出会う。
それが、成仏です。
僕らは、本来清浄で、
元より悟っているのに、
迷い煩悩無知の埃が積もって、それが見えないだけだから、
その埃が智慧の火で焼かれた瞬間、本性(仏)が現れるはずです。
火葬も、
世俗を焼いているのだろうか。
____________________________
立石寺からのお知らせ
☆7月6日(土) 9時~護摩供
☆7月7日(日) 13時半から 施餓鬼法会
どうぞお参りください。
火葬場の炉前で拝む火葬式。
最近増えています。
炉の前(告別室など、焼香する部屋のあることが多い)
で、全員立ったまま、時間も長くて15分。
こういう時は、
早目に行って、
火葬の前に待合室などでお話をします。
火は暖かさと明るさをもたらし、
調理を助け、
化学反応に関わります。
多くの産業に必要。
でも、
管理を怠ると、火傷や火事など、危険なことも起こります。
護摩の火は如来の智慧の象徴で、
無知を焼きます。
しかし、
怒り貪り執着などの煩悩も、燃える火となります。
欲望の火が、智慧の火に昇華するためには、
空性(無我や無常を体得すること)の理解が必要です。
空性が迷いを焼く、と云ってもいい。
深い心のコントロ-ルにより
自我への執着が無意味であり、
自他の比較も無意味であり、
自他の仕切りが低くなることで得られます。
智慧の火によって、迷い執着が焼ければ、
火の中に宇宙の真理が現れる。
その時、拝んでいる人は大日如来、宇宙の真理に出会う。
それが、成仏です。
僕らは、本来清浄で、
元より悟っているのに、
迷い煩悩無知の埃が積もって、それが見えないだけだから、
その埃が智慧の火で焼かれた瞬間、本性(仏)が現れるはずです。
火葬も、
世俗を焼いているのだろうか。
____________________________
立石寺からのお知らせ
☆7月6日(土) 9時~護摩供
☆7月7日(日) 13時半から 施餓鬼法会
どうぞお参りください。
陰陽研究塾の記事 120
市販食品の陰陽と酸アルカリ:牛乳・ジュース・ソフトドリンク・ビール
陰陽研究塾の記事 121
市販食品の陰陽と酸アルカリ:ヨーグルト、チーズ、醤油、ソース、カレー
☆年会費の有効期限が終了しているかたは、
お気持ちがありましたら、ご継続ください。
男の子には、
記憶することそのものに熱中する時期があります。
自動車の名前、鉄道の駅名や車両の形式、
プロ野球選手の名前と背番号と年俸、
世界の国名と国旗と首都、
元素周期表、郵便切手の図柄、日本や世界の三大ナントカ・・・。
そういう時に、
うちの子は天才かもしれない、と錯覚する親もいる。
生活の役に立つことは、ほぼ無いのだけれど、
覚えることが面白い。
僕は今、
中年から老年にさしかかっています。
あの頃覚えたものが、ふと浮かぶことがたびたびある。
昨日勉強したことは、忘れているのに。
明日から、
福島と宮城へ慰霊にでかけます。
あの日以降、
記憶することと、忘れたいことと
両方の気持ちがずっと続いています。
※カンパOfuseお賽銭箱
記憶することそのものに熱中する時期があります。
自動車の名前、鉄道の駅名や車両の形式、
プロ野球選手の名前と背番号と年俸、
世界の国名と国旗と首都、
元素周期表、郵便切手の図柄、日本や世界の三大ナントカ・・・。
そういう時に、
うちの子は天才かもしれない、と錯覚する親もいる。
生活の役に立つことは、ほぼ無いのだけれど、
覚えることが面白い。
僕は今、
中年から老年にさしかかっています。
あの頃覚えたものが、ふと浮かぶことがたびたびある。
昨日勉強したことは、忘れているのに。
明日から、
福島と宮城へ慰霊にでかけます。
あの日以降、
記憶することと、忘れたいことと
両方の気持ちがずっと続いています。
※カンパOfuseお賽銭箱
思い通りにならないという苦に対し、
思い通りになるという楽を求めることを、
執着(rāga)と云います。
この思考では、
苦が無くなれば楽も無くなります。
普段、言葉を使うことによって、
その言葉が持つイメージで固定された認識を持つので、
多くの場合、正しい判断や正確な認識ができません。
苦や楽は主体側にのみあります。
鳥の声を聞いて、美しいと感じます。
美しいと感じるのは主体(私)であり、
鳥(客体)には、何の関係もありません。
鳥、美しい、などの言葉で、主体側が勝手にイメージしていだけで、
それが真実かどうかはわかりません。
この、
主体と客体を分別することは、識によって行われますが、
僕らの日常は、
主客相対の上に成り立ち、相手を区別し分析します。
それは、事実のありのままの姿の認識ではなく、
僕がそう感じた、という主観によって組み立てられたもので、
誤謬性があり、妄分別(vikalpa)です。
つまり、
だれが何を感じようと、
真実は言葉で説明できません。
そのため、
仏教では、真言、梵字、仏具、曼荼羅、仏像、香、景色、月星、自然などで、
シンボライズします。
心とは満月のようなもの、
などと。
心そのものを言葉で定義できないからです。
この、主体と客体の分別を停止することで、
執着の止滅→苦楽の止滅になります。
ふたつの対立を無くするのです。
存在の真実(なぜ存在しているのか、など)は
言葉では説明できないので、多くは沈黙されます。
しかし、それでは分からないので、
作法や所作などを通して説法します。
悟りとは、実の如く自心を知ること(大日経)ですが、
それは、
心の執着する内外、分別等の、
あらゆる執着(とらわれ)よくよく観察して離れることです。
具体的な瞑想法では、
虚空は無ではなく一切を含容しているように、
ひとつの作法、ひとつの動作が、
法界に周辺すると観想すること。
これによって、
表現されないものを観ます。
※Ofuse お布施箱
思い通りになるという楽を求めることを、
執着(rāga)と云います。
この思考では、
苦が無くなれば楽も無くなります。
普段、言葉を使うことによって、
その言葉が持つイメージで固定された認識を持つので、
多くの場合、正しい判断や正確な認識ができません。
苦や楽は主体側にのみあります。
鳥の声を聞いて、美しいと感じます。
美しいと感じるのは主体(私)であり、
鳥(客体)には、何の関係もありません。
鳥、美しい、などの言葉で、主体側が勝手にイメージしていだけで、
それが真実かどうかはわかりません。
この、
主体と客体を分別することは、識によって行われますが、
僕らの日常は、
主客相対の上に成り立ち、相手を区別し分析します。
それは、事実のありのままの姿の認識ではなく、
僕がそう感じた、という主観によって組み立てられたもので、
誤謬性があり、妄分別(vikalpa)です。
つまり、
だれが何を感じようと、
真実は言葉で説明できません。
そのため、
仏教では、真言、梵字、仏具、曼荼羅、仏像、香、景色、月星、自然などで、
シンボライズします。
心とは満月のようなもの、
などと。
心そのものを言葉で定義できないからです。
この、主体と客体の分別を停止することで、
執着の止滅→苦楽の止滅になります。
ふたつの対立を無くするのです。
存在の真実(なぜ存在しているのか、など)は
言葉では説明できないので、多くは沈黙されます。
しかし、それでは分からないので、
作法や所作などを通して説法します。
悟りとは、実の如く自心を知ること(大日経)ですが、
それは、
心の執着する内外、分別等の、
あらゆる執着(とらわれ)よくよく観察して離れることです。
具体的な瞑想法では、
虚空は無ではなく一切を含容しているように、
ひとつの作法、ひとつの動作が、
法界に周辺すると観想すること。
これによって、
表現されないものを観ます。
※Ofuse お布施箱