心には色々なレベルがあって、僕の心もいつも同じではなく、常にコロコロと変化しています。
例えば、
1、食欲と性欲だけの状態。自我にとらわれ、自分や自分のものにいつも執着している。
2、自分の食べ物持ち物を誰かに分けてあげるような、少しだけ道徳や倫理を知る心。
3、天国や神などを知り、現世で良いことをすればそういうところへ行けると信じ、戒めを護り、来世の安楽を願う心。
4、「自分」というものには実体がないことを悟る心。
5、全てのことには原因があり、縁と条件によって起きていると悟り、迷いを取り除く心。
6、縁にとらわれず、慈悲の心を全ての人に起こし、他を救おうとする心。
7、「自分のもの」というのも錯覚であり、自分の心に起こることも実体は無い、と悟る心。
8、人の本性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であると知る心。
9、あらゆるもの、あらゆる事象に中に、一切のものが含まれる、何もかもがお互いに関連し合って起きている、と悟る心。
10、自分の心の源底を知り、ありのままに自分の身体の数量を悟る心。
4~10は仏教各派における思想の違いですが、いずれにしても僕らの心にはいろいろな悟りと迷いが連続して生じており、固定した「これが僕の心だ」というものは無いんです。
そして、4~10の仏教的な心において最も大切なものが、「慈悲」と「心のトレーニング」です。
心のトレーニングにも多くの種類がありますが、基本は、
心を静かにすること。
その心に映るものを冷静に観察すること。
のふたつです。
もし、慈悲と心のトレーニングが無いと、1~3の心のままで、
自分の安らぎや満足のためには、自分の欲望(たとえそれが悟りや幸せでも)のためには、神を願いながら人を殺す、ということになりかねません。
他への慈しみと、自らの心をより高い境地へ引き上げようとする努力が無ければ、
妄想による存在が脳内に繰り広げられ、限りない要望が引き起こされます。
それが迷いになり、殺し合い、犯罪、邪心、自分勝手な神の世界を作ります。
ですから、慈愛の行いを心がけ、心をコントロールするようなトレーニングに励み、
妄想が引き起こす迷いの世界を消すことが、世界を平和にするための宗教的解決法です。
仏教では、
あらゆる存在は空(実体は無く、錯角、妄想、思い違い、自分の思う通りにしたいという欲望にすぎない)であり、執着するものは何もない
と考えています。
人を殺すのは怖れがあり、臆病だからです。ビクビクしているから攻撃する。
これは腎臓の弱り 、動物性蛋白質と化学的添加物・砂糖の過剰。
人を殺めるのは怒り、我慢できない心。我慢することができないから攻撃する。
これは肝臓の弱り、脂肪と化学物質の過剰。
ところで、
僕は19歳の時に足を悪くして、大学近くの三畳一間に間切り下宿していました。
当時70歳父方の祖母が、
一日おきに来てくれて、ご飯を作り掃除をして洗濯物を持って帰る。
翌々日にきれいな洗濯物を持って来て、またご飯を作ってくれる。
電車に乗って20分、駅から歩いて30分の道。
いつも作ってくれたのが、野菜を煮込んだ味噌汁で、最後に卵を一個落として、半煮えになったもの。
上級生になって、僕は母方祖父母の家に居候していました。
祖父はガンの闘病生活で、ビワの葉灸やら漢方やら。食事は玄米でした。
遅く起き出してくる僕のために、炊飯ジャーの中には玄米ご飯の片隅に、ひとり分の白米がありました。
味噌汁は、祖父の療養メニューなのか、小魚たくさん、ネギたくさん、季節の野菜もたくさん入った煮物。
それを、僕はおいしいとも言わず思わず食べたような気がする。
ここに、自他共に慈悲深く優しくなれる言葉があります。
おいしいね
と
ありがとう
例えば、
1、食欲と性欲だけの状態。自我にとらわれ、自分や自分のものにいつも執着している。
2、自分の食べ物持ち物を誰かに分けてあげるような、少しだけ道徳や倫理を知る心。
3、天国や神などを知り、現世で良いことをすればそういうところへ行けると信じ、戒めを護り、来世の安楽を願う心。
4、「自分」というものには実体がないことを悟る心。
5、全てのことには原因があり、縁と条件によって起きていると悟り、迷いを取り除く心。
6、縁にとらわれず、慈悲の心を全ての人に起こし、他を救おうとする心。
7、「自分のもの」というのも錯覚であり、自分の心に起こることも実体は無い、と悟る心。
8、人の本性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であると知る心。
9、あらゆるもの、あらゆる事象に中に、一切のものが含まれる、何もかもがお互いに関連し合って起きている、と悟る心。
10、自分の心の源底を知り、ありのままに自分の身体の数量を悟る心。
4~10は仏教各派における思想の違いですが、いずれにしても僕らの心にはいろいろな悟りと迷いが連続して生じており、固定した「これが僕の心だ」というものは無いんです。
そして、4~10の仏教的な心において最も大切なものが、「慈悲」と「心のトレーニング」です。
心のトレーニングにも多くの種類がありますが、基本は、
心を静かにすること。
その心に映るものを冷静に観察すること。
のふたつです。
もし、慈悲と心のトレーニングが無いと、1~3の心のままで、
自分の安らぎや満足のためには、自分の欲望(たとえそれが悟りや幸せでも)のためには、神を願いながら人を殺す、ということになりかねません。
他への慈しみと、自らの心をより高い境地へ引き上げようとする努力が無ければ、
妄想による存在が脳内に繰り広げられ、限りない要望が引き起こされます。
それが迷いになり、殺し合い、犯罪、邪心、自分勝手な神の世界を作ります。
ですから、慈愛の行いを心がけ、心をコントロールするようなトレーニングに励み、
妄想が引き起こす迷いの世界を消すことが、世界を平和にするための宗教的解決法です。
仏教では、
あらゆる存在は空(実体は無く、錯角、妄想、思い違い、自分の思う通りにしたいという欲望にすぎない)であり、執着するものは何もない
と考えています。
人を殺すのは怖れがあり、臆病だからです。ビクビクしているから攻撃する。
これは腎臓の弱り 、動物性蛋白質と化学的添加物・砂糖の過剰。
人を殺めるのは怒り、我慢できない心。我慢することができないから攻撃する。
これは肝臓の弱り、脂肪と化学物質の過剰。
ところで、
僕は19歳の時に足を悪くして、大学近くの三畳一間に間切り下宿していました。
当時70歳父方の祖母が、
一日おきに来てくれて、ご飯を作り掃除をして洗濯物を持って帰る。
翌々日にきれいな洗濯物を持って来て、またご飯を作ってくれる。
電車に乗って20分、駅から歩いて30分の道。
いつも作ってくれたのが、野菜を煮込んだ味噌汁で、最後に卵を一個落として、半煮えになったもの。
上級生になって、僕は母方祖父母の家に居候していました。
祖父はガンの闘病生活で、ビワの葉灸やら漢方やら。食事は玄米でした。
遅く起き出してくる僕のために、炊飯ジャーの中には玄米ご飯の片隅に、ひとり分の白米がありました。
味噌汁は、祖父の療養メニューなのか、小魚たくさん、ネギたくさん、季節の野菜もたくさん入った煮物。
それを、僕はおいしいとも言わず思わず食べたような気がする。
ここに、自他共に慈悲深く優しくなれる言葉があります。
おいしいね
と
ありがとう
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