貪欲(むさぼり)、瞋欲(いかり)、愚癡(おろかさ)の三つを根本の煩悩、
貪瞋癡(とんじんち)の三毒と言います。
大本は愚癡、すべてはここから生まれます。
この愚癡を無明(むみょう)ともいいます。
明るくないこと。迷いのこと。真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態。
何も見えない暗闇に、灯明ひとつあればパッと明るくなり周囲が見えます。
同じように、無明の闇の中では真実が見えないので迷い、智慧の光があればすべてが見えます。
あらゆるの苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅します。
「我」というものが存在するという見解が無明。
智慧の光、つまり「我」などというものは実体が無い、と理解することで苦しみはたちまち姿を消します。
そして、「苦しみ」も何か実体を伴って存在しているわけではありません。
自分がそう持っているだけ、概念に過ぎない。
実際には無いもの(自分が脳の中で勝手に作り出して想像、錯覚しているもの)を有ると考えるのが無明です。
以前に書いた六波羅蜜の行
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% EF%BC%9 4%E3%80 %81%E4% BF%AE%E 8%A1%8C %E3%81% AE%E5%A E%97%E6 %95%99
は、
それによって煩悩をひとつづつ浄める行です。
布施によって貪りを、
忍辱によって怒りを、
智慧によって愚癡を、
というように。
時間をかけて三毒煩悩から離れようとします。
それに対して密教では、
煩悩即菩提
問題は自らの中にあるので、
智慧と慈悲は三毒を母体にして生じ、
三毒は進歩向上させる原動力
と考えます。
僕らは三毒具足しているけれど、本来清浄、仏性がある。
その本性の全能を信じ、その信を不動のものにしようとします。
六波羅蜜は煩悩をどうするか
ということが問題になりますが、
密教の三密行は本心の広大清浄にすわりつづけようとします。
そのままで、煩悩を生かして活用して仏になろうとする。
六波羅蜜は心の垢を払うために積み重ねていく行であり、
三密行は固有の宝を開顕する行です。
具体的には慈愛と三密行です。
慈愛には、
1、人の暮らしを助けると
2、人の魂を高め清めること
がありますが、重要なのは 2、です。
三密行は、
手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏の観念をこらす
仏の身体と同じく印を結び
仏の言葉である真言を唱え、
仏の境地を瞑想します。
そうして、本来清浄な心に座ろうとします。
人は何かをしようとする時、まず心にそれを思います。
そしてそれを口に出し、
口に出したことを行動に移します。
その、身体、言葉、心の三つを三業(さんごう)と言いますが、仏のそれは三密と言います 。
自分の三業を三密にします。
三密行は専門的で伝授やトレーニングが必要ですが、
もっとも簡単な方法は
仏前で合掌し、口で真言を唱え、心で仏の恩徳を思う、
という作法。
密教の三密行は、
僕らは元々悟り、完成している、無尽の財をもっているから、他人のために慈愛を行じ、
この身このままで今すぐに仏になろうとする行です。
______________________________
【修行してみる】
○写経
淡々と同じことを、あまり余計なことを考えずに、ただ続けることが精進です。
ただ書く、という写経は、心を調えることに役立ちます。
出来れば筆で、そして墨をすることから始めると良いでしょう。
墨をするという丁寧な作業は心がこもります。 それが精進です。
書く紙は市販の写経用紙でも、半紙でも構いません。
塗香があれば手に塗ります。紙が汚れず、手がサラサラになるので書きやすい。
香りで心も落ち着きます。
香を焚き、姿勢よく坐ります。
書写する経は般若心経がポピュラーですが、他にお好きなお経があればそれでもかまいません。
一度にすべて書く必要は無く、少しづつ書きましょう。
般若心経なら、
まず、お経を一巻、唱えます。
紙に向かい、経題の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と書きます。
次の行から一文字づつ書写します。
間違えたら、その文字に点を打ち、その下や横に書き直します。
ただ、ひたすらに書きます。何も考えないのが良い。
写し終わったら、一行あけて、日付。
次の行に願意を書きます。写経という修行を何のためにしたのか、ということを書きます。
家内安全、世界平和、何でも構いません。
特にわからなければ
「報恩感謝」が良いでしょう。
次の行の下方に名前を書きます。
書いた写経は巡礼遍路などで納めたり、有縁の寺に奉納します。
自宅の仏壇に納めてもよろしい。
たくさん書くほど、修行の効果があります。
貪瞋癡(とんじんち)の三毒と言います。
大本は愚癡、すべてはここから生まれます。
この愚癡を無明(むみょう)ともいいます。
明るくないこと。迷いのこと。真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態。
何も見えない暗闇に、灯明ひとつあればパッと明るくなり周囲が見えます。
同じように、無明の闇の中では真実が見えないので迷い、智慧の光があればすべてが見えます。
あらゆるの苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅します。
「我」というものが存在するという見解が無明。
智慧の光、つまり「我」などというものは実体が無い、と理解することで苦しみはたちまち姿を消します。
そして、「苦しみ」も何か実体を伴って存在しているわけではありません。
自分がそう持っているだけ、概念に過ぎない。
実際には無いもの(自分が脳の中で勝手に作り出して想像、錯覚しているもの)を有ると考えるのが無明です。
以前に書いた六波羅蜜の行
http://
は、
それによって煩悩をひとつづつ浄める行です。
布施によって貪りを、
忍辱によって怒りを、
智慧によって愚癡を、
というように。
時間をかけて三毒煩悩から離れようとします。
それに対して密教では、
煩悩即菩提
問題は自らの中にあるので、
智慧と慈悲は三毒を母体にして生じ、
三毒は進歩向上させる原動力
と考えます。
僕らは三毒具足しているけれど、本来清浄、仏性がある。
その本性の全能を信じ、その信を不動のものにしようとします。
六波羅蜜は煩悩をどうするか
ということが問題になりますが、
密教の三密行は本心の広大清浄にすわりつづけようとします。
そのままで、煩悩を生かして活用して仏になろうとする。
六波羅蜜は心の垢を払うために積み重ねていく行であり、
三密行は固有の宝を開顕する行です。
具体的には慈愛と三密行です。
慈愛には、
1、人の暮らしを助けると
2、人の魂を高め清めること
がありますが、重要なのは 2、です。
三密行は、
手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏の観念をこらす
仏の身体と同じく印を結び
仏の言葉である真言を唱え、
仏の境地を瞑想します。
そうして、本来清浄な心に座ろうとします。
人は何かをしようとする時、まず心にそれを思います。
そしてそれを口に出し、
口に出したことを行動に移します。
その、身体、言葉、心の三つを三業(さんごう)と言いますが、仏のそれは三密と言います 。
自分の三業を三密にします。
三密行は専門的で伝授やトレーニングが必要ですが、
もっとも簡単な方法は
仏前で合掌し、口で真言を唱え、心で仏の恩徳を思う、
という作法。
密教の三密行は、
僕らは元々悟り、完成している、無尽の財をもっているから、他人のために慈愛を行じ、
この身このままで今すぐに仏になろうとする行です。
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【修行してみる】
○写経
淡々と同じことを、あまり余計なことを考えずに、ただ続けることが精進です。
ただ書く、という写経は、心を調えることに役立ちます。
出来れば筆で、そして墨をすることから始めると良いでしょう。
墨をするという丁寧な作業は心がこもります。 それが精進です。
書く紙は市販の写経用紙でも、半紙でも構いません。
塗香があれば手に塗ります。紙が汚れず、手がサラサラになるので書きやすい。
香りで心も落ち着きます。
香を焚き、姿勢よく坐ります。
書写する経は般若心経がポピュラーですが、他にお好きなお経があればそれでもかまいません。
一度にすべて書く必要は無く、少しづつ書きましょう。
般若心経なら、
まず、お経を一巻、唱えます。
紙に向かい、経題の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と書きます。
次の行から一文字づつ書写します。
間違えたら、その文字に点を打ち、その下や横に書き直します。
ただ、ひたすらに書きます。何も考えないのが良い。
写し終わったら、一行あけて、日付。
次の行に願意を書きます。写経という修行を何のためにしたのか、ということを書きます。
家内安全、世界平和、何でも構いません。
特にわからなければ
「報恩感謝」が良いでしょう。
次の行の下方に名前を書きます。
書いた写経は巡礼遍路などで納めたり、有縁の寺に奉納します。
自宅の仏壇に納めてもよろしい。
たくさん書くほど、修行の効果があります。
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