最近、法話をするたびに心配になることがありまして、
僕らは本来仏である、生まれながらに仏の性質を持っている(それを仏性とか如来蔵といいます)けれど、煩悩によって覆われているから見えないだけ。
という立場で話をするのだけれど、
諸法は無我であるのに、どうして仏性があるのだろうか。
そんなものはないのではないだろうか。
『勝鬘経』には、
我々は如来蔵を自分が所有しているとは自覚していないけれど、
それが無ければ、さとりたい、という願いさえおきはしないだろう。
だから、いかなるものも如来になることは可能である。
とあるけれど、如来蔵は縁起しないのだろうか。
さらには、
『大日経』では、
方便を究竟として、他人への慈悲の働きかけと、自分の心の分析を積み重ねて、初めて覚りを得る
とあるのに、
『金剛頂経』では、
智慧と慈悲の方便は、真言にとってかわり、三密行によって、すぐさまに即身成仏できる
とあるのは、大いなる矛盾ではないだろうか。
とまあ、僕もいろいろ悩んでいるのですが、
そういう悩みがあるときによろしいのがマーボー豆腐
酸味+辛味+炒り玄米+豆腐=脳の安定によろしい。
ニンニクをごま油で温め、
玉ねぎ、カボチャ、高野豆腐、しめじを唐辛子粉をまぶしながら炒め、
炊いた炒り玄米とトマトピューレを加えて煮込み、
醤油か味噌で調えます。
うまい豆腐を使うのが一番大切
僕が食べ終わった後、
妻と息子はこれでラーメンを作って食べていた。
すごくうまそうだった。
僕らは本来仏である、生まれながらに仏の性質を持っている(それを仏性とか如来蔵といいます)けれど、煩悩によって覆われているから見えないだけ。
という立場で話をするのだけれど、
諸法は無我であるのに、どうして仏性があるのだろうか。
そんなものはないのではないだろうか。
『勝鬘経』には、
我々は如来蔵を自分が所有しているとは自覚していないけれど、
それが無ければ、さとりたい、という願いさえおきはしないだろう。
だから、いかなるものも如来になることは可能である。
とあるけれど、如来蔵は縁起しないのだろうか。
さらには、
『大日経』では、
方便を究竟として、他人への慈悲の働きかけと、自分の心の分析を積み重ねて、初めて覚りを得る
とあるのに、
『金剛頂経』では、
智慧と慈悲の方便は、真言にとってかわり、三密行によって、すぐさまに即身成仏できる
とあるのは、大いなる矛盾ではないだろうか。
とまあ、僕もいろいろ悩んでいるのですが、
そういう悩みがあるときによろしいのがマーボー豆腐
酸味+辛味+炒り玄米+豆腐=脳の安定によろしい。
ニンニクをごま油で温め、
玉ねぎ、カボチャ、高野豆腐、しめじを唐辛子粉をまぶしながら炒め、
炊いた炒り玄米とトマトピューレを加えて煮込み、
醤油か味噌で調えます。
うまい豆腐を使うのが一番大切
僕が食べ終わった後、
妻と息子はこれでラーメンを作って食べていた。
すごくうまそうだった。
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2. posted by 春風 米ぞう 2015/12/22
18:11
真言密教では、その内容的に矛盾する『大日経』と『金剛頂経』を教義の基本としているんです。
なのに、その内容がまったく反対なので、僕は困っているのです。
慈悲心によってその両立は可能なのかもしれない。
行によって可能なのかもしれない。
「私」と「私のモノ」の二つの執着から離れれば可能なのかもしれない。
お大師さんがどう考えたのか、ということがなかなか分からないのです。
なのに、その内容がまったく反対なので、僕は困っているのです。
慈悲心によってその両立は可能なのかもしれない。
行によって可能なのかもしれない。
「私」と「私のモノ」の二つの執着から離れれば可能なのかもしれない。
お大師さんがどう考えたのか、ということがなかなか分からないのです。
しかし、矛盾がない というのは何か危ういモノを感じます。
これという固定はこれじゃないモノを作るからでしょうか
どんなに考えても想像しても現実はそれを超えて流れて行きます。
私の頭では全てを知ることはできないのでしょう。 たぶん...。