食べない人々-1 「1日の摂取量150キロカロリー」
マウンテンゴリラが見ていた。
それは、ひと抱えもある、ぬいぐるみではあったが、ガラスの目が私の裸の背中を凝視していた。
私は治療台にうつぶせになっていた。背中を、Mの手のひらが、すばしこい小動物のように動き回っている。静電気に触れたような感触が指先に伝わると、毛髪のように細い針を打ち込むのだという。
手のひらは皮膚から放熱しているようだ。「手が熱いですね」。ふつうではない温度差を感じたので、そう尋ねた。Mは、か細い声で「気を送ってますから」と答えた。
大阪郊外で鍼灸院を開いているMとは、いったい何者なのか。見極めようと、私は焦っていた。身長一六八センチ、体重五〇キロの体つきを見ても、なんの手がかりもない。
Mは超自然の能力を身につけている、と聞いていた。人の体を取り巻いて陽炎(かげろう)のように揺らめくオーラが見えるという話だ。その人が心身ともに健康であれば白熱した輝きを帯びている。「私のは何色ですか」と聞くとMは口ごもった。「それは、いわないことにしています。気に病む人がいるので」
三十二歳の独身女性であるMは、十年前に小脳失調症を発病した。小脳が縮む難病で、いずれ寝たきりになると宣告された。
Mに会う前、私はMの症例と治療経過を記録した主治医の報告書を読み、困惑させられていた。
四年前から、Mは日に一度、五百グラムの生野菜を搾ったジュースだけを飲んで生きているというのだ。約一五〇キロカロリーの栄養しか取っていない。成人は日常生活を営むのに平均二三〇〇キロカロリーの栄養が必要だとされているから、ほとんど断食しているのと同じではないか。
しかし、Mは衰弱するどころか、小脳失調症を完治させ、働いて自活し、科学では説明のつかない能力まで備わった、と書かれていた。
Mの主治医の内科医、甲田光雄(70)は、断食療法を約六千人の患者に施してきたと語る。その結果、甲田が「仙人」と呼ぶ、Mのような患者が十数人も現れた。
食べない人々-2 「青虫のような「生菜食」療法」
落ちくぼんだ目を見開いて、不意に甲田光雄(70)は声をひそめた。
「エイズで亡くなったロック・ハドソンという俳優はご存じですな」「はい」「彼が死ぬ半年前に、代理人から電話がありましたんや」
去年の夏、エアコンの利いていない甲田の診察室で、私は汗まみれになりながら耳をそばだてた。「エイズが治るかも知れんから入院できないかと打診してきたんですわ。結局断りましたけどな」
大阪郊外にある「甲田医院」は鉄筋三階建てで、十五人まで入院できる。甲田の話では、入院するまでには、三、四カ月は待たされる。
甲田は阪大医学部に在学中、慢性肝炎で二年間、休学している。安静にしていても病状は好転しなかった。ところが、医者の反対を押し切って断食を試したら治ったという。
一九五八年に開業した甲田は、五年後に経営が安定すると、断食療法を取り入れて、現代医学の治療を顧みなくなった。
患者は、診断に応じて断食や「生菜食」という少食療法を続ける。
八六年に入院したMは、断食した後、水とホウレンソウなどの生野菜を搾ったジュース以外は口にしなくなった。すると、平衡感覚を失う小脳失調症の症状がなくなった。栄養失調にもならず、体重も減らなかった、とMはいう。
「まるで青虫のような生活ですね」。私は、眼鏡をかけたMの表情の裏側を探るような目つきをして問いかけていた。つくり話ではないのか。Mはクスリと笑った。「葉っぱに青虫さんがいると、洗い流すのがかわいそうだなって思いますね」
Mのほかに十数人いるという「仙人」の病歴を甲田に聞いた。慢性腎炎、重度の糖尿病、肝臓ガン・・・。いずれも健康になったばかりか、八年前から通院している主婦は、一日約五〇キロカロリーの栄養で生活しているというではないか。
語気を強めて甲田は、いった。
「人が食べなくなれば病気はなくなる。食糧や資源をめぐって争うこともない。ひいては、連鎖して共生する、あらゆる生命を尊重し、差別しなくなる。愛と慈悲の世界を築くことができますのや」
食べない人々-3 「差別の原因は『食べること』」
待ち合わせ場所に指定された大阪市内のドーナツ・チェーンで、私は二時間以上も目の前のドーナツに手を付けられないでいた。
「私は水だけで生きていたいんです」。横に座ったPが切なげに訴える。ピアノの調律師をしている三十二歳の女性だ。「人間は絶対にやめられへん食べることと向き合っているところなんです」
去年十一月から、Pは、慢性疲労性症候群で甲田光雄の病院に一カ月余り入院した後、ほとんど食事らしい食事をしていない。少食療法で一日二回、生野菜を搾ったジュースを飲んでいるが、それすら、口に入れない日が多いという。しかも、十年以内に水だけで生きられる肉体に変われる、と確信している。
Pは病気の治療だけで甲田にすがったのではなかった。「少食が愛と慈悲の恵みをもたらす」と唱える甲田の考えに共鳴して、食欲から解脱する決意をしていたのだ。
在日韓国人三世のPは、三年前から在日外国人の参政権を求める運動にかかわっていた。
「差別は、自分さえよければいいということでしょ。差別されている私も障害者に対しては差別者になる。人間、なぜ差別から逃れられへんのか考えると、食べることに行き着く。ほかの生命を殺すことが前提になっているから。食べることをやめていかんと差別はなくならへん」
説明はともかく、私はPの健康状態が気になって仕方なかった。化粧をしていない顔色は、やつれてはいない。生気がみなぎっているわけでもない。あらゆる執着がそぎ落され、彫像のように穏やかなのだ。
身が軽くなって気持ちがいい、とPはいった。「食べることだけでなく、洋服とか、恋愛とか、自分がとらわれていたものを全部、取り払って自由になりたい。そうすれば、私は何者なのか、何のために生きているのか考えられるようになる」
私はなぜ、食べない人々に会いたいのか、自問自答していた。おそらく、Pの言葉に答えがあるのだろう。人が逃れようのない業(ごう)とも思える食から、解放されるならば、食欲の彼岸に見えるものは何か。それが知りたい。
食べない人々-4 「月の光を求めてジュース2杯」
ついにTには会えなかった。
去年の手帳には、Tと会う約束を取り付けながら、Tの申し出で取り消した跡が何カ所も残っている。
二十六歳の独身女性であるTも、食べない人々の一人だ。離島にある身体障害者施設で働いている。職員の人手不足で、私と会おうにも、この半年、ほとんど休めなかった。
六年前、Tは、大阪市立大で体育実技を教えている羽間鋭雄助教授(52)が雑誌に書いた少食療法の体験記を読んで、甲田光雄を知った。
羽間は一九八七年から一年間、一日一三〇〇キロカロリーの生野菜類だけを食べた。すると、筋肉は減ったが、体力テストの記録は、すべて向上したと書いていた。原因を尋ねると、羽間は「必要な栄養を体内でつくる能力が目覚めると、人間はユーカリの葉だけ食べているコアラのようになれる」と言い切った。
当時、短大生だったTは、記事を読み終わると、真っ先に羽間の研究室に電話して甲田を紹介してもらったという。
Tはいま、一日に生野菜のジュースを朝、晩、コップに一杯ずつしか飲んでいない。約二〇〇キロカロリーの栄養しか口にしていないことになる。やはり、Pと同様、最後はまったく食べなくなりたい、と願っているのだった。
去年の八月、私が初めて施設の寮に電話した時、Tは、まごついていた。食べないという事実を疑われていると思ったのだろう。
食生活を監視していないので証明はできない。だが、この飽食の時代にあって、健康なのに公然と食の楽しみに背を向けるのは、よほど勇気のいることだ。信じるしかない。
小学校三年の時、教科書で『注文の多い料理店』を読んでから、Tは宮沢賢治に夢中になっていた。読みふけると、胸の奥に透明感をたたえた光が差し込んでくる。太陽ではなく月の明るさを感じるのだ。
宮沢賢治は菜食主義者だった。Tは短大に入ってから、食生活を菜食主義に変えようとした。月の光に照らされているように、気持ちよく生きていたい。そのために、自分の生活から、余分に持っている物を無性に省きたくなった。
食べない人々-5 「少食志向の『道場』造りが夢」
グスコーブドリは、恐ろしい冷害に襲われた村の苦難を救うために、火山を噴火させて死んだ。
人が飽食をやめて、ほかの生命を尊重するようになれば、地上の苦痛や憎悪は消え去り、世界は愛と慈悲に包まれるだろう、と甲田光雄(70)は少食の思想を説いている。それを聞いてTは、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝説』を思い浮かべた。
自分の生命は、食べることで地上のあらゆる生命とつながってしまっている。お金や物は、とうに欲しいと思っていない。食欲さえも意のままにできれば、グスコーブドリのような自己犠牲すら苦にならなくなるだろう、とTは考えた。
二年前、いま働いている離島の身体障害者施設に就職する決心をしたのは、その考えの通りに生きるためだった。生まれて初めて両親と別れて暮らすことにもなった。
中学校教師の父親は、結婚するよう望んでいた。しかし、Tには結婚する意志もない。最後は甲田の病院に身を寄せるつもりなのだ。
いずれ病院を閉ざすことになるだろう、と甲田は、ある時、私に打ち明けた。MやPやTのような食べない人々が寝起きを共にする「道場」をつくろうというのだ。病院には約三百坪の自然農園があるので、野菜は自給自足できる。少食の思想の聖域にしたい、と甲田は語った。
その時、私は「あの人たちは宗教の聖者のようですね。凡人にはとてもまねできません」と皮肉っぽく聞き返していた。本当に意志の力だけで食べない人になれるのか。
甲田は、穏やかに反論した。「飽食は人類を破滅させる。しかし、人類の進化が神のような完全な存在に近づくことを意味しているのなら、未来には、だれでも彼らと同じ食事をしているはずだ。ただ、早すぎたというに過ぎんのです」
食べない人々が黙示するものは、曇った鏡の中にあるように、いまは、おぼろにしか見えない。ただ、私がむさぼるように聞き続けた彼らの声は、果てしなく安らいでいた。
敬称略=おわり (保科 龍朗)
【以上、1995年2月7日~、朝日新聞朝刊より抜粋】