仏教では、
真理や真実、悟りの境界など聖なるものと、
存在するもの、一切の対象、あなたも僕も何もかも、
という俗なるものを
同じ「法 (dharma:ダルマ)」という言葉で表す。
ご飯を食べた後、
ああ、おいしかった、
と、心が落ち着く満足感のような、
坐禅瞑想中の三昧、心の静かさを
法味と云う。
大自然の中で、
深呼吸して、心身さわやかになり、大自然と一体になったような感 じ。
本来、そういうものを味わうべき儀式や読経を意味することもある。
先日、ある会合で、
講師が参加者に質問した。
葬儀や法事でのお経は、誰に唱えているのか、と。
故人に向けて唱えている、という人と、
参列者(生きている人)に向けて、という人、
その両方と答えた人がいた。
参加者は坊さんである。
僕は、
へえー、と思った。
その話を母にしたら、
お経には死んだ人向けと、生きている人向けの二種類があるんじゃないの?
という。
そうだっけ?
色即是空 空即是色
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
などと唱えるのは、故人に対してだろうか。
そもそも、故人に対して唱えるとは、
どういうことなのだろうか。
身体が無くなっても、仏性は残っているのだろうか。
仏性は実有なのか、空性なのか、
いろいろ問題はある。
もし僕が死んで、死後の様子を体験できるのなら、
内容が伴わない坊さんの読経はいらない、聴きたくない、迷惑。
話のうまい坊さんの法話は聴いてもいいかな。
噂話でなく事実を聴けるなら、ありがたい。
それよりも、
家族友人縁者が、
健康で、
みんな仲良く
やりたいことがあれば、それに向かって進み
楽しく生きて欲しい 。
そうすれば嬉しくて、安心して、成仏するだろうな。
そうではないから、心配で成仏できないかな。
故人のため、故人の供養とは、
そういうことではないだろうか。
経典には、
心身を調え、自他を救い、
ともにより良く生きて、
安心して平安になる実践方法が説かれている。
それを体得するのが法味。
真理や真実、悟りの境界など聖なるものと、
存在するもの、一切の対象、あなたも僕も何もかも、
という俗なるものを
同じ「法 (dharma:ダルマ)」という言葉で表す。
ご飯を食べた後、
ああ、おいしかった、
と、心が落ち着く満足感のような、
坐禅瞑想中の三昧、心の静かさを
法味と云う。
大自然の中で、
深呼吸して、心身さわやかになり、大自然と一体になったような感 じ。
本来、そういうものを味わうべき儀式や読経を意味することもある。
先日、ある会合で、
講師が参加者に質問した。
葬儀や法事でのお経は、誰に唱えているのか、と。
故人に向けて唱えている、という人と、
参列者(生きている人)に向けて、という人、
その両方と答えた人がいた。
参加者は坊さんである。
僕は、
へえー、と思った。
その話を母にしたら、
お経には死んだ人向けと、生きている人向けの二種類があるんじゃないの?
という。
そうだっけ?
色即是空 空即是色
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
などと唱えるのは、故人に対してだろうか。
そもそも、故人に対して唱えるとは、
どういうことなのだろうか。
身体が無くなっても、仏性は残っているのだろうか。
仏性は実有なのか、空性なのか、
いろいろ問題はある。
もし僕が死んで、死後の様子を体験できるのなら、
内容が伴わない坊さんの読経はいらない、聴きたくない、迷惑。
話のうまい坊さんの法話は聴いてもいいかな。
噂話でなく事実を聴けるなら、ありがたい。
それよりも、
家族友人縁者が、
健康で、
みんな仲良く
やりたいことがあれば、それに向かって進み
楽しく生きて欲しい 。
そうすれば嬉しくて、安心して、成仏するだろうな。
そうではないから、心配で成仏できないかな。
故人のため、故人の供養とは、
そういうことではないだろうか。
経典には、
心身を調え、自他を救い、
ともにより良く生きて、
安心して平安になる実践方法が説かれている。
それを体得するのが法味。
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朝7時に息子と家を出て駅へ向かう。
息子はパラグライダーで空を飛び、
僕は高野山へ向かう
持っているキップは往復乗車券。
最寄り駅(東北線小金井)から大阪市内(電車特定区間という)までは、
片道601キロ以上あるので往復割引が摘要される。
東北線を東京で下車、新幹線に乗り換えたら、高野山から電話。
台風の影響で、明日の行事は中止とのこと。
あわてて下車し、関係者に連絡。
同行予定者も既に出発していたけれど、引き返すとのこと。
さて、
手元には大阪までの往復乗車券と東京→新大阪の自由席特急券がある。
これを精算窓口へ出し、
台風の影響で旅行中止、出発地へ戻る旨を伝えると、
旅行中止と払い戻しの判子を押してくれる。
台風の影響で、ということが大切
列車が止まっていなくても大丈夫。
通常なら、
往路のキップは既に東京まで乗車しているので、
未乗車区間(東京から大阪)しか払い戻しされず、しかも払い戻し手数料がかかる。
ちなみに、
未使用区間が101キロ以上でないと、払い戻しは無い。
しかし、
「台風のために」旅程変更ではなく、中止で戻る場合にかぎり、
往路のキップで戻れば、手数料無しで全額払い戻される。
これは、
キップのいろいろを定めた旅客営業規則にはなく、
最近になって、各駅窓口で臨機応変に対応しているみたい。

とうわけで、
タダで東京まで往復して帰宅。
雨が強くなってきた。
息子はパラグライダーで空を飛び、
僕は高野山へ向かう
持っているキップは往復乗車券。
最寄り駅(東北線小金井)から大阪市内(電車特定区間という)までは、
片道601キロ以上あるので往復割引が摘要される。
東北線を東京で下車、新幹線に乗り換えたら、高野山から電話。
台風の影響で、明日の行事は中止とのこと。
あわてて下車し、関係者に連絡。
同行予定者も既に出発していたけれど、引き返すとのこと。
さて、
手元には大阪までの往復乗車券と東京→新大阪の自由席特急券がある。
これを精算窓口へ出し、
台風の影響で旅行中止、出発地へ戻る旨を伝えると、
旅行中止と払い戻しの判子を押してくれる。
台風の影響で、ということが大切
列車が止まっていなくても大丈夫。
通常なら、
往路のキップは既に東京まで乗車しているので、
未乗車区間(東京から大阪)しか払い戻しされず、しかも払い戻し手数料がかかる。
ちなみに、
未使用区間が101キロ以上でないと、払い戻しは無い。
しかし、
「台風のために」旅程変更ではなく、中止で戻る場合にかぎり、
往路のキップで戻れば、手数料無しで全額払い戻される。
これは、
キップのいろいろを定めた旅客営業規則にはなく、
最近になって、各駅窓口で臨機応変に対応しているみたい。
とうわけで、
タダで東京まで往復して帰宅。
雨が強くなってきた。
調身、調息、調心は、
坐禅瞑想ヨーガなどで使われる言葉ですが、
身体を調え、呼吸を調え、心を調える。
このうち、
息を調えるのはとても大切。調わないと死んでしまう。
息の調えかたで、
単なるリラックス状態か、
深い瞑想状態かの違いが生まれる。
先日、
「㈱おぼうさんどっとこむ」の林代表が
会社で息に相当するのがお金です。
息を吐かないと吸えないように、
お金を使わないと入ってこない。
ということを教えてくれた。
例えば
10万円の資金で、来月は1割増にしよう、とする。
すると、
来月の収入は11万円
翌月は12万1千円
翌々月は13万3100円
こうして1年間、お金を使っていけば30万を越える。
3割増なら230万、
5割増なら1200万を越える。
この場合
お金を全部使わなければ増えない。
ちょっとだけでは増えない 。
ラーマ・クリシュナは、
神に会う最低限の条件は、放棄(離欲)としている。
それも、ひとつづつ放棄するとかえって執著するから、
いっぺんに捨てたほうがいい、と。
「日本ヴェーダンタ協会」のサイトには、
放棄とは、私たちが永遠なるものを求め、つかの間のものより永遠なるものにより多く集中することができるように、世間のはかない物事への執着を諦めるこ とです。
僧は内面外面両方の放棄を実践することを要求されますが、
家住者は、水の中にあっても水に浸されないハスの花のように、
無執着を実践することに よって、精神的な放棄を行なうことができます。
https://www.vedantajp.com/%E9%9C%8A%E6%80%A7%E3%81%AEq-a/#58
永遠で無いものは放棄するのなら、
空の立場では、総ては放棄するべきものとなる。
坐禅瞑想ヨーガなどで使われる言葉ですが、
身体を調え、呼吸を調え、心を調える。
このうち、
息を調えるのはとても大切。調わないと死んでしまう。
息の調えかたで、
単なるリラックス状態か、
深い瞑想状態かの違いが生まれる。
先日、
「㈱おぼうさんどっとこむ」の林代表が
会社で息に相当するのがお金です。
息を吐かないと吸えないように、
お金を使わないと入ってこない。
ということを教えてくれた。
例えば
10万円の資金で、来月は1割増にしよう、とする。
すると、
来月の収入は11万円
翌月は12万1千円
翌々月は13万3100円
こうして1年間、お金を使っていけば30万を越える。
3割増なら230万、
5割増なら1200万を越える。
この場合
お金を全部使わなければ増えない。
ちょっとだけでは増えない 。
ラーマ・クリシュナは、
神に会う最低限の条件は、放棄(離欲)としている。
それも、ひとつづつ放棄するとかえって執著するから、
いっぺんに捨てたほうがいい、と。
「日本ヴェーダンタ協会」のサイトには、
放棄とは、私たちが永遠なるものを求め、つかの間のものより永遠なるものにより多く集中することができるように、世間のはかない物事への執着を諦めるこ とです。
僧は内面外面両方の放棄を実践することを要求されますが、
家住者は、水の中にあっても水に浸されないハスの花のように、
無執着を実践することに よって、精神的な放棄を行なうことができます。
https://www.vedantajp.com/%E9%9C%8A%E6%80%A7%E3%81%AEq-a/#58
永遠で無いものは放棄するのなら、
空の立場では、総ては放棄するべきものとなる。
台風地震等、災害お見舞い申し上げます。
6年前は、
いろいろ不便がありましたが、義援金支援金はとてもたすかりました。
また、
一段落した後も、お仕事をいただくのがありがたかった。
なので、
募金や被災地産品の購入、落ち着いてからの訪問(現地でお金を使う)は、
大きな支援になる。
あれ以来、
ガソリンは常に満タン
充電器の確認
水、米、醤油を余分に置く
というのが僕の注意。
ところで、
災害が起きるたび思い出すのが、
『秘蔵宝鑰』第四 唯蘊無我心にある十四問答。
その最初に
「多くの僧尼を見るに、頭髪を剃っても欲を剃らず、衣を墨染めにしても心を善法に染めることをしらない。
戒、定、慧の三学を修めるものはきわめて少なく、非法濫行のものは頗る多い。
日夜に営々として、あるいは頭を臣妾の履に叩いて、それにへつらい、あるいは召使にまで歓心をかわんとして朝夕に手土産を事としている。
仏の習わしはそのために衰微し、仏道はこれによりて頽廃するのである。
かの、旱魃や洪水がしきりにおこり、疫病が年ごと流行し、天下がみだれ、人々が苦しむのも、
みなこれ僧尼の非法濫行によるものといわねばならぬ 云々」
だから、僧尼に布施することなど禁止にするべき、
という。
そんなことは関係ない、ということは無いだろうし、
関係ないと思っているようではいけないと思う。
上記の問いに対してお大師さんは、
物には善悪があり、
人には賢愚がある。
賢善は稀れであり、愚悪はとても多い
だからといって総てをなくしてしまうべきではない。
いつかは賢善が現れるのだから、
やめることなく、続けることが大切であり、
その道を断絶する理由はない
と答えている。
そういう思いをもって、
どんなことでも自分に関係があるとして、
懺悔反省と感謝するべきである。
『Newton』最新号(2018.10)の特集は、
「死とは何か」
現状では、
生きている人間の都合で、死を決めているだけであり、
ここから先が死だ、
という境界線を引くことは、まだむづかしい
とのこと。
植物状態の人に意識がある(可能性がある)
というレポートもあった。
宗教的な三昧のとき、
ほぼ意識は無いといっていい。
根本的な種子(阿頼耶識)のみがあるのだけれど。
しかし、
睡眠や無意識と三昧は違う。
三昧には、緊張が在る。
複雑系物理化学の学会から帰ってきた息子に
何かスゴイ発表はあった?
と聞いたら、
今は酸素原子が目に見えるようになった、という。
以前でも、金とか銀とか大きい原子は見えたけれど、
酸素ような小さな原子が見えるというのはすごい。
もちろん、顕微鏡でですが。
見えるということは、動きがわかるということで、
そうすると、
酸素と水素が結合して水になる瞬間が見える、
ということである。
それはすごいなあ。
こういうことが分かってくると
存在の分析はどうなるのだろうか。
仏教の目的である悟りは、存在とは何かを知ることであり、
その本体は不可得としている。
不可得を体験することで、絶対自由の心になる。
そうすると、
自分が生きる道が求められ(それは本来清浄なものである)
他を救う大悲の働きが生じる。
死や原子が理論ではなく、実証としてわかるようになれば、
今は宗教的体験によってしか得られない不可得の境地も、
存在とは何か(自分とは、心とは、苦しみとは)も、
もっとわかりやすくなるのかもしれない。
「死とは何か」
現状では、
生きている人間の都合で、死を決めているだけであり、
ここから先が死だ、
という境界線を引くことは、まだむづかしい
とのこと。
植物状態の人に意識がある(可能性がある)
というレポートもあった。
宗教的な三昧のとき、
ほぼ意識は無いといっていい。
根本的な種子(阿頼耶識)のみがあるのだけれど。
しかし、
睡眠や無意識と三昧は違う。
三昧には、緊張が在る。
複雑系物理化学の学会から帰ってきた息子に
何かスゴイ発表はあった?
と聞いたら、
今は酸素原子が目に見えるようになった、という。
以前でも、金とか銀とか大きい原子は見えたけれど、
酸素ような小さな原子が見えるというのはすごい。
もちろん、顕微鏡でですが。
見えるということは、動きがわかるということで、
そうすると、
酸素と水素が結合して水になる瞬間が見える、
ということである。
それはすごいなあ。
こういうことが分かってくると
存在の分析はどうなるのだろうか。
仏教の目的である悟りは、存在とは何かを知ることであり、
その本体は不可得としている。
不可得を体験することで、絶対自由の心になる。
そうすると、
自分が生きる道が求められ(それは本来清浄なものである)
他を救う大悲の働きが生じる。
死や原子が理論ではなく、実証としてわかるようになれば、
今は宗教的体験によってしか得られない不可得の境地も、
存在とは何か(自分とは、心とは、苦しみとは)も、
もっとわかりやすくなるのかもしれない。
飯田市 立石寺の予定です。
1、秋季例祭 十一面観音護摩供
10月13日(土) 13時半から

詳細は、
https://risshakuji.cloud-line.com/topics/2018/107236/
11月17日(土)
①10時から約1時間半
②14時から約1時間半
(①、②は同じ内容です)
仏教の勉強方法は、
戒律を基礎とし、
坐禅瞑想を修し、
物事の本質を知る
また、
優しさと思いやりを常に持ち、
向上心を持って勉強し、
坐禅瞑想によって真実を体得する
というのが密教のトレーニング方法です。
どちらにも必須な坐禅瞑想法をご案内します。
お気持ちがありましたらどうぞご参加ください。 .
お申し込みはこちらから 。
持ち物:数珠、輪袈裟(お持ちでなければ結構です)
服装:坐りやすい服装
参加費:無料(予約制)
11月18日(日)10時から

https://risshakuji.cloud-line.com/page38511/
どなたでも参りできます。
各詳細はホームページ お知らせ をご覧ください。
長野県飯田市・千頭山立石寺は857年(天安元)創建、
現在の本堂は1669年(寛文9年)に改築された古い建物です。
本堂には藤原時代の秘仏十一面観音はじめ、
同時代作の前立十一面観音、広目天、増長天、多聞天、
1779年(安永8年)造立の聖天(伝金剛愛染明王)がおまつりされており、
その御宝前で春の大般若祈祷会、秋の十一面観音護摩供、その他の行事や修法が行われています。
本堂の広さは29.6坪。
寺内には他にも藤原時代の薬師如来、阿弥陀如来、
比較的新しい尊像で珍しい蚕玉像(伝馬鳴菩薩像)もおまつりしています。
本堂は建築されてから350年近く経ち、一度も大きな修理がおこなわれていません。
屋根瓦を始め、建物の傷みが激しく、安全面でも問題が生じています。
今後、本堂等修復実行委員会を設置し、修復のための事業を始める予定ですが、
お気持ちがありましたら、
ご協力をお願いいたします。
千頭山立石寺 第六十五世住職 須永晃仁 敬白
Buddhist study method is based on precepts, studying zazen meditation and knowing the essence of things.
In addition, it is the training method of Esoteric Buddhism meditation that always has gentleness and compassion, studies with ambitions, and acquires the truth by zazen meditation.
I will show you methods of the essential zazen meditation for both.
Please join us if you have an interest.
Sign up here .
November 17th(Sat)
① About one and a half hour from 10 o’clock
② About one and a half hour from 14 o’clock
※ ①,② are the same contents
What to bring with:Buddhist rosary, Buddhist stole(loop-shaped stole for temples)
※There is no problem even if you don’t have them.
Clothing:Comfortable outfits to keep seated
Participation fee: Free(You need to make a reservation)
November 18th(Sun)
From 10 o’clock
Anyone can participate in that.
1、秋季例祭 十一面観音護摩供
10月13日(土) 13時半から
詳細は、
https:/
2、密教瞑想法
11月17日(土)
①10時から約1時間半
②14時から約1時間半
(①、②は同じ内容です)
仏教の勉強方法は、
戒律を基礎とし、
坐禅瞑想を修し、
物事の本質を知る
また、
優しさと思いやりを常に持ち、
向上心を持って勉強し、
坐禅瞑想によって真実を体得する
というのが密教のトレーニング方法です。
どちらにも必須な坐禅瞑想法をご案内します。
お気持ちがありましたらどうぞご参加ください。 .
お申し込みはこちらから 。
持ち物:数珠、輪袈裟(お持ちでなければ結構です)
服装:坐りやすい服装
参加費:無料(予約制)
3、月並十一面観音護摩供
11月18日(日)10時から
https:/
どなたでも参りできます。
各詳細はホームページ お知らせ をご覧ください。
長野県飯田市・千頭山立石寺は857年(天安元)創建、
現在の本堂は1669年(寛文9年)に改築された古い建物です。
本堂には藤原時代の秘仏十一面観音はじめ、
同時代作の前立十一面観音、広目天、増長天、多聞天、
1779年(安永8年)造立の聖天(伝金剛愛染明王)がおまつりされており、
その御宝前で春の大般若祈祷会、秋の十一面観音護摩供、その他の行事や修法が行われています。
本堂の広さは29.6坪。
寺内には他にも藤原時代の薬師如来、阿弥陀如来、
比較的新しい尊像で珍しい蚕玉像(伝馬鳴菩薩像)もおまつりしています。
本堂は建築されてから350年近く経ち、一度も大きな修理がおこなわれていません。
屋根瓦を始め、建物の傷みが激しく、安全面でも問題が生じています。
今後、本堂等修復実行委員会を設置し、修復のための事業を始める予定ですが、
お気持ちがありましたら、
ご協力をお願いいたします。
千頭山立石寺 第六十五世住職 須永晃仁 敬白
●Information of Esoteric Buddhism meditation
Buddhist study method is based on precepts, studying zazen meditation and knowing the essence of things.
In addition, it is the training method of Esoteric Buddhism meditation that always has gentleness and compassion, studies with ambitions, and acquires the truth by zazen meditation.
I will show you methods of the essential zazen meditation for both.
Please join us if you have an interest.
Sign up here .
November 17th(Sat)
① About one and a half hour from 10 o’clock
② About one and a half hour from 14 o’clock
※ ①,② are the same contents
What to bring with:Buddhist rosary, Buddhist stole(loop-shaped stole for temples)
※There is no problem even if you don’t have them.
Clothing:Comfortable outfits to keep seated
Participation fee: Free(You need to make a reservation)
●Monthly holy fire memorial service with Eleven-faced Kannon
November 18th(Sun)
From 10 o’clock
Anyone can participate in that.
Ajikan is an early Shingon meditation practice.

Although it has many forms of varying complexity, it is focused on the sound, the form, and the meaning of the Sanskrit letter A, as a gateway to experience ultimate reality.
This practice is used by lay people and beginners as well as advanced priests to deepen their experience of the universe.
Although this technique seems simple, it provides rich diversity in experience, as one deepens their understanding.
In the Mahāvairocana Sutra it is said that the wisdom of Mahāvairocana is “to know one’s mind as it truly is.’
This is not our mind that is buffeted about through outside forces and experiences joy and sorrow from an ordinary perspective.
From birth we have been conditioned to create our own false ego, created by our own personal desires.
By believing in this ego, which gives you a false sense of reality in the real world, you will experience a sense of loss and suffering in your daily life.
The untainted pure main, before the ego driven views of reality, is the true mind.
In Shingon this true mind is called the mind originally unborn.
This untainted original mind directly links to the essence of the universe.
By using this body as a medium, you will be able to form the body of the self which embodies Mahāvairocana or the infinite universe.
Through learning the techniques of Ajikan the illusions of the desires and passions are dissolved and the nature of the Universe can be experienced.
(From ”SHINGON ESOTERIC BUDDHISM A HANDBOOK for FOLLOWERS")
Although it has many forms of varying complexity, it is focused on the sound, the form, and the meaning of the Sanskrit letter A, as a gateway to experience ultimate reality.
This practice is used by lay people and beginners as well as advanced priests to deepen their experience of the universe.
Although this technique seems simple, it provides rich diversity in experience, as one deepens their understanding.
In the Mahāvairocana Sutra it is said that the wisdom of Mahāvairocana is “to know one’s mind as it truly is.’
This is not our mind that is buffeted about through outside forces and experiences joy and sorrow from an ordinary perspective.
From birth we have been conditioned to create our own false ego, created by our own personal desires.
By believing in this ego, which gives you a false sense of reality in the real world, you will experience a sense of loss and suffering in your daily life.
The untainted pure main, before the ego driven views of reality, is the true mind.
In Shingon this true mind is called the mind originally unborn.
This untainted original mind directly links to the essence of the universe.
By using this body as a medium, you will be able to form the body of the self which embodies Mahāvairocana or the infinite universe.
Through learning the techniques of Ajikan the illusions of the desires and passions are dissolved and the nature of the Universe can be experienced.
(From ”SHINGON ESOTERIC BUDDHISM A HANDBOOK for FOLLOWERS")
お盆過ぎの猛暑のある日、
朝の用事を済ませ、
百鬼園先生のひそみにならって
何も用事は無いけれど電車に乗ろう、
と思い駅へ向かった。
ちょうど、夏休み期間で関東近郊一日乗り放題の「休日おでかけパス」が発売されている。
関東地方いろいろなところへ行けるけれど、さてどうしようか。
小金井7:57発 熱海行き各駅停車に乗る。
このまま乗り続けて、おでかけパスが有効な小田原まで行くことにする。
小田原まで172キロ、3時間、ただ乗っているだけ。
この区間を普通にキップを買えば、往復で6048円。
でも、このパスなら乗り放題途中下車し放題で2670円。
3378円もお得である。
なんといっても車窓は川がいい。
鉄橋を渡るのはことのほか楽しい。
栃木県を脱出するときには、大きな利根川を渡る。
栗橋・東鷲宮間の中川
蓮田駅手前の元荒川
埼玉から東京へは広い荒川と荒川用水を渡る。
多摩川(六郷川)を渡れば神奈川県。
ここからも、
鶴見川
相模川
花水川
小田原の手前で酒匂川を渡る。
列車では、車両のどちら側の席に坐るかが問題である。
山、海が見える側か、
すれ違い列車を確認する側か。
この日は、進行方向の左側、海の見える席。
横浜を過ぎれば、
平塚の手前から海が見え始める。
小田原着後、
伊豆箱根鉄道大雄山線を往復。これも、ただ乗るだけ。

小田原に戻り、
再び、ただ乗るだけで戻る。
帰りは進行方向右側に坐り、
すれ違い列車を確認しながら帰宅。
時間の過ごし方としては、極めて贅沢で、気分転換によろしい。
ただし、
猛暑の夏だったのに、すっかり身体が冷えた。
朝の用事を済ませ、
百鬼園先生のひそみにならって
何も用事は無いけれど電車に乗ろう、
と思い駅へ向かった。
ちょうど、夏休み期間で関東近郊一日乗り放題の「休日おでかけパス」が発売されている。
関東地方いろいろなところへ行けるけれど、さてどうしようか。
小金井7:57発 熱海行き各駅停車に乗る。
このまま乗り続けて、おでかけパスが有効な小田原まで行くことにする。
小田原まで172キロ、3時間、ただ乗っているだけ。
この区間を普通にキップを買えば、往復で6048円。
でも、このパスなら乗り放題途中下車し放題で2670円。
3378円もお得である。
なんといっても車窓は川がいい。
鉄橋を渡るのはことのほか楽しい。
栃木県を脱出するときには、大きな利根川を渡る。
栗橋・東鷲宮間の中川
蓮田駅手前の元荒川
埼玉から東京へは広い荒川と荒川用水を渡る。
多摩川(六郷川)を渡れば神奈川県。
ここからも、
鶴見川
相模川
花水川
小田原の手前で酒匂川を渡る。
列車では、車両のどちら側の席に坐るかが問題である。
山、海が見える側か、
すれ違い列車を確認する側か。
この日は、進行方向の左側、海の見える席。
横浜を過ぎれば、
平塚の手前から海が見え始める。
小田原着後、
伊豆箱根鉄道大雄山線を往復。これも、ただ乗るだけ。
小田原に戻り、
再び、ただ乗るだけで戻る。
帰りは進行方向右側に坐り、
すれ違い列車を確認しながら帰宅。
時間の過ごし方としては、極めて贅沢で、気分転換によろしい。
ただし、
猛暑の夏だったのに、すっかり身体が冷えた。
宗教には
聖なるもの、大いなるものが自分の外側にあり、
我らはそれに包まれて、そのお蔭や力添えを受けているとする思想と、
聖なるもの、大いなるものは自分の内側にあり、
それを開発発展させることを目的とする、
ふたつがある。
仏教はその両方の要素があり、
浄土教は比較的前者の要素が多く、
禅は後者に重きがあり、
密教はその両方を持っている、
と僕は理解している。
自分の中にあるものを、
自分の力だけでもぎとろうとすると、
それができたとしても、傲慢や慢心が伴う可能性がある。
自力に頼りすぎると、
いざというときに、自分が役に立たなくなることがある。
ご先祖さまなども同じように、
自分の外側にいるというような理解もあり、
自分の内側にある、という考えかたもある。
どちらでも、その人の資質によってで良いけれど。
大地海植物動物鉱物大気などがまとまって地球がある。
地球という蔵の中にそれら総てがある。
同じように、
骨筋肉血液などがまとまって我があり、
我れという家の中にそれらが住んでいる。
どちらにしても、
それらは自分の脳が考え、思っていることだから、
考えること、思うことをやめれば生滅する。無いと同じである。
地球や我が現実にあるとしても、
それは脳がなければ認識できないのだから。
いずれにしても、考えているならば、
地球も我も宇宙も、
同じ蔵にあるということで、
それが法界。
密教では 我即法界と云う。
法界にはいろいろなもの総てがあるから、
どれをとってみても法界の一部である。
地球という法界があり、その中に我れという法界がある。
だから、
そこにあるものはなんでも法界の象徴であり、
そういうものを一つのイメージとしたのが仏である。
ということは、
好悪善悪どれにも、
あらゆる性質あらゆる機能がそこにあり、
区別がないということであり、
それが身にしみていることを、悟りと云う。
聖なるもの、大いなるものが自分の外側にあり、
我らはそれに包まれて、そのお蔭や力添えを受けているとする思想と、
聖なるもの、大いなるものは自分の内側にあり、
それを開発発展させることを目的とする、
ふたつがある。
仏教はその両方の要素があり、
浄土教は比較的前者の要素が多く、
禅は後者に重きがあり、
密教はその両方を持っている、
と僕は理解している。
自分の中にあるものを、
自分の力だけでもぎとろうとすると、
それができたとしても、傲慢や慢心が伴う可能性がある。
自力に頼りすぎると、
いざというときに、自分が役に立たなくなることがある。
ご先祖さまなども同じように、
自分の外側にいるというような理解もあり、
自分の内側にある、という考えかたもある。
どちらでも、その人の資質によってで良いけれど。
大地海植物動物鉱物大気などがまとまって地球がある。
地球という蔵の中にそれら総てがある。
同じように、
骨筋肉血液などがまとまって我があり、
我れという家の中にそれらが住んでいる。
どちらにしても、
それらは自分の脳が考え、思っていることだから、
考えること、思うことをやめれば生滅する。無いと同じである。
地球や我が現実にあるとしても、
それは脳がなければ認識できないのだから。
いずれにしても、考えているならば、
地球も我も宇宙も、
同じ蔵にあるということで、
それが法界。
密教では 我即法界と云う。
法界にはいろいろなもの総てがあるから、
どれをとってみても法界の一部である。
地球という法界があり、その中に我れという法界がある。
だから、
そこにあるものはなんでも法界の象徴であり、
そういうものを一つのイメージとしたのが仏である。
ということは、
好悪善悪どれにも、
あらゆる性質あらゆる機能がそこにあり、
区別がないということであり、
それが身にしみていることを、悟りと云う。
最近は何でもハラスメントになるようですが、
昔からある伝統的なハラスメントといえばお酌ですね。
飲みたくないものを、
飲みたくないタイミングでつがれるのは苦痛である。
医師以外が医療行為をしてはいけないように、
芸者さんなど、作法を知っている人以外はお酌をしてはいけない、
ということにして欲しい。
それはさておき、
不飲酒戒は
お酒を飲んではいけない、ということで、
少しなら薬になるので良いとか 、
人間関係のためには飲んだほうがいい、
などということはない。
不邪淫は不淫、梵行であり、
セックスをしてはいけない、ということで、
夫婦恋人なら良い
といういことではない。
これは
不殺生が、
人殺しをしてはいけない、ということではなく、
ハエや蚊も、どんな命も殺してはいけない、
ということと同じである。
これらは業の問題であり、
己の行為がどういう果をもたらすか、ということである。
守れない、できないことは懺悔する。宗教には懺悔が必ずある。
心身を使って徹底的に懺悔すれば、何とかなる。
業と果が分かれば、
ハラスメントも起きる可能性が低くなる。
また、
年に一度、一週間くらいは、
酒も異性も遠ざけ、殺生に気をつけて拝むようにすれば身に染みる。
普段のちょっとしたこと、
しゃべる人はしゃべらない、飲む人は飲まない、食べすぎの人は食べないなど、
やれば心身に有効なことは多い。
密教では、
してはいけないことは無く、
したほうがいいことをあげている。
それは、
信心 混じり気の無い心をもつ
行願 自分でなければ誰がやるんだ、という気持ちで他を救おうとする
勝義 論理的に矛盾のある教えに満足せず、向上心を持って学ぶ
三摩地 常に心をまとめる瞑想行を忘れない
昔からある伝統的なハラスメントといえばお酌ですね。
飲みたくないものを、
飲みたくないタイミングでつがれるのは苦痛である。
医師以外が医療行為をしてはいけないように、
芸者さんなど、作法を知っている人以外はお酌をしてはいけない、
ということにして欲しい。
それはさておき、
不飲酒戒は
お酒を飲んではいけない、ということで、
少しなら薬になるので良いとか 、
人間関係のためには飲んだほうがいい、
などということはない。
不邪淫は不淫、梵行であり、
セックスをしてはいけない、ということで、
夫婦恋人なら良い
といういことではない。
これは
不殺生が、
人殺しをしてはいけない、ということではなく、
ハエや蚊も、どんな命も殺してはいけない、
ということと同じである。
これらは業の問題であり、
己の行為がどういう果をもたらすか、ということである。
守れない、できないことは懺悔する。宗教には懺悔が必ずある。
心身を使って徹底的に懺悔すれば、何とかなる。
業と果が分かれば、
ハラスメントも起きる可能性が低くなる。
また、
年に一度、一週間くらいは、
酒も異性も遠ざけ、殺生に気をつけて拝むようにすれば身に染みる。
普段のちょっとしたこと、
しゃべる人はしゃべらない、飲む人は飲まない、食べすぎの人は食べないなど、
やれば心身に有効なことは多い。
密教では、
してはいけないことは無く、
したほうがいいことをあげている。
それは、
信心 混じり気の無い心をもつ
行願 自分でなければ誰がやるんだ、という気持ちで他を救おうとする
勝義 論理的に矛盾のある教えに満足せず、向上心を持って学ぶ
三摩地 常に心をまとめる瞑想行を忘れない
マージャンを覚えた息子が、
平和という字を見ると、
ピンフーとしか読めない
と言う。
若い頃から強かったらしい母は、
向かい側をトイメンと言う。
昔、高野山大学の授業中、
音読を指示された学生が、
東西南北をトンナンシャーペイと読んだ。
彼は今、どうしているだろうか。
それはさておき、
言いたいことが言えないことは、よくある。
そこには遠慮や自信の無さがある。
言いたいことを言わないこともある。
これには、
たしなみとか羞恥とか、品格の問題もある。
感情を外に表さないように堪えることを、
僕は美しいと感じるけれど、
そうできないことも少なくない。
先日、
千葉ZOZOマリンスタジアムで、
ロッテ対ソフトバンクの試合を観戦した。
ロッテ側外野応援席である。
そこでの応援は抑制が効いて、少し物足りない気がした。
タイガースの試合では、
絶叫と興奮とヤジとトランペットと太鼓とで、
コアでカオスで尋常ではない。
感情のコントロールがない替わりに、
ある種の開放感がある。
もう会えないと思っていた息子が、
ある日突然帰ってくる。
息子は、感情を押し殺し、うつむいて「ただいま」と云う。
それを見た母も、
我慢して無言で迎える。
そんな話がスタインベックの『怒りの葡萄』にある。
原文は、
Then she knew,and her control came back,and her hand dropped.
意識はコントロールできるけれど、
その下にある自我は制御しにくい。
でも、訓練すればできる。
そして、
その自我を支配している心の種子があり、
それはいつも電源が入っており、
ハードディスクのような記憶装置(自分では忘れてしまっている記憶も)から、
メモリに情報が常に移動し変化している。
ここが、
心のコントロールにもっとも重要なところであり、
自他を苦しめるか助けるか、
迷うか悟るか
を、制御不能で自由に動いている。
まあ、宗教的トレーニングによって抑制できるのだけれど。
それがコンピュータと人間が違う、大きな点である。
※料理のブログもご覧ください。 『阿吽・精進料理散策』
平和という字を見ると、
ピンフーとしか読めない
と言う。
若い頃から強かったらしい母は、
向かい側をトイメンと言う。
昔、高野山大学の授業中、
音読を指示された学生が、
東西南北をトンナンシャーペイと読んだ。
彼は今、どうしているだろうか。
それはさておき、
言いたいことが言えないことは、よくある。
そこには遠慮や自信の無さがある。
言いたいことを言わないこともある。
これには、
たしなみとか羞恥とか、品格の問題もある。
感情を外に表さないように堪えることを、
僕は美しいと感じるけれど、
そうできないことも少なくない。
先日、
千葉ZOZOマリンスタジアムで、
ロッテ対ソフトバンクの試合を観戦した。
ロッテ側外野応援席である。
そこでの応援は抑制が効いて、少し物足りない気がした。
タイガースの試合では、
絶叫と興奮とヤジとトランペットと太鼓とで、
コアでカオスで尋常ではない。
感情のコントロールがない替わりに、
ある種の開放感がある。
もう会えないと思っていた息子が、
ある日突然帰ってくる。
息子は、感情を押し殺し、うつむいて「ただいま」と云う。
それを見た母も、
我慢して無言で迎える。
そんな話がスタインベックの『怒りの葡萄』にある。
原文は、
Then she knew,and her control came back,and her hand dropped.
意識はコントロールできるけれど、
その下にある自我は制御しにくい。
でも、訓練すればできる。
そして、
その自我を支配している心の種子があり、
それはいつも電源が入っており、
ハードディスクのような記憶装置(自分では忘れてしまっている記憶も)から、
メモリに情報が常に移動し変化している。
ここが、
心のコントロールにもっとも重要なところであり、
自他を苦しめるか助けるか、
迷うか悟るか
を、制御不能で自由に動いている。
まあ、宗教的トレーニングによって抑制できるのだけれど。
それがコンピュータと人間が違う、大きな点である。
※料理のブログもご覧ください。 『阿吽・精進料理散策』
パーティーか宴会か、
なんだか大勢の人が出てくる夢をみた。
こういう夢は、
脂肪が代謝されていない時、
腎膀胱系、脾臓膵臓胃、所謂お腹が疲れている時に見る。
それらの不調は、
フノリをよく溶かした野菜スープ、ジャガイモ、納豆、トロトロに炊いたエノキなどで改善する。
そして、
胃腸は穀物がもっとも滋養になるので、
ご飯やうどんと一緒に食べるのがよろしい。
それはさておき、
オフィスビルの階段下、
喫煙所になっている場所で、数人のサラリーマンが休憩していた。
みな、スマートフォンをいじっている。
昔、僕がサラリーマンだったころ、
休憩時間(という決まった時間は無かったけれど)には何をしていたのだろうか。
タバコを吸う、
コ-ヒーを飲む、
誰かと話をする。
でも、ほんどは何もしなかったように思う。ただ、ボーっとしていた。
小学生のころ、
親から留守番を言いつかり、友だちも遊びに来ない時、
何をしていたのだろうか。
本を読んだり、
おやつを食べたり、
でも、ほとんどの時間は何もしていなかったように思う。
ある夏休みの一日、
前日夜遊びして、ほぼ半日寝てから起きだした息子が、
ご飯を食べてまた寝た。
夕方起きてから、
今日は何もしていないなあ、
と言う。
何もしない、というのは今や貴重である。
みな、何かしている。
何もしないとき、
心寂静な三昧が訪れる可能性は高い。
フランス文学者で昆虫博士の奥本大三郎が、
『虫のゐどころ』のなかで、
「今の世に最もありがたいものは、きれいな水と静けさと上品な言葉遣いである」
と書いている。
これは、
鋭敏で繊細であること。
何もしないとき、
心はそうなることがある。
なあんにもしないで、
何か思い浮かんでも放っておく。
妄想も空想もそのままにして、執著から離れる。
感想意見を持たず、そのままにしておけば、
心身は良い(清浄な)方向へ自然と向かう。
なぜなら 、それが本性だから。
自性清浄心は本性であり、それが菩提心であり、本不生際(真如)である。
身体の不調も、
なにもしないで寝ているほうが良いことも多い。
なんだか大勢の人が出てくる夢をみた。
こういう夢は、
脂肪が代謝されていない時、
腎膀胱系、脾臓膵臓胃、所謂お腹が疲れている時に見る。
それらの不調は、
フノリをよく溶かした野菜スープ、ジャガイモ、納豆、トロトロに炊いたエノキなどで改善する。
そして、
胃腸は穀物がもっとも滋養になるので、
ご飯やうどんと一緒に食べるのがよろしい。
それはさておき、
オフィスビルの階段下、
喫煙所になっている場所で、数人のサラリーマンが休憩していた。
みな、スマートフォンをいじっている。
昔、僕がサラリーマンだったころ、
休憩時間(という決まった時間は無かったけれど)には何をしていたのだろうか。
タバコを吸う、
コ-ヒーを飲む、
誰かと話をする。
でも、ほんどは何もしなかったように思う。ただ、ボーっとしていた。
小学生のころ、
親から留守番を言いつかり、友だちも遊びに来ない時、
何をしていたのだろうか。
本を読んだり、
おやつを食べたり、
でも、ほとんどの時間は何もしていなかったように思う。
ある夏休みの一日、
前日夜遊びして、ほぼ半日寝てから起きだした息子が、
ご飯を食べてまた寝た。
夕方起きてから、
今日は何もしていないなあ、
と言う。
何もしない、というのは今や貴重である。
みな、何かしている。
何もしないとき、
心寂静な三昧が訪れる可能性は高い。
フランス文学者で昆虫博士の奥本大三郎が、
『虫のゐどころ』のなかで、
「今の世に最もありがたいものは、きれいな水と静けさと上品な言葉遣いである」
と書いている。
これは、
鋭敏で繊細であること。
何もしないとき、
心はそうなることがある。
なあんにもしないで、
何か思い浮かんでも放っておく。
妄想も空想もそのままにして、執著から離れる。
感想意見を持たず、そのままにしておけば、
心身は良い(清浄な)方向へ自然と向かう。
なぜなら 、それが本性だから。
自性清浄心は本性であり、それが菩提心であり、本不生際(真如)である。
身体の不調も、
なにもしないで寝ているほうが良いことも多い。
明日は満月。
月にはウサギがいてお餅をついている。
密教の瞑想では、
月には金剛杵や卒塔婆(仏塔)がある。
これは大日如来の、智慧の、硬い菩提心の象徴で、
僕らはそれそのものである。
我即大日であり、自心は満月のようであり、悟りの智慧を具足している、
ということ 。
宇宙のかなた、M78星雲にはウルトラマンはじめ、ウルトラ一族がいる。
そして、
地球を、僕らを助けていくれる。
人は死ぬと地獄とか極楽とかに行く。
それは宇宙のかなたにあるのだろうか、
月より遠いのだろうか。
そして、
人は死ぬと霊魂という、目に見えないものとして存在するらしい。
それは宇宙にもいけるのだろうか。
M78星雲にもいるのだろうか。
神という見えないものも、宇宙と関係あるのだろうか。
ウルトラマンが本当にいたら楽しいし、安心である。
勇気と希望を得られる。
彼らの存在が、
現代社会へ警鐘を鳴らしてくれるかもしれない。
地獄極楽霊魂神が本当にあれば、
それはおもしろいし、
普段の生活を見直し、清らかに生きるきっかけになるだろう。
どちらも素晴らしいことである。
月にはウサギがいてお餅をついている。
密教の瞑想では、
月には金剛杵や卒塔婆(仏塔)がある。
これは大日如来の、智慧の、硬い菩提心の象徴で、
僕らはそれそのものである。
我即大日であり、自心は満月のようであり、悟りの智慧を具足している、
ということ 。
宇宙のかなた、M78星雲にはウルトラマンはじめ、ウルトラ一族がいる。
そして、
地球を、僕らを助けていくれる。
人は死ぬと地獄とか極楽とかに行く。
それは宇宙のかなたにあるのだろうか、
月より遠いのだろうか。
そして、
人は死ぬと霊魂という、目に見えないものとして存在するらしい。
それは宇宙にもいけるのだろうか。
M78星雲にもいるのだろうか。
神という見えないものも、宇宙と関係あるのだろうか。
ウルトラマンが本当にいたら楽しいし、安心である。
勇気と希望を得られる。
彼らの存在が、
現代社会へ警鐘を鳴らしてくれるかもしれない。
地獄極楽霊魂神が本当にあれば、
それはおもしろいし、
普段の生活を見直し、清らかに生きるきっかけになるだろう。
どちらも素晴らしいことである。
20年くらい前、
会津山奥の古い禅寺にお世話になった。
泊めてもらった翌朝、
おつとめをしようと本堂へ入ると、
住職が出てきて,、一緒にやろうと坐った。
読経のあと、
お経を唱えるのは久しぶりだなあ、
と住職が言う。
僕も普段は経を唱えない。
毎朝の行法も、
三密行という瞑想修行で、傍からみれば、ただ坐っているだけである。
僕はその住職を信用していた。
なぜなら、
お前の話は妄想ばかりで事実がないといわれ、
その通りと納得したから。
若いうちは妄想ばかりで、事実を知らず、
さして勉強もしないで錯覚し、
それで互いのキズをなめあってごまかすようなことが少なくない。
僕が声に出して読経するのは人前で、である。
葬儀、法事、寺の行事など。
それに意味があるのだろうか。
経本はもっぱらその内容を勉強し、確認するために開いている。
そもそも、なぜ経を唱えるのだろうか。
『般若心経秘鍵』には、
誦持講供すれば即ち苦を抜き、楽を与え、修習思惟すれば即ち道を得、通を起す
とある。
また、
真言宗で常用している『理趣経』には、
「もしこの清浄出生の般若理趣を聞くことあらば、
いまし菩提道場に至るまで、
一切の障碍、煩悩が広く積み重なっても、地獄等に墜ちない、
重罪を作っても消滅する
よく受持して日々に読誦し作意思惟すれば、
今の生において、自在を得て、如来の位を得る」
とある。
どちらも、
読んだり聴いたり書いたりしたら、功徳がある
と書いてあるけれど、
その後には、経に書いてある内容を実践して修行すれば、
迷いが悟りになると続いている。
だから、
読んで理解して実践することが重要なはずである。
理趣経にかかれているのは、
自分と宇宙の区別をつけない心になり、
自分が確立すれば、同時に宇宙全体と同じになり、
それが覚りである
ということ。
コーヒーにミルクを溶かすと、
ミルクはコーヒーと一体になり、
区別がなくなる。
ミルクは全体に溶けているけれど、
ミルクの味香りは生きている。
自分がいなくなっても、全体に融合して自分を生かしている。
そういうことである。
経の内容を身体・言葉・心で受け止めるならば、
そうなるのである。
唱え聴くだけで、
功徳になるのかどうか、
ちょっと疑問である。
会津山奥の古い禅寺にお世話になった。
泊めてもらった翌朝、
おつとめをしようと本堂へ入ると、
住職が出てきて,、一緒にやろうと坐った。
読経のあと、
お経を唱えるのは久しぶりだなあ、
と住職が言う。
僕も普段は経を唱えない。
毎朝の行法も、
三密行という瞑想修行で、傍からみれば、ただ坐っているだけである。
僕はその住職を信用していた。
なぜなら、
お前の話は妄想ばかりで事実がないといわれ、
その通りと納得したから。
若いうちは妄想ばかりで、事実を知らず、
さして勉強もしないで錯覚し、
それで互いのキズをなめあってごまかすようなことが少なくない。
僕が声に出して読経するのは人前で、である。
葬儀、法事、寺の行事など。
それに意味があるのだろうか。
経本はもっぱらその内容を勉強し、確認するために開いている。
そもそも、なぜ経を唱えるのだろうか。
『般若心経秘鍵』には、
誦持講供すれば即ち苦を抜き、楽を与え、修習思惟すれば即ち道を得、通を起す
とある。
また、
真言宗で常用している『理趣経』には、
「もしこの清浄出生の般若理趣を聞くことあらば、
いまし菩提道場に至るまで、
一切の障碍、煩悩が広く積み重なっても、地獄等に墜ちない、
重罪を作っても消滅する
よく受持して日々に読誦し作意思惟すれば、
今の生において、自在を得て、如来の位を得る」
とある。
どちらも、
読んだり聴いたり書いたりしたら、功徳がある
と書いてあるけれど、
その後には、経に書いてある内容を実践して修行すれば、
迷いが悟りになると続いている。
だから、
読んで理解して実践することが重要なはずである。
理趣経にかかれているのは、
自分と宇宙の区別をつけない心になり、
自分が確立すれば、同時に宇宙全体と同じになり、
それが覚りである
ということ。
コーヒーにミルクを溶かすと、
ミルクはコーヒーと一体になり、
区別がなくなる。
ミルクは全体に溶けているけれど、
ミルクの味香りは生きている。
自分がいなくなっても、全体に融合して自分を生かしている。
そういうことである。
経の内容を身体・言葉・心で受け止めるならば、
そうなるのである。
唱え聴くだけで、
功徳になるのかどうか、
ちょっと疑問である。
仙台に住んでいた5年間、
他派の住職にお世話になった。
檀家が多いので、葬儀の手伝いも頻繁であった。
その住職は、
俺たちは芸人さんや役者さんと同じだよ、
と云う。
葬儀という総合舞台には、
葬儀屋さんはじめ、花屋、仕出し屋、タクシー業者など大勢の人が関わっている。
その中で、
ある決まったスケジュールで坊主の出演時間があり、
そこで読経などの作法をする。
それでギャラをもらう。
なるほどなあ、
と思った。その通りである。
だから、
その時間の質が問題になる。
声は良く、音痴で無いほうがいいし、
衣装も豪華なほうが良いかもしれない。
話もじょうずなほうが断然いい。
でも、お経の意味や、正しい唱えかたは知らなくていい。
儀式の雰囲気にあえば、自己流でもいい。
お話も実話でなくていい。
つまり、
儀式は一種のパフォーマンスやショウなので、
それにあわせることが大切である。
このような考えなら、
経を唱えるのは、
噺家の落語、歌手の唄、芸人の技、役者の芝居と同じかもしれない。
下手くそではいけない、名人を目指さなければ。
他派の住職にお世話になった。
檀家が多いので、葬儀の手伝いも頻繁であった。
その住職は、
俺たちは芸人さんや役者さんと同じだよ、
と云う。
葬儀という総合舞台には、
葬儀屋さんはじめ、花屋、仕出し屋、タクシー業者など大勢の人が関わっている。
その中で、
ある決まったスケジュールで坊主の出演時間があり、
そこで読経などの作法をする。
それでギャラをもらう。
なるほどなあ、
と思った。その通りである。
だから、
その時間の質が問題になる。
声は良く、音痴で無いほうがいいし、
衣装も豪華なほうが良いかもしれない。
話もじょうずなほうが断然いい。
でも、お経の意味や、正しい唱えかたは知らなくていい。
儀式の雰囲気にあえば、自己流でもいい。
お話も実話でなくていい。
つまり、
儀式は一種のパフォーマンスやショウなので、
それにあわせることが大切である。
このような考えなら、
経を唱えるのは、
噺家の落語、歌手の唄、芸人の技、役者の芝居と同じかもしれない。
下手くそではいけない、名人を目指さなければ。
食事は、
旬のものを楽しく食べる
人間関係は、
元気で仲良く(先祖供養もこれがいちばん)
健康のためには、
早寝早起きして、エレベータより階段を。
より良い未来のためには、
希望をもつ。
こういうことを書くのは簡単だけれど、
毎日続けるのは難しいかもしれない。
けれど、
内容は簡単なことなのだから、
習慣にすれば、そうしないと気がすまないようになるかもしれない。
迷い(煩悩)とは、
自分と他を分別することだけれど、
これは歳を重ねると、多分に強くなる傾向がある。
それは、
どこの学校を出て、どんな仕事をして、というような、
過去に積み重ねたものが自分であるかのように思いがちで、
自分の歴史で、自分を限定するようなところがあるから。
でも、そんなことはない。
自分はもっともっと大きいものである。
可能性も未来もある。
特に、
悟り、仏になる可能性がある。
そういう心を持っている。
それはどんな心かといえば、
一心とか全体心と云う。
『御遺誡』には、
「一心の性は仏と異なることなし
我心、仏心、衆生心の三差別なし
この心に住すればすなわちこれ仏道を修す」
とあり、
『秘鍵』には、
「一心はこれ本居なり」
と書かれている。
一心(全体心)は、自他の分別が無い心で、
その反対が個別心。
それは自分さえよければ良いというような、自分にとらわれる心だけれど、
それを拡げて、自他の区別がない一心(全体心)を回復する。
宇宙法界に広がる心、
自分だけではない全体を包む心、
にする。
栂尾先生の『真言宗読本』教義編には、
「我らと植物が酸素などの呼吸によってつながっているように
われはもっと大きい
自身は宇宙につながり、天地一切がこの身に集約されている」
とある。
つまり、大日如来とおなじである。
宇宙は大日であり、
われは大日であり、宇宙であるから。
そこに直入する方法が、三密行なのだけれど、
一切がみな仏と成りますように、
と願うことも、ひとつの方法。
ようは、
心を入れ替えることである。
目前の善悪に悩むのではなく
その根源にある大きな心を見る。
その大きさを知っていれば、
どんな困難があっても、乗り越えられる。
旬のものを楽しく食べる
人間関係は、
元気で仲良く(先祖供養もこれがいちばん)
健康のためには、
早寝早起きして、エレベータより階段を。
より良い未来のためには、
希望をもつ。
こういうことを書くのは簡単だけれど、
毎日続けるのは難しいかもしれない。
けれど、
内容は簡単なことなのだから、
習慣にすれば、そうしないと気がすまないようになるかもしれない。
迷い(煩悩)とは、
自分と他を分別することだけれど、
これは歳を重ねると、多分に強くなる傾向がある。
それは、
どこの学校を出て、どんな仕事をして、というような、
過去に積み重ねたものが自分であるかのように思いがちで、
自分の歴史で、自分を限定するようなところがあるから。
でも、そんなことはない。
自分はもっともっと大きいものである。
可能性も未来もある。
特に、
悟り、仏になる可能性がある。
そういう心を持っている。
それはどんな心かといえば、
一心とか全体心と云う。
『御遺誡』には、
「一心の性は仏と異なることなし
我心、仏心、衆生心の三差別なし
この心に住すればすなわちこれ仏道を修す」
とあり、
『秘鍵』には、
「一心はこれ本居なり」
と書かれている。
一心(全体心)は、自他の分別が無い心で、
その反対が個別心。
それは自分さえよければ良いというような、自分にとらわれる心だけれど、
それを拡げて、自他の区別がない一心(全体心)を回復する。
宇宙法界に広がる心、
自分だけではない全体を包む心、
にする。
栂尾先生の『真言宗読本』教義編には、
「我らと植物が酸素などの呼吸によってつながっているように
われはもっと大きい
自身は宇宙につながり、天地一切がこの身に集約されている」
とある。
つまり、大日如来とおなじである。
宇宙は大日であり、
われは大日であり、宇宙であるから。
そこに直入する方法が、三密行なのだけれど、
一切がみな仏と成りますように、
と願うことも、ひとつの方法。
ようは、
心を入れ替えることである。
目前の善悪に悩むのではなく
その根源にある大きな心を見る。
その大きさを知っていれば、
どんな困難があっても、乗り越えられる。
中指は自分
人差し指は連れ合い
小指は子ども
の状態が現れます。
その指に元気があるか、力があるか、色ツヤがどうか、
まっすぐか、曲がっているか、
仲良く並んでいるか、離れているか
などで、関係と症状を観ます。
いづれにしても、
夫婦親子などの縁で、自分は存在しています。
その他にも、
自然環境や社会の関係、いろいろな縁と条件で僕らの存在がある。
それらの縁が変われば、今の僕とは違う存在になるかもしれない。
よくよく考えてみると、
普段の生活でもっとも影響している縁が食べ物です。
日々の食べ物が身体や脳細胞を作り、それが変われば体調も変わります。
僕は少し断食をしたことがあり、
食事を摂れないくらいの体調不良になったこともある。
自分の意志で食べないのは快適だけれど、
食べられないのはずいぶんと苦痛。
身体は食べ物という縁によって動き、はたらき、変わり、
どんな縁に遇うかによって人生は変わります。
今はインターネットによって、
ひとり部屋にこもっても、ネット経由で縁ができます。
だから、
ネットで人生が変わってしまう。
『性霊集』に、
大きな石は沈み、小さな蚊や虻は遠くまで飛べないけれど、
船に載せれば石は沈まない、
鳳の羽につかまれば、蚊虻も遠くまで飛べる
というのがあります。
つまり、
自分は大したことのない、つまらない人間であると感じても、
縁によれば、沈むこともなく遠くへ飛ぶこともできる、
とすれば、ありがたい。
縁によって、迷いも悟りに変わる筈であり、
この縁を「師」とも云います。
人差し指は連れ合い
小指は子ども
の状態が現れます。
その指に元気があるか、力があるか、色ツヤがどうか、
まっすぐか、曲がっているか、
仲良く並んでいるか、離れているか
などで、関係と症状を観ます。
いづれにしても、
夫婦親子などの縁で、自分は存在しています。
その他にも、
自然環境や社会の関係、いろいろな縁と条件で僕らの存在がある。
それらの縁が変われば、今の僕とは違う存在になるかもしれない。
よくよく考えてみると、
普段の生活でもっとも影響している縁が食べ物です。
日々の食べ物が身体や脳細胞を作り、それが変われば体調も変わります。
僕は少し断食をしたことがあり、
食事を摂れないくらいの体調不良になったこともある。
自分の意志で食べないのは快適だけれど、
食べられないのはずいぶんと苦痛。
身体は食べ物という縁によって動き、はたらき、変わり、
どんな縁に遇うかによって人生は変わります。
今はインターネットによって、
ひとり部屋にこもっても、ネット経由で縁ができます。
だから、
ネットで人生が変わってしまう。
『性霊集』に、
大きな石は沈み、小さな蚊や虻は遠くまで飛べないけれど、
船に載せれば石は沈まない、
鳳の羽につかまれば、蚊虻も遠くまで飛べる
というのがあります。
つまり、
自分は大したことのない、つまらない人間であると感じても、
縁によれば、沈むこともなく遠くへ飛ぶこともできる、
とすれば、ありがたい。
縁によって、迷いも悟りに変わる筈であり、
この縁を「師」とも云います。
勝手口に積んである玉ねぎを見て、
これを丸かじりしたい、
と衝動的に思った。
ひとつ取り上げ、皮をむき、がりりと噛んだ。
泣きたいほど辛かった。
こういうことは、よくあることである。
嘘をつく、
という心の動きを考察してみると、
意識と自我と集合的無意識のつながりを発見できる。
これは、
嘘をつくことを正当化するのではない。
悪事を思う心を調べることと、
所詮、人間なんてそんなものよ、
などと、悪事を正当化することは違う。
仏教以外の教えを外道(げどう)と云う。
これは、
サンスクリット語のティールティカ(tīrthika)の訳語
『大日経』や『十住心論』では、
心を10段階に分けている。
最初のみっつは、
1、性欲と食欲の、生存するための心
2、施しなどの倫理が生まれる心
3、真理に憧れ、神や哲学を追求する心
ここまでは自我がある。仏教以前の心。
これを外道と云う。
神や霊魂などが実在する(自我がある)と考えるのが外道で、
自我による思い込みが、
迷いの原因である。
田中先生は『菩提心論講和』のなかで、
他人を救うことより、自分の悟りを優先させる、
自分がもっと力をつけてから、慈悲の行いをする、
というのは外道かもしれない
と書いている。
無我を知ると、
自他の区別が無くなる。
そうすると、慈悲の存在が当然のこととなる。
だれもが本来清浄で無限の心徳をもっているのだから、
一切衆生を利益し安楽しようとするのは当然
ということだろうか。
これを丸かじりしたい、
と衝動的に思った。
ひとつ取り上げ、皮をむき、がりりと噛んだ。
泣きたいほど辛かった。
こういうことは、よくあることである。
嘘をつく、
という心の動きを考察してみると、
意識と自我と集合的無意識のつながりを発見できる。
これは、
嘘をつくことを正当化するのではない。
悪事を思う心を調べることと、
所詮、人間なんてそんなものよ、
などと、悪事を正当化することは違う。
仏教以外の教えを外道(げどう)と云う。
これは、
サンスクリット語のティールティカ(tīrthika)の訳語
『大日経』や『十住心論』では、
心を10段階に分けている。
最初のみっつは、
1、性欲と食欲の、生存するための心
2、施しなどの倫理が生まれる心
3、真理に憧れ、神や哲学を追求する心
ここまでは自我がある。仏教以前の心。
これを外道と云う。
神や霊魂などが実在する(自我がある)と考えるのが外道で、
自我による思い込みが、
迷いの原因である。
田中先生は『菩提心論講和』のなかで、
他人を救うことより、自分の悟りを優先させる、
自分がもっと力をつけてから、慈悲の行いをする、
というのは外道かもしれない
と書いている。
無我を知ると、
自他の区別が無くなる。
そうすると、慈悲の存在が当然のこととなる。
だれもが本来清浄で無限の心徳をもっているのだから、
一切衆生を利益し安楽しようとするのは当然
ということだろうか。
およそ人間の言動は心から生じる。
十住心を解説すると、
1、腹減ったなあ、あの娘と付き合いたいなあ、そんなことばかりの心
2.今日は節約して、その分を困っている人に差し上げよう、という心
3、良いことをしますから、未来は極楽へ住めるようにお願いします。
そして、神さま、世界を救ってください。
と思う心。
4、(僕以外の)あなたがいるから僕がいる。
あなたがいなければ「僕」はいない、
すなわち無我であると知る心
5、宿酔は飲みすぎと身体の不調が原因で生じた、
と論理的に思考できる心
6、僕が美しいと思うから、あなたは美しいので、
僕が思わなければ、美しくないかもしれない
と認識について理解する心
7、タイガースは甲子園を本拠地とするプロ野球チームである、
と論理的に説明できても、
タイガースの実体とは何か、は説明できない。
つまり空である。
しかし、タイガースは実在している。
それが「存在」であると知る心
8、在るものは、いつか必ず無くなる、
在るものの本体というものは無い。
ならば、その在るものを知っている私は、
在るものと一体になっているのではないか、
それが存在ということではないか、と知る心
9、ということは、
何もかもが、ごちゃごちゃと混ざり合っており、
細胞が集って私があるようなものである。
細胞も私も毎日変化しているから、
不変の本体などと云うものはどこにも無い、と知る心
10、私は怒ったり泣いたり笑ったりする、
私はいろいろな服を着る、
私にはいろいろな役割がある、
私は行動と、言葉によるコミュニケーションと、意思によって、
良いことも悪いこともする。
そのように、
世界は、私が見たり聞いたり感じたりするすべてもので構成され、
全部が集ってひとつの世界になっている。
見たり聞いたり感じることは無限にできるから、
その世界も無限である、
と知る心。
この10のうち、心がどれかひとつに留まることはない。
いつもウロウロと動いて変化して、
ある時は1、あるときは9、
工夫すれば10になる。
できることなら、
1の心(自分のことだけ考えている)から、
10の心(全部を思い慕う心)に上昇するのが良いのだろうけれど、
なかなか難しいので、
戒律と勉強と修行が役に立つのである。
十住心を解説すると、
1、腹減ったなあ、あの娘と付き合いたいなあ、そんなことばかりの心
2.今日は節約して、その分を困っている人に差し上げよう、という心
3、良いことをしますから、未来は極楽へ住めるようにお願いします。
そして、神さま、世界を救ってください。
と思う心。
4、(僕以外の)あなたがいるから僕がいる。
あなたがいなければ「僕」はいない、
すなわち無我であると知る心
5、宿酔は飲みすぎと身体の不調が原因で生じた、
と論理的に思考できる心
6、僕が美しいと思うから、あなたは美しいので、
僕が思わなければ、美しくないかもしれない
と認識について理解する心
7、タイガースは甲子園を本拠地とするプロ野球チームである、
と論理的に説明できても、
タイガースの実体とは何か、は説明できない。
つまり空である。
しかし、タイガースは実在している。
それが「存在」であると知る心
8、在るものは、いつか必ず無くなる、
在るものの本体というものは無い。
ならば、その在るものを知っている私は、
在るものと一体になっているのではないか、
それが存在ということではないか、と知る心
9、ということは、
何もかもが、ごちゃごちゃと混ざり合っており、
細胞が集って私があるようなものである。
細胞も私も毎日変化しているから、
不変の本体などと云うものはどこにも無い、と知る心
10、私は怒ったり泣いたり笑ったりする、
私はいろいろな服を着る、
私にはいろいろな役割がある、
私は行動と、言葉によるコミュニケーションと、意思によって、
良いことも悪いこともする。
そのように、
世界は、私が見たり聞いたり感じたりするすべてもので構成され、
全部が集ってひとつの世界になっている。
見たり聞いたり感じることは無限にできるから、
その世界も無限である、
と知る心。
この10のうち、心がどれかひとつに留まることはない。
いつもウロウロと動いて変化して、
ある時は1、あるときは9、
工夫すれば10になる。
できることなら、
1の心(自分のことだけ考えている)から、
10の心(全部を思い慕う心)に上昇するのが良いのだろうけれど、
なかなか難しいので、
戒律と勉強と修行が役に立つのである。