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という医学論文を読んで思い出したのが柳沢文正博士の言葉。
唾液に含まれるパロチンなどのホルモンは、血清カルシウムイオンが骨、歯牙に沈着することに影響する。
このカルシウムイオンの多少が、酸性体質とアルカリ体質を分ける、
というのが柳沢博士の主張ですが、
著書『むぎ健康法』のなかで、
「毎日キスをしていると、酸、アルカリ性はキスの方法によっても、また強烈さでも、よくわかるはずである」
と書いています。
唾液がたくさん出ていれば、胃や肌の調子が良くなるけれど、
他人のでも良いのかな。
唾液をたくさん出すには、
昆布や梅干の種をしゃぶるのが効果的。
食事会話以外では、口を閉じる。
また、普段の食事では、
最初のひとくちだけ、30回噛むのがいい。
口に入れる量は少なく。
噛むと
食べ物はより陽性になりますから、
最初のひと口だけでいい。噛みすぎると陽性過多になります。
さて、
望診法では上唇で胃の状態
下唇で大腸の様子を観ます。
上唇が荒れているなら胃が荒れている、
下唇が腫れているなら、大腸が便秘などで腫れている、
など。
健康なら上下の唇は各1センチ程度で同じ厚さ、
色はうすいピンク(桜色)。
陰性過多なら紫に、陽性過多なら赤黒くなります。
下唇が上唇の倍以上厚いのは、お腹の不調が考えられます。
口の幅は、陰性なたんぱく質が多いと広くなり、
胃下垂なら上唇が薄くなります。
大食なら胃腸が大きくなるので、唇も大きい。
胃腸が疲れていると、
つまり唇が汚いと、
不安や悲しみに弱くなり、
丈夫(唇がきれい)なら、
安心感と理解力が高まります。
そして、
心身が陽性なら口は閉じ、
陰性なら口が開きます。
さらに、
婦人科系や肛門の様子は口の周辺に現れます。
座禅瞑想のとき、
呼吸は口でするのか鼻でするのか、
と聞かれることがありますが、以上のことがその答に関係しています。
冷病には火をふくようにする呼吸
熱病には口を広くあけてする呼吸
などの気療法が書かれていますが、
坐禅瞑想時は、
口は閉じ、呼吸は鼻を通したほうがうまくいく。
理由のひとつは、
口を閉じれば陽性になり、
肛門が締まり、
丹田に意識を集中しやすいから。
瞑想に限らず、
呼吸、特に吸気は鼻でしたほうがいい。
鼻は入ってくる空気(酸素)の浄化と温度調節の役割があるから。
鼻が不調な時は、口で呼吸します。
鼻が詰まっている時は洗うか、大根湯などの陰性なものを飲めば良い。
透明な鼻水の時は、
お腹が冷えているので、ネギ味噌湯などを飲みます。
呼吸では、
出る息で不要な二酸化炭素を出し、
吸う息は必要な酸素を取り入れます。
酸素は陰性で、
二酸化炭素は重く陽性です。
呼気は陰性な力で、吸気は陽性な力で行われます。
ですから、
肉食が多いなどの陽性過多になると、
陰性が少ないので、ゆっくり長く息を吐くことが難しくなります。
交感神経は陰性なもので、
副交感神経は陽性なもので刺激されます。
ですから、
口を閉じ陽性にしていたほうが、リラックスできます。
そして、
呼気を調える(陰性な力を使うので身体は陽性になり、副交感神経を刺激する)
ことでリラックスすると考えられます。
密教では瞑想中に真言を唱えるので、
念誦するため口を開けて息を吐くようになっています。
覚鑁さんの『阿字観儀』には、
「口を少し開いて、出入の息を阿々と唱念すべし」
『無畏三蔵禅要」には、
「調気とは、先ず出入の息を想え、自身の中の一一の支節筋脈よりまた皆流出す。然して後に口より徐々にして出ず」
とある。
念誦は、
『秘蔵記』に五種が説かれています。
蓮華 :耳に聞こえる
金剛 :唇が少し動く 舌端を動かす
三摩地:舌を動かさず心において蓮華月輪阿字を観じて
声生 :心蓮華の上に 鈴を振るが如し
光明 :口より光明を出すと観じる
『石山次第』は金剛念誦を選んでいますが、
初心者は口を少し開けて、
修練を積んだら口を閉じて心の中で唱えるのが良いかもしれない。
上手になれば、
『無畏三蔵禅要」にあるように、
口か鼻かではなく、
身体全体で、一々の毛穴で呼吸するようなイメージで呼吸して、
我と仏と衆生と、宇宙と我と、が交流し相応します。
呼吸は姿勢が影響します。
慣れないうちは、
頭上に1キロくらいの座布団を載せて、背筋を伸ばして坐ると効果的です。
個人的な経験では、
口からゆっくり長い呼気を続けていると、
それが不自然な止息を生じさせ、
横隔膜が下がりすぎるためか、内臓が下垂する傾向がある
(しかも口を開けているので肛門が陰性になり緩む)ので、
鼻を使ったほうが安全であると考えています。
経済評論家の上念 司が、
あの人は、ロケットマンというより、エリンギに似ている
と言うのを聞いて笑った。
彼の画数をみると、
自分が一番偉いと思っているのだろうな。
まあ、そういう人は多いけれど。
医者と僧侶の名前に多い画数が9と0。
9は心が無く、
0は破滅分裂の香りがする。
アベ・コイケの人相、画数については以前書きました。
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女史は最近、三白が強くなりましたね。あまり良いことではない。
希望の党は39画、民進党は40画。
文屋先生の『姓名判断』(ナツメ社)によると、
39は大物運 。
逆境に陥っても必ずそこから抜け出し、みごと挽回できる力を持った強運の持ち主。
権力や財力を得て、家庭運も良く、健康にも恵まれるでしょう。
ただ、女性には凶運数となります。結婚運が悪く、離婚や死別などを経験するかもしれません。
40は強烈運。
自己主張が強いので、芸術などの特殊な世界では芽を出します。
また、異性間のトラブルが絶えない暗示があります。
虚栄心が強すぎて身動きがとれなくなり、自滅する危険があります。
病弱、短命、孤独の凶運。
運勢に最も関係しているのは食生活です。
それによって健康が作られ、
食べたもので作られた血が脳に流れますから。
次が環境と人間関係。
食べ物が良くても、それが不安定なら効果は出ない。
そして、
楽しいかどうか、笑っているかどうか、
自信と希望があるかどうか、
で変わります。
画数はその次くらいだから、
食が不自然で、
環境と人間関係が不良で、
心が乱れている人には、
大いに関係があるでしょう。
かいーみょう [戒名]
(1)三帰戒を受けて仏門に入った者が授けられる名。
インドでは剃髪出家すれば、もとの姓を棄てて総て<沙門><釈子>を称した。
中国・日本では、出家すると俗称を棄て俗名を改めて法名(法号)を用い、
在家では受戒した者に戒名を授ける。
密教では授菩薩戒法則があって三帰十善戒のほかに菩薩戒を授けるのが特色で、
前行には7日間を要する。
更に、結縁灌頂の際に、投華得仏で選ばれた有縁の尊号に因んで2字の戒名を授けるのが密教での本義である。
とあり、
次に(2)として、
現在の死者につける法号について書かれています。
上の三帰戒は、
仏法僧の三宝に帰依することを誓う戒。
ただし、
これは風習のひとつで、戒名の典拠となる仏典は無い。
僕は在家出身で、生まれた時に親から「祐介」という名をつけられ、
高野山で出家得度の時に師僧から「晃仁」という僧名(戒名、法号)を貰いました。
その後、菩薩戒ほか、262の戒律を授かります。
お葬式は出家授戒作法のひとつなので、
死者を剃髪、授戒し、戒名を授けて仏道修行者とします。
仏教の基本のひとつが戒・定・慧の三学。
戒律が土台となり、心を静かにまとめる座禅瞑想修行をして、仏の智慧を得ます。
だから、
大切なのは戒律と修行。
それが必須で、戒名をもらうだけでは成仏しない。
僕らは生きているので、
精進工夫して成仏する可能性がありますが、
死者はどうでしょうか。
肉体を使う修行はできないけれど、
何か他の方法があるかもしれない。
成仏(悟り)を得る可能性(仏性)は残されているはずだから、
それを祈願する、
というのがお葬式や法事なのでしょう。
日本では昔から実名(名乗り)と通称があります。
実名は訓読みで、めでたい字を使う。
信長(のぶなが)や秀吉(ひでよし)など。
尾張守や太閤殿下が通称になるのかな。
他人がその人を実名で呼ぶことは無い。
名前は大切なのもだから、当人が公文書に署名するときなどに使うのみ。
今の天皇は明仁という名だけれど、他人がその名で呼ぶことはしない。
陛下や殿下と呼ぶ。
武田晴信が実名で、信玄は法名。
上杉景虎が実名で、謙信が戒名。
のように、
戒名(法名)で呼ぶことはあります。
そして、
人の名前を音読するのは敬意を表し、
本人は訓読して音読はしない。
菊池寛は「ひろし」が本名だけれど、「かん」と敬意をもって呼ぶ。
松本清張も「きよはる」さんではなく「せいちょう」。
お寺の子は、
親からもらった名をそのままにして、得度したら音読みすることは多い。
孝雄(たかお)が孝雄(こうゆう)になるなど。
僧名は敬称ということなのだろうか。
そもそも、
戸籍には読みがなは無いから、音でも訓でもどちらでも良いのだけれど。
僧名(戒名)は源氏名である、
と云ったお坊さんがいたけれど、
ニックネームでもハンドルネームでも、
名前を変えると気持ちが変わります。
戒名によって、
修行しようという気持ちになれば、とてもよろしい。
持戒しないのに戒名は不要であり、
戒名があるのは修行すべき人です。
それが成仏への方法。
来年1月14日に横浜市「umiのいえ」で望診法講座があります.
なるべくわかりやすくお話ししますが、時間が限られているので、
理解の参考になるよう、望診法のポイントを何回かに分けて書きますので、
予習としてご覧ください。
まず、
五臓(肺臓、肝臓、脾臓、腎臓、心臓)、
五色(白、青、黄、黒、赤)
五感(悲/安心、怒り/忍耐、不安/同情、恐怖/勇気、興奮/落ち着き)
五味(辛味、酸味、甘味、鹹味、苦味)
←陰性 陽性→
の陰陽と、それぞれのつながり、
元素の陰陽を覚えましょう。これで多くの判断ができます。
特に
色と元素の陰陽がわかれば、迷うことが少なくなります。
※参考文献
『望診法テキスト 宇宙を診る』 1500円
『望診法講義録 人相編 附 密教ヨーガ』 2160円
『望診法講義録 手相編 附 六大陰陽五行色体表解説』
2160円(穀菜食の舎会員は1080円)
すべて 眞天庵 刊
ご希望の方はご連絡ください。
ここ数年の選挙では、
選挙区は消去法で(これといった人がいないから)
比例区は共産党(主張政策がずっと変わらないから)
を書いています。
さて、今回はどうしようか。
関心があること、影響があること、迷惑しそうなことは、
ウワサ話ではなく、よくよく勉強して考えます。
子どものころから、
勉強しないと答は出ない、と教わってきたから。
そういう人がいれば投票したい。
大型爆撃機やICBM、さらには原爆を持っていれば、
個人がそれほど勇敢でなくても、頭が悪くても、
元気が出て、力が沸いてくるかもしれない。
大きな家に住んで頑丈な塀に囲まれていれば安心で、
さらにはお金と地位があれば、
それらが元気を作ってくれるかもしれない。
でも、
そういうものが無くても、
智慧と工夫する力、やさしさと思いやりで、安心と元気が得られる、
そういうような世の中になれば良いなあ。
いずれにしても、
おかしなことには、沈黙せず反対しましょう。
先祖をまつる、というのは中国の風習で、インド仏教にはありません。
中国で、
先祖をなぜまつるのかといえば、それが孝行だからであり、
孝行は最も大切なものだからです。
仏教が発生したインドでの死生観は輪廻転生、
ですから、死の先には生まれ変わった世界があります。
それは、
先祖から受け継いだものとは違います。
そもそも、先祖という概念が無い。
そして、
輪廻(迷いの世界)から解脱することが成仏。
なので、
死ねば輪廻して再び苦しみの世界へ生まれ変わるか、
輪廻から解脱して悟るか
のどちらかです。
生まれ変わっていれば、先祖供養に意味は無く、
成仏していればなおさらです。
仏教がインドから中国へ伝わり、
そこで先祖供養や死後の十王思想(閻魔さんなど)が加わり、
日本に来て、古来の「あの世」観が融合しました。
中国や日本では、
先祖供養は人として当たり前の行為で、宗教以前、孝や忠といった道徳です。
誰でも、
両親祖父母先祖を敬い、それを人生の指針にしたり、反省します。
ご先祖様は寺やお墓にいるのではなく、心の中にいる。
だから、いつでもどこでも感謝し、思い出すだけで自分の人生のよりどころにできます。
しかし、
いつの間にか、先祖供養は寺にお願いしなければいけないような形が作られました。
先祖は人質のようになってしまい、
供養をしないとご先祖様が云々、
などという説明がはびこることになりました。
初期仏教は出家主義で、
悟りのためには現世の生活を捨てて、ひたすら修行しなければ到達できない、
と考えられていました。
しかし、
それでは悟りはごく一部の人だけしか得られません。
普通の生活をしながら悟りに到達する、
ということを目標にしたのが大乗仏教です。
しかし、
いのちとは、人間とは、心とは何か、
という哲学が深遠になりすぎ、
出家者(プロ)と在家(アマチュア)の差が拡がります。
存在の分析(モノ、人、心)をして、それを修行によって証明する、
という形をとってきましたが、
これも普通の人にはなかなかできません。
先祖供養も、
素人ではなく、プロの仕事に組み入れられます。
本来、
誰でも勉強できます、誰でも修行できます。
供養もいつでもどこでも、ひとりでもできるものです。
感謝と反省、思いやりと優しさを心に浮かべれば良いのです。
寺は勉強と修行をする場所です。
それによって、
自分と先祖の悟りを求め、願います。
他人からどのように見えようが、
自分が幸せだと思えばしあわせですが、
「悟り」を簡単に云えば、しあわせになること。
この幸せは心が平安になることですが、
これがなかなか難しい。
悟りのことを菩提とも云いますが、
これを願うことがご祈祷です。
つまり、
自分と他人の幸せを祈ることが眼目。
14日土曜日午後、
飯田市立石寺本堂にて、
十一面観音の護摩を修法。
木村光秀仏師、長石寺岩堀ご住職にお手伝いいただき、
世間の幸せを祈願しました。
この寺は元来、
雨乞いの祈願から始まった伝説のある祈願寺で、
心中 煩悶ある人が大勢訪れ、
御祈祷の利益は計り知れない、
と伝わっています。
祈祷は、
真言を唱え、
心を調査観察し、
迷妄の原因となる心をひとつひとつ乗り越え、
慈悲の行いをすること。
これによって、
人格が変わります。
仏になるのです。
それが菩提、
つまり、しあわせ。
心は平安になり、
それが「しあわせ」な心であるから、
慈悲は、
自分が「しあわせ」という恩恵を受けることにつながるはずです。
しかし、
津田真一博士の『和訳 金剛頂経』(東京美術)には、
大乗仏教の本質をなす利他行(他人を助け救うこと)では、
苦しんでいる相手に対する慈悲の働きかけが基本だけれど、
この慈悲は、
心とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、
ということにも、
ブッダの悟りにも、
その根拠を有していない。
慈悲は、
あるべきものではなく、選択されるべきものである。
とあります。
確かに、お釈迦さんが、
苦行の末に、菩提樹下の瞑想によって成道したことを考えれば、
そこに慈悲の行いは無いかもしれない。
津田先生は、
苦しんでいる他者を目の前にして、
慈悲を選択しても、しなくてもよい。
ただしその場合、
慈悲を選ぶなら、苦しみを抜き楽を与える実践を一生の間、行わなければならず、
慈悲をとらないなら、人間的な愛を断念しなければならない。
と続けています。
大乗仏教では、
悟り(成仏、菩提)のために、他者の苦しみを抜き楽を与える、
慈悲の集積という修行が必要です。
そして、
慈悲の行いを常に行なうためには、
一瞬もとどまらず変化している自分の心の現状を分析し、
空や縁起の理解によって、乗り越えなければなりません。
苦しくて悩む心を乗り越えなければ、他者を救えないから。
その、心の変化を如実に知る過程が人生です。
しかし、
密教では瞑想と真言により、
絶対的な真理とその場でヨーガ(相応)しようとするのが修行です。
これを即身成仏と云い、
ここに慈悲は必要無い。
なので、
真言宗徒の理想は即身成仏にあるのではなく、
それとは対照的な大日経の三句にある、
と津田先生は『仏教経典散策「金剛頂経」の頁』に書いています。
三句とは、
仏の智慧は、
「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」
この菩提心が、ありのままに自心を知ること。
それが因になって、他者への思いやりとやさしさが生まれ、
慈悲の行為が究極の目標である、ということ。
ところが、
金剛頂経の密教では、
瞑想に入りさえすれば心中に金剛界マンダラが現れ、
瞑想の手段を経れば、大日如来と相応します。
瞑想修行によって、
実際的な行動ではなく、心に対応する実在界を変化させることができる
という立場なので、
慈悲や助けは必要無いし、規制も倫理性もありません。
大乗では、
自分の行為と、その結果の連続が人生であり、
大日如来(悟り、清浄な自心を知ること)に向かって歩き続けます。
その歩みを止める時、悟りは消滅する。
しかし、
密教では、
一気に頂上の平地に坐ります。
かように、
大乗仏教と密教には、両立しない大きな相違点がある。
村上保壽先生は『弘法大師の救済論』の中で、
救済のための修法は仏、行者、衆生の三平等が原則(これがヨーガにあたる)で、
これを修法する行者は、正しい行者でなければならない。
正しいとは「三昧耶戒」の精神に立っているかどうかにある。
と書いています。
三昧耶戒の中心のひとつが、大悲心。
その心があれば、
総ての人は我が最愛の子と同じだと想うようになり、
一切衆生を自分自身とも思うことにもなる。
自他が平等になる。
そうすれば、
一切の悪は滅び、心は清涼になります。
先の話に戻れば、
菩提樹下の瞑想(ヨーガ)中、
ブッダの心中は慈悲にあふれ、
それによって悟りが得られた、
と考えることができます。
陰陽研究塾の記事 60
●放射線障害を予防する食品調査とステロイドの関係
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/EY4iNAfXaOI
1、その本性(本質)
2、その姿形
3、その働き
がありますが、
心は3、の働きのみ。
これは「生命(いのち)」も同じです。
医学生理学機能的な生命ではなく、
「キミは僕のイノチだ」
「商売は信用がいのち」
などの大切なもの、真髄ということ。
ところで、
「弘法大師空海は『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』を著し、高野山を開創した」
というのは事実であり、
「弘法大師空海は日本で最も偉大な宗教者である」
と言うのは意見、感想に過ぎない。
事実によって証明された意見のみが科学的知見になるのだろうけれど、
心や生命は、事実を証明することが非常に難しい。
生命科学の中村桂子博士は、
固体と固体との「あいだ」にあるとしか言えないような主体的な力を生命と呼び、
それが心
と「物語としての生命」(『宗教と科学』第6巻)に書いています。
これを元に、
村上保壽先生の意見は、
生命は関係性であり、その生命を心とする。
心とは、固体と固体との関係のなかで、自己のありかたを自ら決定する主体的な意志
と『密教と現代』とあります。
密教的には、
『即身成仏義』にあるように、
われらの肉身といっても、それがそのまま宇宙の一切につながっており、
その心といっても、宇宙一切の心に通じている。
そこで、この一身の実体いかん、実相いかん、妙用いかん、無碍の当体いかんが問題であり、
また仏になるといっても、われらの心の他に悟りがあるわけではなく、
この心が宇宙一切を貫く仏の智慧(心、本性)といかに通ずるものなりや。
大師が十住心論十の初に云える如くに、
実の如くに自心の源底を覚知し、
究竟して自身の数量をさとることを、
いかに体現するかということが当面の問題である。
と栂尾先生は書いています。(『現代語の十巻章と解説』149頁)
心やイノチが関係性の中にあるものとすれば、
少し理解できることがあります。
世界には多くの国があり、
ひとつの国にもいろいろな社会やグループがあります。
国や社会が違っても仲良くする人がいる反面、
ケンカしたり争っている関係もある。
これをミクロ的視点から考えれば、
この世で自分と同じ世界に住んでいる人はいません。
夫婦や子でも違う世界にいる。
その世界が自心です。
ですから、
違う世界の人と仲良くして思いやりを持つか、
それとも対立するかは、
まったく自分の中の問題になります。
「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」
という有名な文章があります。
密教では、
学問と実践、の二つの車輪があり、どちらも同じように習得するべきとしています。
学問だけでは頭でっかちの理屈屋になり、
実践だけでは錯覚や妄想につながり危険であるから。
人生の苦しみとは何か、
その解決法は何か、
を知るためには、
苦しみを感じる心とは何か、
それを感じる人間とは何か、
そもそも、宇宙の中にあるもの総て、
その存在とは何かを証明しなければなりません。
仏教のあるグループは、
モノを構成する、これ以上分割できない最小単位(極微)を想定しました。
それはモノとしても、真如としても最小の単位です。
それは余りにも小さいので眼に見えず、触ることもできない。
あらゆるものはそれからできている。
しかし、
目に見えない小さな物質がいくつ集まっても、
目に見える物質にはならないのではないか?
目に見えず、触れることもできないものが、
「存在する」ということを証明出来るのか?
これらは、科学が元素や素粒子を発見して証明している方法と似ています。
では、
そのこれ以上分割できない最小の、根本的なモノがあるとしたら、
それはどのように作られ発生したのでしょうか。
仏教は縁起の法則が前提です。総てには関係性がある。
父と母がいて僕がいる、
というような縁と条件と結果が必ずあります。
ところが、
大元のモノはそれしか無いのですから、依るべき縁が無い。
アダムとイヴによって人類が生まれたとしても、
そのアダムとイヴはどこからきたのか。
神様が創ったとか、自然に生まれた
などというのは論理的に崩壊しています。
そこで、
すべてのものは分割できない全体性を持っている、
というのが密教の考えかたです。
存在しているものの本質は初めとか終わりの概念が無い不生なものである。
だから、
存在しているという事実が真実である、と。
そう考えると、
総ては仏を内蔵し、仏の現れであると立場をとれば、
世界は仏(真如、悟り)の象徴となります。
不生なものが不生な世界をつくり、
世界の中に、それぞれの不生なものがあります。