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[ 2025/03/16 09:11 | ]
あらゆるものの根源
 

仏教に「能生のうしょう)」「所生(しょしょう)」という言葉があります。

能生は生み出すもの、主体、根源。

所生は生み出されるもの、客体。

基本的に能生は目に見えず、

所生が見える形。

で、

この能生、つまり生まれてきた根源、

これを仏教は求めてきました。これ以外のものは関心無い、といっても過言ではない。


苦しみとは何か、幸せとは何か。

迷いとは、悟りとは。

心とは何か、自分とは何か。

宇宙とは何か、どうなっているのか。

なぜ生まれ、なぜ生きているのか。

なぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか。

これらの問題は、

宇宙、人間、心などの根源が分かれば解決します。

すべての問題の根底に、

つまり、所生のものの奥に能生の何かがあるはずです。

仏教に限らず、

人生の諸問題にとっても同じでしょう。


この能生が何であるか、

元素とか素粒子である

空や縁起や阿頼耶識である

阿弥陀如来や法華経である

というように、いろいろな考えかたがあります。


密教ではそれを五大(地水火風空)とか六大(五大と識)であると捉えます。

そのものだけではなく、

その姿とその性質働きを含めてです。

この五大・六大は大日如来のこと。

ですから、

すべては大日如来から生まれる、

という云いかたになります。


これが展開して現れたのが所生の世間や身体で、

つまり、根源なモノのシンボルということ。

現れた僕らや周囲の現象宇宙は、基本的にヨーガ(相応)しているので、

単独ではありません。

お父さんとお母さんと子らで家族であり、

おとうさん単独では「お父さん」になれないようなもの。


心身や周囲の現象は六大大日なのですから、

それが能生なら、

すべては事実であり真実、ということになります。

ですから、

僕らの働きはそのまま大日如来の働き、ということになる。


仏教では、

あらゆるものには実体がなく、関係性においてのみ存在している、

という縁起・空の考えかたがありますが、

これでは、個別の存在に価値を認めにくい。

すると、

この身このままで今すぐに悟れること(即身成仏)はあり得ない。

ここが密教の特徴なのですが、

事実は縁起を越えたものと捉えています。


僕らは大日如来、悟りの当体と同じですが、

そのまま何もしなくても悟りが現れるわけではなく、

修行努力工夫が必要。

何もしない現実肯定は危険であり、戒めるべきです。


心を開発して悟るための修行(生きかた)には多くの方法がありますが、

混じり気の無い心をもち

喜びをもち

他を尊重し、いつくしむ

ことと、田中千秋先生の『即身成佛義講話』にあります。

これは難しいことだけれど、できないことではない。


 

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[ 2017/12/20 10:51 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
道草 地下鉄銀座線
地下鉄の車両は、どこから入れたのでしょうねえ、

それを考えると一晩中眠れない

という漫才が流行ったのが約40年前。


日本最初の地下鉄、銀座線が開通して90年になるようですね。

僕は営団地下鉄という名称が好き。

正式には帝都高速度交通営団 。

今は、

東京メトロなどという軟弱な名前になってしまった。


34年前、

昭和58年秋のある日、

僕は都内の地下鉄を乗り歩いていた。



銀座駅 1700形


あの頃はホームでタバコが吸えた。



2000形+1600形 この編成が多かった。





銀座線と丸ノ内線では、

駅に着く前のポイント通過時に室内灯が消える。

それが何となく楽しかった。


車内にもホームにも冷房は無かったけれど、

それほど暑かった思い出は無い。

そして、

車内にもホームにも、

いろいろな人がいた。

今は、同じような人が多い。


あの頃は、

不良とマジメなヤツと、その両方と仲が良いのがいて、

強いのと弱いのとその中間が一緒に生きていて、

いろいろなことがうまくいっていたような気がする。




※拙著

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[ 2017/12/24 07:14 | Comments(0) | 道草 ]
世界の認識と真理の把握
最近の葬儀は、

お導師さんも参列者もイスに坐って拝むことが多い。

寺の本堂は多くが畳敷きだけれど、イスを置いている寺が多い。


法事も修行のひとつですから、ちゃんと正坐してください、

と参列者に注意するお坊さんもいる。



でも、僕は時によって、

お楽にしてください、足は崩して良いですよ、

などと言ってしまう。

僕自身は正坐したほうが拝みやすいし、イスより安楽だし、

姿も美しいと思っているけれど。


法事が修行であるというのは正しく、

何よりも仏教は修行の宗教で、

寺は修行するところ。

だから、

法事が修行でなければ、寺はただの斎場になる。


修行は成仏のためにある。

成仏とは仏になることで、

それは悟ること、

悟りとは自分の心を知ること、

自分の心とは仏の象徴である。

成仏のことを、菩提とか、智とか道とか覚などとも云う。

迷いを転じて悟り、

人格を完成し、

物心の根源を知ることであり、

簡単に云えば、

自他ともに、しあわせな人生をめざすこと。


『即身成仏義』では

即身と成仏を別々に説明している。

即身とは、

自身だけではなく、存在世界すべてであり、

それは、真理の象徴である。


成仏は、

一切を如実に覚知する智慧、

智慧とは、

決断し、選びとること。



即身と成仏は、

三密行という修行によって結びつく、

と説かれている。


僕らがいるこの世界の真実は、

修行を通して、

価値ある世界になる。

その時、

僕らはただ存在しているのではなく、意味があることを理解し、

その瞬間、

一切の苦悩が消える。


自分らは本来仏であるけれど、事実としては成仏していない。

即身成仏は、

この身のままで仏になる

などという簡単なことではなく、

僕らは悟りの可能性を持っている、

もともと大きくて素晴らしい存在である

ゆへに、他を救いしあわせにできる、

ことを、修行を通してこの心身に実現させること。


まずは、

自分はだめな人間と思わないこと、

修行(努力工夫勉強トレーニング)すれば、

必ず人間の成長があると信じること、

日々の表情に注意し、

言葉を選んで、

やさしさと思いやりを実践すること。


法事も何もかもが、

それらの練習になります。






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[ 2017/12/25 14:10 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
帯状疱疹と耳の関係
 出久根達郎が

帯状疱疹をわずらった後に、突発性難聴に襲われた

と『新懐旧国語辞典』に書いているのを読んで

なるほどなあと思った。

これは、

アトピーと喘息
 
盲腸と扁桃腺
 
扁桃腺とヒザ

足首と頭痛

のように、排毒がつながる、ということ。

もちろん、

無関係につながるわけではなく、

陰陽五行もしくは神経反射の通りになる。


皮膚からの排毒も耳も腎臓系で陽性な排毒。

だから、

食養では、大根やリンゴなどの陰性なものを使う。



ところで、

この本の同じ章で、

斑のことを「トトロ」と称することを知った。

江戸時代の言葉らしい。





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[ 2017/12/26 07:29 | Comments(1) | 望診法の世界 ]
拒絶は承諾より難しい
 冬は脂味の季節ですが、

旬の大根と白菜もうまい。





大根おろしの辛味で脂肪を、

白菜漬けの酸味でたんぱく質を、

それぞれ溶かせば陽性が消えて、脂味もより滋養になる。


それはさておき、

オリエント急行車中で、

数時間後に殺されるラチェットの護衛依頼を、

エルキュール・ポワロは拒絶します。


難しいですよね、拒絶は。

承諾は比較的簡単で、精神的な苦痛も少ない。

何かを依頼されれば、

はい、どうぞ

僕でよろしければ

おまかせください

迷惑なんてとんでもない

よろこんでお引き受けます

と言える。


でも、

人生には拒絶したいことが多い。

飲みたくない

行きたくない

やりたくない

休みたくない
 
特に食事、

食べたくないときがある。

食欲がない、体調が不良、食べる気分ではない、

食べ物の好き嫌いもある。

食べたいものをご馳走するのは、おもてなしだけれど、

食べたくない人に食べさせるのは気の毒である。


食事はいりません、

と断っても、

まあまあ、そんなこと言わずに

となってしまう。

善意、思いやり、気遣いなのだろうけれど。


今は、

ここでは、

これは、

食べたくない、ということがある。


そして、

なぜ断るのかと聞かれたら、

イヤダカライヤダ

と百鬼園先生みたいに言いたい。

言えないけれど。

僕も、

断られた時の悲しさを知っているから。





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[ 2017/12/27 10:32 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ニャンニャンニャン

言葉が無ければ何も表現できず伝わらないけれど、

言葉は限定的で偏ってるから、

真理とか実相というような本質を表すことは難しい。

世間では、

言霊などと、その中に不思議な力を妄想したり、

言わなくても伝わる、

言わないと分からない、

などいろいろな捉えかたがあります。


仏教でも、

存在の真実、人生の本質、悟りなどは言葉で表せない、というグループと、

如来はあらゆる言葉でそれを表現している

という立場があります。

凡人から悟りの世界を目指すのと、

悟りの境界から振り返るのとでは景色が違うけれど、

言葉も同じ。

例えば、


僕を言葉によって説明すると、

中肉中背で剃髪、顔に特徴は無く、

性格はひねくれており、友人はいない。

何を考えているのか分からず、自分中心で、

極めてイヤなやつである。


これらは僕のすべて、本質を説明できているのかどうかはわからない。

でも、

僕からの言葉で理解する という方法では、

僕はニャンニャンニャンである、

と云えばよい。

 ニャンニャンニャンは、

僕の本体、色、形、動き、働きを表す言葉。

これなら、

僕を表す言葉として間違いは無い。

ニャンニャンニャンは僕そのものであるから。

このような言葉を秘密語、真実語と云います。

言葉は耳で聴くものだけれど、

それ以外の香りや色や味などでも、秘密と真実は表されています。

言葉に出さなくても、

微笑むだけで、

手をつなぐだけで、

じっと瞑想するだけで、

食べるだけで、

真意が伝わり、心が開放されるように。

これらの「感じること」も言葉のひとつ。


このような立場なら、

言葉を持たない真理は存在せず、

あらゆるものは、言葉を通してその真実本質を現している。

存在は言葉である、

と云えるでしょう。


このように、

悟りの境界を、

如来は言葉によって開示しています。

この言葉によって、修行が進む。

当然のことながら、

悟りからの言葉を受け取れるかどうかは、

その人の資量によります。

医者は雑草の中から薬草を見つけ、

達人は石ころから宝石を探すように、

勉強とトレーニングを重ねている人には、

無駄なものは見当たらないから。




世の中では、

恵めれた境遇の人だけが成功して幸せになるわけではありません。

めぐまれず、悩まされ、だから求め、祈り、ようやく向上し、悟りを開くことで、

好ましくないと思っていたところに、

仏の言葉があることを知ります。


そして、

喜び、自由、幸いが訪れ、

キライなモノにもすべてに価値を認められるようになる。

だから、

ニャンニャンニャン。



[ 2017/12/28 08:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
感得


あけましておめでとうございます。

    本年もよろしくお願いいたします。


『ビッグイシュー』第276号(2015年12月1日発行)に、

ダライ・ラマのインタヴューが載っています。

「平和は祈っても訪れません。平和は私たちの行動によって訪れるのです」

「現実の変化は行動によって起きます。望みや祈りによってではなく。

神にもし会えたら、神はこういうでしょう。

『困ったことが起きている?お前たちが始めたのだろう。自分で解決しなければならない!

私は思いやりのある人間をつくったのだから!』


そして、

「基本的な人間性は思いやりです。子どもたちの素直な反応を見ればわかります。

親が子どもに否定的な顔を見せると、彼らは脅えるでしょう。

ほほ笑みこそ、子どもたちが大好きなもの!」

「子どもは人の宗教や国籍、家柄なんて気にかけません。

今の私たちは子どもたちの心に、お金のほうが大事、力のほうが大事、宗教の違いや信仰のほう

が大事だと植えつけています。」


「感情について学ぶことです。心は宗教的な問題ではなく、幼稚園から大学までアカデミックな

テーマとしてとらえるべきなのです。

私たちが今試みれば、21世紀の世代は今とは違う世界を目にできるかもしれません」



弘法大師の願文を読むと、

自分も拝むけれど、あなたがた自身も威儀を正して生活しなさい。

そして、一緒に成就のために拝もう

というもので、

これが祈祷で、基本は思いやりです。


何か困った時、悩んだ時に、

神仏の声が聞こえ、

そして、

進むべき道を指南してくれるかもしれない。

その時、

神仏は対象化され、自分の向こう側にいます。

しかし、

いよいよという場面、どうしようもない状況になると、

神仏の声は聞こえず、何もしてくれないでしょう。

自らの中に、神仏を感得しない限り。


お大師さんは、

奈良の久米寺で『大日経』を感得した、

とされています。

見つけた、のではなく感得という言葉を使います。

出会うこと。

これは行動しなければ経験できない。

例えば、

本を読むだけではなく、何か行動実践を積み重ねながら読む、

すると、文章の中にある肝心要のものに対面する。



思いやりと、それに基づく行動によって、

大切なものを感得する、

祈りはその入り口になるかもしれない。








[ 2018/01/04 14:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
特別な日
正月は食後に餅を食べる。

今日も、

食後に母がストーブの上で餅を焼くので、

大根おろしにからめて食べる。


年末年始の仕事を減らすために、

もちを大量に搗くのだけれど、

もちを食べれば正月気分になるのだけれど、

こんなに食べても大丈夫だろうか、

と毎年思いながら食べて、

毎年大丈夫だから大丈夫なのだろう。

とにかく、

少なくとも松の内は特別な日々、正月は特別な月である。


記念日誕生日、お節供お祭り、入学式卒業式、冠婚葬祭、

初めての日、最後の日、

特別な日は少なくない。

そうして特別な日が増えれば、

毎日が特別になる。

これらの日は、

旬を味わい、衣食住を改め、

心をあらたにして、襟を正して生きよう、

という節目になるから大切である。

しかし、

 特別な日でも、苦しいことや悩むことがあるかもしれない。

それは、

自分が至らなく、努力が足らない、勉強不足が原因であるのだけれど、

それを社会や環境や誰かのせいにすることもできる。

こんなことになるなんて、

神も仏もあったものか、と思うこともできるし、

これが神意仏意であるとも云える。


僕が坊主になった時に、

お蔭の無いのがお蔭である

と教わった。

それは戒めであり、仏のサインである、と。



ちゃんと受けているのに本人が気がつかないことがあるだけで、

おかげは必ずある

疑いを持ってはいけない

自分が至らないだけのことなんだ

と覚鑁さんの『末代真言行者用心』にもある。



仏の世界をマンダラと云う。

道範上人 は、

苦しみは胎蔵マンダラ(慈悲の世界)と云う。



苦しみや悩み、人生の荷物は、

それを経験してきたという実績になり、

それがあるから今の自分がある。



僕にとって、

今日は特別な日だった。


[ 2018/01/05 17:43 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
子どもの将来予測・心、姓、頭脳
本文を読むにはこちらからパスワードを入力してください。

[ 2018/01/09 11:51 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
糖尿病の望診と食事

陰陽研究塾の記事 67   



糖尿病の望診と食事
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/2ma-t_42nvk










[ 2018/01/12 10:14 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
人生の問題と人間の宿命
人生問題の多くは、

あるべきもの、と

あるもの

の違いから起こります。

本来清浄であるのに、現実には汚れている。

努力工夫すれば思いは叶うのに、それをしないから思い通りにならずに苦しむ。

また、

いろいろな不幸不満は、

自他を差別することから生じます。

ですから、

見かた受け取りかたの問題。

これも、

自らの中に原因があります。


悩み不幸になる原因は、生きる中に内在しており、

山中独りぼっちで生きるわけにはいかない限り、

あなたとともに生きています。

それゆえに、

差別区別から生じる悩み煩悩の中に生きている、

と云うのが人間の宿命です。


本来、僕らは、

偉大で清浄な仏であり、善悪以前の存在です。

しかし、

現実は喜怒哀楽の中に沈溺している。

このままで、

自分は本来仏であるなどと、現実を肯定するのは危険です。

何も解決しない。


現実を懺悔反省して、

自分の悪い面を知るのが、

本来の仏に戻るための修行になります。


例えば、

正坐して合掌し、

昨日会った人、便りをもらった人すべてを思い出しながら、

ひとりひとりに対して懺悔します。

本人の前で五体投地しながらが良いのですが、

そんなことは難しいので、心の中で行ないます。

あなたの姿をありありと思い出し、合掌して懺悔文を唱える。


我昔所造諸悪業 (僕が作った悪業は)
がしゃくしょぞうしょあくごう

皆由無始貪瞋癡 (貪りと怒りと無知が原因)
かいゆうむしとんじんち

従身語意之所生 (身体ことば心から生じる)
じゅうしんごいししょしょう

一切我今皆懺悔 (すべてを懺悔します)
いっさいがこんかいさんげ

と。


100人いれば百回唱えて拝む。


こうした無条件の自己批判が、

宿命を乗り越え、

人生問題を解決するひとつの方法です。





[ 2018/01/12 11:00 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
道草 小山駅編
 誕生日プレゼントで、

子どもらからCHROMEのカメラバッグをもらったので、

フィルムカメラ2台と交換レンズを詰めて近くの小山短絡線へ廃線跡探訪。 


上野方面から水戸線へ小山駅を経由せずに通っていた路線で、

小山駅の構内扱い。

直角三角形の斜辺を通ってショートカットする線形。

昔は常磐炭鉱の石炭を積んだ貨物列車や、

上野から水戸線にはいる急行「つくばね」も走っていた。



小山駅手前間々田寄りの分岐点近く。

進入禁止だけれど、道床は残り、

かつて線路があった、鉄道独特のカーブを眺められる。


小山駅では、

新幹線、東北線(宇都宮線)、水戸線、両毛線が接続し、

各ホームに居ればいろいろな車両が楽しめる。

12,13番線上りホームに昔ながらの立ち食いソバのスタンドがある。



 昨今、

立ち食いのくせに本格的な素材を売りにしている店があるけれど、

どうなのだろうか。

お祭りの屋台で売っている焼きそばやタコ焼きは、

そこで立って食うからうまい。

そういう類は、

豚肉もキャベツも麺もタコも、

高級高価でないものを使うのがいい。

外で、立ったままで、安直な器で食べるものは、

うまくないほうがうまいような気がする。

家で、店で、坐って、選ばれた器で、センスと技術がある人が作ったものを食べるのとは、

分際とか分限とかが違う。身の程である。


こだわりとは執著煩悩だから、

誰にも言わず、分からないように隠すものである。

なのに、

こだわりを堂々ともたれると、

こちらが気恥ずかしくなる。




[ 2018/01/16 12:57 | Comments(0) | 道草 ]
仏身円満
自分も他人も、

目の前に見える聞こえる匂うすべてのものは、

空とか縁起以前に、現前に存在しています。

しかし、

僕らはそれを正しく理解していないことが多い。

執著偏見差別無く見たり聞いたりすることで、

それらは実在、真実になります。

そのように、

あるものがある、

と知るのが悟りであり、

そこは、分別を離れ無染無著です。

虚空のように広々しているだけ。


人生でうまくいかないことの多くは、

簡単なことができないから、

ということが多い。

早寝早起きをする、

暴飲暴食をしない、

毎日20分だけ勉強する、練習する

など、難しいことではないのにできない。

同じように、

比べない、こだわらない、あきらめる

というような簡単なことが出来れば、

正しく見たり聞いたりできるようになるでしょう。



工夫努力修行無しで現実肯定してはいけませんが、

心を洞察することで、

現実の問題や自他の存在を正しく知る可能性は高くなります。

僕はあなたと同じように、

草木や動物や石などと同じように、

問題もその解決方法も、

あるが如くにあることが分かります。

山が海が他人が仏であるように自分も仏であり、

それらがあるように自分もあります。


自分や他人の中に、

汚れた醜いものを観ることができますが、

そこに高貴なものを求めることもできます。

すべてが仏である、と。


[ 2018/01/17 12:27 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
子ども達の健やかな心と体の発達に役立つ事、その他
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[ 2018/01/17 17:04 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
小豆と恐怖感

陰陽研究塾の記事 68   



●小豆と恐怖感
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/MHibYagUznc







 


[ 2018/01/20 09:02 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
とは言ふもののお前ではなし
近くにスケートセンターがあることに気がつき、

過日午後、時間が出来たので2時間ほどひたすら滑ってきた。

滑走料750円、貸靴310円也。


仕事の合間に時間ができて、

近くにバッティングセンターがあれば、

左右両打席でひたすら打つ。約100球くらいで、1000円から1500円程度。


2時間、確実に余裕があればボウリング場もいい。

50歳以上はシニア料金もあるけれど、

投げ放題で2000円以内、午前中ならもっと安い。

6ゲームくらいひたすら投げると気分転換にすこぶるよろしい。

1ゲームは約15分くらいである。



ところで、

いっぱいやりましょう

とか

飲みに行きましょう

と言われると、以前は嬉しくて小躍りしたものですが、

最近は何だか面倒くさくて行きたくないことが多い。

それよりも

ボーリングやバッティングセンター やスケートに行きましょう、

と誘われれば、なるべく行きたい。

お酒を飲むより、

一緒に身体を動かして交流するほうが楽しくて気分が良い。

バレーボールでもキャッチボールでもいい。


酒はなるべく、ひとりでこっそりと飲みたい。

飲みたいペースが出来上がっているから、

酌をされると酒がまずくなるような気がする。

それに、

酒を飲むと、普段隠している僕の内面が出てきてしまう。

つまり、

酒を一緒に飲むというのは、裸を見せ合うようなもので、

僕は他人に裸を見せる趣味は無い。


いずれにしても、

ひたすら投げたり打ったり滑ったり、

同じことを淡々と続けることは、

心を調えるにも役立つ。




[ 2018/01/20 10:13 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
白黒つけない

白米3:もち米1の割合で、

洗ったらざるにあげて充分に水を切り、

お米を計ったカップで、正しく同じ分量の水を入れ、

炊飯器なら早炊きモードで炊くと、

おこわのように仕上がります。

もち米は消化が良くないので、

けんちん汁など野菜の多いものを添えます。




それはさておき、

世の中は僕の思いとは関係なく淡々と進んでいるから、

いろいろ思い悩まなくても、


身体の健康に留意し、

心に智慧と慈悲を持つようにすれば、

何があっても適切に対応できます。

そうして初めて、

なるようになる。だから大丈夫。


でも、

世の中には白黒決着がつかない中途半端なことが多くあります。

白黒つけたほうがすっきりするのだけれど、

あいまいでグレーなことや気持ちになることがあり、

それが続いていく状況は耐えきれないことがある。

だから、

子どもなどは、えいやー、と思い切ったことをしてしまう。

我慢できずに攻撃することもある。


グレーな状態を耐え忍ぶことは、心の鍛錬に最もよろしい。

はっきりしない社会や自分の心に耐えられるのが

大人。



[ 2018/01/21 07:59 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
江戸っ子
冷蔵庫に豆板醤が残っていたので、

昨年仕込んだ味噌を混ぜ、

ゆでた野菜に添える。



それはさておき、

過日、池袋演芸場の中席へ。

落語に出てくる江戸っ子は気が短くてちゃきちゃき。

火事とケンカが好きで、おっちょこちょい。

ということはかなり陽性。

江戸前の小さな魚を食べているだから陽性になるのは当然。

「時そば」では、

割り箸、どんぶりをほめた後、

つゆにカツオブシをいっぱい使ってるね。大したもんだ。

とほめる。

江戸では昆布出汁と割らないようで、

魚の出汁は食べ物の中で最も陽性なもののひとつ。

さらに、

麺は細くなくちゃだめだ。うどんのように太いそばは嫌だね

と。

細いのも陽性。

さらに、

金勘定の途中で

今、なんどきだい?

なんて聞くのはかなり陽性な躁状態である。


数年前、

習志野文化会館で小三治の時そばを聴いた。

うなるほどの高座だった。

特にソバをすする音がすばらしい。 

ひと口目の音、

どんぶりが半分になった頃の音

最後の音

みな違って目に浮かぶ。

今回は、

花緑が時そばを演じた 。


トリは小三治

さすが人間国宝で、舞台にいてくれるだけで感動する雰囲気がある。

いつもどおり長いマクラの後、

演目は「粗忽長屋」

粗忽も陽性ですね。


充分に満足して、

妻とソバを食べてから帰宅。



[ 2018/01/21 10:40 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
肝臓と脾臓

陰陽研究塾の記事 69   



●肝臓と脾臓

https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/Jy1y0NWmWr8








[ 2018/01/23 11:08 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
転迷開悟の一方法
次男が福島の中学から栃木の高専へ受験する前日、

関東地方に大雪の警報が出ていた。

僕らは日常だけれど、関東ではたいへんだろうなあ、

念のため一日早く行こう、

と学校に近い祖父母の家に泊まる。

翌々日の試験中、

妻と僕は墓参りに行き、

広い墓地から雪景色を眺めた。

昨夜はその日以来の大雪。



みなさま、気をつけてお過ごしください。



それはさておき、


欲望煩悩はエネルギーだから

それを上手にコントロールできる人は、

成功し健康で大往生できるけれど、

制御できないと暴走し、人に迷惑をかけることがある。

でも、

そのような煩悩から如来は発生している、

と密教では考えています。

それが煩悩即菩提なのだけれど、

貪りや怒りや無知を取り除けば仏になる、

ということではなく、

そのままで努力精進工夫することで、

煩悩を原動力として仏になる、悟り、しあわせになる、

ということ。

好き勝手にすればよいものではない。



さて、

かような迷い、悩み、苦しみ、煩悩の中にいる時、

そこに居続けるとわからないことばかりなので、

一旦外へ出てみる。

すると、

冷静かつ客観的になり、解決策が見つかる。

笑い飛ばすことも、

まあ、いいか、

と思うこともできる。


そのような工夫があります。



[ 2018/01/23 11:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
回向の違和感
以前書いたように 、

修行の第一は自己批判懺悔です。

これがなければ、人はみな本来清浄で仏である、とはいえない。

勉強はしないけれど、やればできるんだと思っているレベル。

実践しないで肯定してはいけない。

その次が自己拡充。

小学校の勉強では飽き足らず、

中学高校大学と学問を進める。

すると、多くのことが深く理解できる。

真実に近づく。

下働きからはじめて一流の仕事ができるように努力精進するのと同じ。

心のレベルも、
 
より高い段階を目指してトレーニングします。

そして、

心とは何かを「実の如く」知ることになり、

自他の迷い苦しみを、悟りと幸せに変えます。



そして最後に回向。

多くの場合、

法要や所作の最後に回向文を唱えます。

「願わくは この功徳をもって、

 普く一切に及ぼし、

 われらと衆生と、皆共に、

 仏道を成ぜん」

これは正しい漢訳ではないようですが、

功徳は自分と他者の悟りへ回向するものです。

この回向文に違和感を感じるのは、

法事や先祖供養などの読経やお布施すること、

お参りすることの功徳が回向される、

と思われているような気がするからです。


子や孫が仲良く楽しく暮し、

元気に成長し、

思いやりとやさしさをもった「善い人」になることが、

親の願いです。僕もそれが何より嬉しい。


同じように

僕らの親や先祖は、

僕らがより良く生きること、懸命に冷静に安全に生きることを喜ぶでしょう。

ただ葬儀法事などの儀式を行うことではない。



自己批判し、

自己の拡充につとめ、

その功徳を回向する。


密教の作法では「至心回向」を念じます。

栂尾先生の『和文経典』では、

「懺悔その他の功徳もて

われとこしえに はげまなん

あらゆるほとけ 菩薩たち

よき友にまもられて

さわりなき世に生まれゆき

きよけきこころ みがかなん

まよいをはなれ 悲智を具し

すくいのわざを 身につけて

仏の家の ひととなり

わが子の身内 たすけなん

あらゆる言葉 さわりなく

不思議の力 限りなし

むかし聖者の よせしごと

それらをともに 回向せん

大悲にもゆる みひかりの

仏を礼し たてまつる」 

[ 2018/01/25 09:41 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
ある日突然
寒行の季節。

日国には、

寒の三十日間、寒さを耐えしのんで行う修行。寒垢離、寒念仏、寒参りなど。

とある。

節分までの行ですね、翌日立春が寒明け。


僕は毎年、この時期に寒行のお札が届くので、寒行ということにしていますが、

やっていることは普段と同じ、ただ寒いだけ。

寒いとロウソクに火がつきにくく、

手がかじかみ、耳が痛い。

でも、

身体のことはすぐに忘れる。

問題は心で、

いつまでも波立っている。


吐息が白く、それが香煙と交わる。

そうして、

息が空気に相応するように、

心が仏に溶けてゆく。



物事の理解や体得には種類があり、

勉強などは、

積み重ねることで少しづつ分かる。

瞑想などの実践的なものは、

長い時間をかけてもほとんど前進せず、

しかし、ある日突然、ポンと分かる。


先日、

あるプロ野球投手にその話をしたら、

僕もそうですよ、

ある日スッと指に感じようになる。

練習を続けていると、急にそういう時がくる、

と云う。


何かがある日突然 現れた時、

ちょっと感動する。




※寒行の祈祷札あります。


※身病心病の望診法、食養法、瞑想法(心のコントロール)については、

ご本人が直接ご連絡ください。

個別にご返事します。





[ 2018/01/26 10:18 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
小鍋だて
「この夜、はじめて私は小鍋だてを見たのだった。

底の浅い小鍋へ出汁を張り、浅蜊と白菜をざっと煮ては、小皿へ取り、柚子をかけて食べる。

小鍋ゆえ、火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまちに熱くなる。

これが小鍋だてのよいところだ。

「小鍋だてはねえ、二種類か、せいぜい三種類。あんまり、ごたごた入れたらどうしようもない」

と、三井さんはいった。

・・・・・

三井さんのは、平たい笊の上へ好きなだけ魚介や野菜を盛り、それを煮ては食べ、食べては煮る。

(いいものだな・・・・・)

つくづく、そうおもった。

・・・・

「こんなものは、若い人がするものじゃあない」

苦笑して、強いてすすめようとはしなかった。

ところが、四十前後になると、私は冬の小鍋だてが、何よりたのしみになってきた。

五十をこえたいまでは、あのころの三井さんのたのしみが、ほんとうにわかるおもいがしている。」

(池波正太郎  『江戸の味を食べたくなって』)



句読点や「てのをは」の使いかた、改行、漢字とひらがなの使い分け、

さすがだなあ、と感じながら読んでいたのだけれど、

何よりも、小鍋だてがうまそうで、

僕はここ数日、ひとりの夜を楽しんでいる。



[ 2018/01/27 10:27 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
どこからどこへ


二階ベランダ上のつらら


それはさておき、

ある寺の境内にあるトイレを掃除したら、

和式トイレの便器後方に汚れが多かった。

ポジションがまちがっている。

最近は和式が少ないから、

予想できないのかもしれない。


小学校6年の修学旅行で、

鎌倉の旅館に泊まり、

生まれて初めて洋式トイレに入った。

うまく出なかったような、すっきりしないような気がした覚えがある。


糞土研究会から機関紙『ノブソフィア』が届いた。
http://nogusophia.com/

人が自然に返せるのはウンコだけ

という思想に共感しているのだけれど、

野糞はあまりしていない。

小さいほうは裏の山ですませるけれど。


いずれにしても、

トイレでした後は水で流して終わり。その先は気にしていない。

ウンコは他の汚水や雨水と一緒に下水を通って処理場へ。

いろいろ処理されて高度処理水として川や海へ。

汚泥は埋立や肥料やコンクリート製剤になる。

野糞をしたほうが、はるかに有意義であることは確かである。


普段、食べているものも、

それがどこからどのようにやってきたのかを、

気にしていない人も多いだろうな。

時々、

山で採り、畑で抜き、海で釣るくらいである。


何処から来て、何処へ行くのかを気にすることは、

いろいろな面で重要である。


20数年前、

人間は(僕は)どこから来て、どこへいくのだろうか、

つまり、

なぜ生まれて、なぜ死ぬのだろうか、

と、埼玉県S寺の住職にたずねたら、

そんなこともわからないのか、

と一喝された。

そして僕に、

「死にかた」を教えてくれた。

震災の前年、

その住職が遷化された。教えてくれた「死にかた」通りで感動した。


『秘蔵宝鑰巻上 』にあるのは、

「心驕れる者は己の総てが正しいと思い、

聖智無き者は正しくものを見ることができない

何度も生まれ変わりながら、何処より生まれ来た自分かを知らず

生まれては必ず死んでいながら、死の意味を知ることができない

おろかなる者は、悪の誘いは気持ちよく心に響いて日毎夜毎に犯し

心を浄め高める道は耳に逆ろうて受け入れようとせず

人を謗り真理を謗って

仏と成る種を焼き切っていることに気がつかない

迷いを断ち切って、別の世界が開けてくるのではない、

心の本質に立ち帰るだけである

霧を透かして光を見たら

そこには七宝ともまがう無尽の光彩があるではないか

(それに気がつかない)人間というものは、

何処より来たかを見ることが出来ず、さてその行く先を知ることのできないものである」







[ 2018/01/28 15:02 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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