苦しみとは思い通りにならないこと、であり 、
その解決方法は、
ものごとの本質を明らかにすること、である。
死ぬことへの恐怖、その先の不安
これは思い通りにならない苦であり、そこから宗教は始まったといってもよい。
しかし、
死からの逃避が人生を空しくしている、
という面もあり、現代人は死を知らない。
人生でモノの豊かさを追求することに喜びを見出していれば、
死は、それができなくなることだから避けたいものになる。
人生の終止符・終着点を避けたいもの、にするのはどうなのだろうか。
お大師さんは、
「吾れ、永く山へ帰らん」と云い、高野山へ入り、後に入定された。
そこに苦としての死は無い。
世間にはいろいろな死がある。
1903年、
一校生藤村操が「巌頭之感」を残して華厳の滝に投身した。
漱石はじめ多くの人がその死に驚き、
黒岩涙香は、少年哲学者と呼んで彼を絶賛した。
美しいとか、荘厳とか、憧れのようにもとらえられた。
映画『ジャック・サマースビー』で、
ジャックは、
周囲の応援者に任せれば裁判で無罪になる可能性が高いにもかかわらず、
自分の信念のために死刑になることを選び、誇りのために死ぬ。
落語『柳田格之進』では、
浪人ではあるが武士の誇りを捨てない実直な柳田が、
盗みの疑いをかけられたとき、
身の潔白を示すために、武士の本心を見せるために腹を切ろうとする。
しかし 、
そんなことをしたら、金を盗んだからそれを償うために腹を切った
と世間に思われる、と娘に言われ、自害を止める。
見かたによって死が変わるのである。
捨身や自己犠牲の死も少なくはない。
また、
意志的な死については『自死の日本史』(モーリス・パンゲ著)に詳しい。
さて、
死罪は昔からあり、今の日本には死刑制度がある。
多くの人がこの制度に賛成し 、
死刑を望む、という声はマスコミからよく聞こえる。
どうしてだろうか。
その解決方法は、
ものごとの本質を明らかにすること、である。
死ぬことへの恐怖、その先の不安
これは思い通りにならない苦であり、そこから宗教は始まったといってもよい。
しかし、
死からの逃避が人生を空しくしている、
という面もあり、現代人は死を知らない。
人生でモノの豊かさを追求することに喜びを見出していれば、
死は、それができなくなることだから避けたいものになる。
人生の終止符・終着点を避けたいもの、にするのはどうなのだろうか。
お大師さんは、
「吾れ、永く山へ帰らん」と云い、高野山へ入り、後に入定された。
そこに苦としての死は無い。
世間にはいろいろな死がある。
1903年、
一校生藤村操が「巌頭之感」を残して華厳の滝に投身した。
漱石はじめ多くの人がその死に驚き、
黒岩涙香は、少年哲学者と呼んで彼を絶賛した。
美しいとか、荘厳とか、憧れのようにもとらえられた。
映画『ジャック・サマースビー』で、
ジャックは、
周囲の応援者に任せれば裁判で無罪になる可能性が高いにもかかわらず、
自分の信念のために死刑になることを選び、誇りのために死ぬ。
落語『柳田格之進』では、
浪人ではあるが武士の誇りを捨てない実直な柳田が、
盗みの疑いをかけられたとき、
身の潔白を示すために、武士の本心を見せるために腹を切ろうとする。
しかし 、
そんなことをしたら、金を盗んだからそれを償うために腹を切った
と世間に思われる、と娘に言われ、自害を止める。
見かたによって死が変わるのである。
捨身や自己犠牲の死も少なくはない。
また、
意志的な死については『自死の日本史』(モーリス・パンゲ著)に詳しい。
さて、
死罪は昔からあり、今の日本には死刑制度がある。
多くの人がこの制度に賛成し 、
死刑を望む、という声はマスコミからよく聞こえる。
どうしてだろうか。
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死にたいと願う者はいないけれども
自分が造った行いによって
おのづと命の限界を
定めているのである
(『教王経開題』)
始めあれば終わりあり 生ある者は死あり
合会は離るることあり 良に以あるかな
(『性霊集』8)
前者は、
日常のありかたが寿命を決めており、
後者は、
人間は死ぬ、と云うことを認識すべき、
ということであろう。
僕らは、
家族を筆頭に、
友達、同郷、同窓などの集団に親しみを強く持つ。
同じ出身地、同じ学校、同じ興味、同じファン、同じ宗派だから特別、
というように。
もし、
同じ人間
という気持ちを持っていれば、みんな特別になるから、
害することも害されることも無くなる。
難しいけれど。
『戒序』には、
一切衆生をみること
なおし自身および四恩(父母、衆生、国王、三宝の恩)のごとし
この故に
あえてその身命を殺害せず
とある。
この、自分に引き比べて考えることを慈悲という。
その慈悲から生まれる優しさは他者の苦しみを抜き、
思いやりは楽を与える。
これも難しいことであるから、
気を抜かず慈悲に関心を持たなければ宗教は成り立たず、自心は解脱できない。
解脱は自心の開放、つまり『自分』とか『特別』という執著から離れた途端、
生死涅槃(迷いと悟り)は無別になり、
心は自在で堅固になる
と『不動字輪観』にある。
自分が造った行いによって
おのづと命の限界を
定めているのである
(『教王経開題』)
始めあれば終わりあり 生ある者は死あり
合会は離るることあり 良に以あるかな
(『性霊集』8)
前者は、
日常のありかたが寿命を決めており、
後者は、
人間は死ぬ、と云うことを認識すべき、
ということであろう。
僕らは、
家族を筆頭に、
友達、同郷、同窓などの集団に親しみを強く持つ。
同じ出身地、同じ学校、同じ興味、同じファン、同じ宗派だから特別、
というように。
もし、
同じ人間
という気持ちを持っていれば、みんな特別になるから、
害することも害されることも無くなる。
難しいけれど。
『戒序』には、
一切衆生をみること
なおし自身および四恩(父母、衆生、国王、三宝の恩)のごとし
この故に
あえてその身命を殺害せず
とある。
この、自分に引き比べて考えることを慈悲という。
その慈悲から生まれる優しさは他者の苦しみを抜き、
思いやりは楽を与える。
これも難しいことであるから、
気を抜かず慈悲に関心を持たなければ宗教は成り立たず、自心は解脱できない。
解脱は自心の開放、つまり『自分』とか『特別』という執著から離れた途端、
生死涅槃(迷いと悟り)は無別になり、
心は自在で堅固になる
と『不動字輪観』にある。
同級生宅でお盆の供養 。
家の西側にグリーンカーテンがあり、ゴーヤがたくさん実っている。
数本所望したら、
どうするの?
と聞かれる。
食べるんだよ、油と相性がいい
と答えたら、
えっ、これ食えるの?
と云う。

素揚げしてニンニク醤油に漬ける。こういうものは新鮮なほどうまい。
拝んでから、居間で昔話に花が咲く。
あの頃は追いはぎがよく出たねえ
そうだね、最近は見ないねえ
なんて。
僕らの世代、
中学時代に流行ったのが、札幌オリンピックとこっくりさん。
高校時代は「俺たちは天使だ」と口裂け女
こっくりさんは女子らが熱しすぎて禁止になった。
口裂け女も本当に信じていたので、出没地域には行かないように伝言がひろまった。
彼女はスーパーカブより速く走り、ポマードの匂いが嫌い
口が裂けたのは、
○○医院で手術を失敗したから、と聞いた。
話していて感じたのは、
僕らの中学生時代は 、外で思いっきり遊んでいた、ということ。
よくやったのは、公園で二人対二人の野球
時には三人対三人にもなる。
ピッチャーと守備が同一チーム。
フライでもゴロでも捕ればアウト。取れなければヒット。
でも、ひとり(もしくは二人)だから内外野を走り回る。
キャッチャーは相手チームがバッターと交代で。
主審はキャッチャーが兼任、四死球もある。
ランナーは仮想で各塁上に置く。
それをちゃんと9回までやる。
その他、
夏休み早朝はラジオ体操の後にキャッチボールをして、
午前中は毎日学校のプール。
もうひとつ、
あの頃はどの学校にも不良がいた。
彼らはタバコを吸い、主な役目は他校とのケンカ。
シンナーのウワサもあったけれど、
運動会や球技大会ではクラスのヒーローになる。
その不良を取り締まる、暴力OKの教師がいた。
不良だけでなく、真面目な僕らも理不尽に殴られた。
でも、
その先生らは僕らと一緒に遊んだ。教室でラグビーをしていると、
急に後ろから押してきて、教室のガラスを割るようなことになるのは先生のせいだった。
そして、
あの不良と手を出す教師がいなくなってから・・・。
ちょっとここには書けない。
今は自家用車に気を使っているけれど、
あの頃は、スピードメーターやウインカーがついている自転車に憧れていた。
家の西側にグリーンカーテンがあり、ゴーヤがたくさん実っている。
数本所望したら、
どうするの?
と聞かれる。
食べるんだよ、油と相性がいい
と答えたら、
えっ、これ食えるの?
と云う。
素揚げしてニンニク醤油に漬ける。こういうものは新鮮なほどうまい。
拝んでから、居間で昔話に花が咲く。
あの頃は追いはぎがよく出たねえ
そうだね、最近は見ないねえ
なんて。
僕らの世代、
中学時代に流行ったのが、札幌オリンピックとこっくりさん。
高校時代は「俺たちは天使だ」と口裂け女
こっくりさんは女子らが熱しすぎて禁止になった。
口裂け女も本当に信じていたので、出没地域には行かないように伝言がひろまった。
彼女はスーパーカブより速く走り、ポマードの匂いが嫌い
口が裂けたのは、
○○医院で手術を失敗したから、と聞いた。
話していて感じたのは、
僕らの中学生時代は 、外で思いっきり遊んでいた、ということ。
よくやったのは、公園で二人対二人の野球
時には三人対三人にもなる。
ピッチャーと守備が同一チーム。
フライでもゴロでも捕ればアウト。取れなければヒット。
でも、ひとり(もしくは二人)だから内外野を走り回る。
キャッチャーは相手チームがバッターと交代で。
主審はキャッチャーが兼任、四死球もある。
ランナーは仮想で各塁上に置く。
それをちゃんと9回までやる。
その他、
夏休み早朝はラジオ体操の後にキャッチボールをして、
午前中は毎日学校のプール。
もうひとつ、
あの頃はどの学校にも不良がいた。
彼らはタバコを吸い、主な役目は他校とのケンカ。
シンナーのウワサもあったけれど、
運動会や球技大会ではクラスのヒーローになる。
その不良を取り締まる、暴力OKの教師がいた。
不良だけでなく、真面目な僕らも理不尽に殴られた。
でも、
その先生らは僕らと一緒に遊んだ。教室でラグビーをしていると、
急に後ろから押してきて、教室のガラスを割るようなことになるのは先生のせいだった。
そして、
あの不良と手を出す教師がいなくなってから・・・。
ちょっとここには書けない。
今は自家用車に気を使っているけれど、
あの頃は、スピードメーターやウインカーがついている自転車に憧れていた。
秘仏は、
信仰上などの理由で非公開、厨子の扉が閉じられたままの仏像。
なぜ、秘仏にするのだろうか。
考えられるのは、
貴重なものだから大切に保存する、ということ。
秘仏は保存状態がよいから、結果的に国宝指定などを受けているものが多い。
それから、
ありがたい、畏れ多い、などの理由で、滅多に見せない。
これは神道的な思想。
人間が見てはいけない、見たら大変なことになる。
そして、
秘密にすると、喜ばれる、尊ばれるという風潮もある。
さらに、
その秘仏を時々「特別」に公開することで、
仏教に親しむきっかけを作れ、興行的にも成功する可能性が高い。
以上、仏教的に意味のあることとは思えない。
当山本尊も秘仏。
寺伝では60年に一度ご開扉とあるけれど、その由来は今のところ不明。
1979年(昭和54)に近隣の札所寺院とともに、ご開帳をしている。
そして、
17年後の1996年(平成8)にも、同じように地域の寺院合同でご開帳。
特に決まりは無いといっていい。
秘仏十一面観音(『飯伊百観音ガイドブックの表紙から)
お前立本尊

寺に伝わる本尊のお札(江戸時代ころ)
そもそも仏像とは何だろうか。
『御請来目録』には、
「密蔵深玄にして翰墨に載せがたし、さらに図画を仮りて悟らざるに開示す」
とある。
教えと云うものは難しく、文章では表せないから、
絵などで目から教える。
仏像は報身といって、
修行を積んだ結果を表現したもの。
だから、それは目標になる。
また、
本尊とは自心の源底にある清浄な種子を、
仏像の形に表現したもの。
密教では、識大、一切智々、本不生際などと云う。
要するに、悟りの、目的地のシンボルですね。
拝む時、
その対象は自分の心の中にいます。
それは大日如来でも観音様でも、ご先祖様でも同じ。
拝んでいるうちに、自分とそれが同体になる。
密教で、本尊の供養法を修法する場合、
拝む人と本尊が溶け合うように、
自分が本尊に入り、本尊が自分に入ることを観想する。
これを、ヨーガとか相応とか入我我入という。
これによって、
自分は思っているよりも、もっと大きなものなんだ、
だから、より良く生きよう、
とするきっかけになる。
なので、
拝む時には厨子の戸を開け、
大切なお客様をお迎えして対座するように、
本尊を見たほうがいい。
求聞持法や阿字観などでは、
拝む時には、本尊を目の前にして交流し、
それ以外は布などをかけて隠すことになっている。
秘仏にしても拝めないことはないけれど、
ちょっとどうなのかなあ、
とかんじている次第。
信仰上などの理由で非公開、厨子の扉が閉じられたままの仏像。
なぜ、秘仏にするのだろうか。
考えられるのは、
貴重なものだから大切に保存する、ということ。
秘仏は保存状態がよいから、結果的に国宝指定などを受けているものが多い。
それから、
ありがたい、畏れ多い、などの理由で、滅多に見せない。
これは神道的な思想。
人間が見てはいけない、見たら大変なことになる。
そして、
秘密にすると、喜ばれる、尊ばれるという風潮もある。
さらに、
その秘仏を時々「特別」に公開することで、
仏教に親しむきっかけを作れ、興行的にも成功する可能性が高い。
以上、仏教的に意味のあることとは思えない。
当山本尊も秘仏。
寺伝では60年に一度ご開扉とあるけれど、その由来は今のところ不明。
1979年(昭和54)に近隣の札所寺院とともに、ご開帳をしている。
そして、
17年後の1996年(平成8)にも、同じように地域の寺院合同でご開帳。
特に決まりは無いといっていい。
秘仏十一面観音(『飯伊百観音ガイドブックの表紙から)
お前立本尊
寺に伝わる本尊のお札(江戸時代ころ)
そもそも仏像とは何だろうか。
『御請来目録』には、
「密蔵深玄にして翰墨に載せがたし、さらに図画を仮りて悟らざるに開示す」
とある。
教えと云うものは難しく、文章では表せないから、
絵などで目から教える。
仏像は報身といって、
修行を積んだ結果を表現したもの。
だから、それは目標になる。
また、
本尊とは自心の源底にある清浄な種子を、
仏像の形に表現したもの。
密教では、識大、一切智々、本不生際などと云う。
要するに、悟りの、目的地のシンボルですね。
拝む時、
その対象は自分の心の中にいます。
それは大日如来でも観音様でも、ご先祖様でも同じ。
拝んでいるうちに、自分とそれが同体になる。
密教で、本尊の供養法を修法する場合、
拝む人と本尊が溶け合うように、
自分が本尊に入り、本尊が自分に入ることを観想する。
これを、ヨーガとか相応とか入我我入という。
これによって、
自分は思っているよりも、もっと大きなものなんだ、
だから、より良く生きよう、
とするきっかけになる。
なので、
拝む時には厨子の戸を開け、
大切なお客様をお迎えして対座するように、
本尊を見たほうがいい。
求聞持法や阿字観などでは、
拝む時には、本尊を目の前にして交流し、
それ以外は布などをかけて隠すことになっている。
秘仏にしても拝めないことはないけれど、
ちょっとどうなのかなあ、
とかんじている次第。
あまりに暑くて蚊がいない、
という話を聞きましたが、
その分、ちょっと涼しい山や家の中には蚊が多い。
そういえば、ハエも見ないかな。
でも、
早朝はアゲハが舞い、夕方にはコオロギが部屋に飛び込んでくる。
ひとつ思い出したのは、
原発事故後のある日、
庭に出てみたら、一切の音が無かった。
広い空と雲があるだけ、シーンとしている。
なぁんにも音がしないねえ、
と子らが言う。
それは一日だけで、翌日からはキジを先頭に鳥が鳴きだし、
虫も出てきた。
春になれば、いつもどおり蝶が舞い、ウグイス、カッコウ、キビタキもさえずる。
あの年は農作が制限されて農薬が散布されなかったためか、
いつもは見ないタテハやシジミチョウも増えて、虫の種類が多かった。
人間より環境に敏感な奴らが活発なのだから大丈夫だろう、
と思った。

お盆の用事で、信州飯田に来ています。
当地は標高400メートルあるけれど、やはり暑い。
でも、都会とは違う暑さかな。
※新しいブログ「阿吽・精進料理散策」 もどうぞご覧ください。
という話を聞きましたが、
その分、ちょっと涼しい山や家の中には蚊が多い。
そういえば、ハエも見ないかな。
でも、
早朝はアゲハが舞い、夕方にはコオロギが部屋に飛び込んでくる。
ひとつ思い出したのは、
原発事故後のある日、
庭に出てみたら、一切の音が無かった。
広い空と雲があるだけ、シーンとしている。
なぁんにも音がしないねえ、
と子らが言う。
それは一日だけで、翌日からはキジを先頭に鳥が鳴きだし、
虫も出てきた。
春になれば、いつもどおり蝶が舞い、ウグイス、カッコウ、キビタキもさえずる。
あの年は農作が制限されて農薬が散布されなかったためか、
いつもは見ないタテハやシジミチョウも増えて、虫の種類が多かった。
人間より環境に敏感な奴らが活発なのだから大丈夫だろう、
と思った。
お盆の用事で、信州飯田に来ています。
当地は標高400メートルあるけれど、やはり暑い。
でも、都会とは違う暑さかな。
※新しいブログ「阿吽・精進料理散策」 もどうぞご覧ください。
長男は助産院で 、
次男はお産婆さんを呼んで自宅出産だった。
ここ数年は、
助産師さんと望診や食養の勉強会をしているので、
その方面には心安く感じている。
寺の近くに「よしみ所産院」 がある。
http:// iimachi .net/ms /50821/
先日ちょっとお会いし、
人口10万人の飯田市には5軒の助産院があると教えてもらった。
なんだか、うれしい。
子は成長して大人になる。
その間、親も同じ時間を過ごしているのだけれど、
成長しているようには思えないこともある。
退化、衰退、弱化などの影響が増しているからかしら。
まあ、それはそれで、おもしろいものなのだけれど。
いまだに成長しているとしたら、ちょっと気味が悪いような気もする。
次男はお産婆さんを呼んで自宅出産だった。
ここ数年は、
助産師さんと望診や食養の勉強会をしているので、
その方面には心安く感じている。
寺の近くに「よしみ所産院」 がある。
http://
先日ちょっとお会いし、
人口10万人の飯田市には5軒の助産院があると教えてもらった。
なんだか、うれしい。
子は成長して大人になる。
その間、親も同じ時間を過ごしているのだけれど、
成長しているようには思えないこともある。
退化、衰退、弱化などの影響が増しているからかしら。
まあ、それはそれで、おもしろいものなのだけれど。
いまだに成長しているとしたら、ちょっと気味が悪いような気もする。
枝豆を収穫しないでそのまま育てれば大豆になる。
枝豆は若者、大豆は熟年。
同じように、
グリンピースがウグイス豆になる。
グリンピースなどのインゲン豆は、メンデルの法則で有名。
高校の生物で習った時、
どうしてあんなに都合良く遺伝するのか、と不信感を持った。
僕は、遺伝を疑っている。
「氏より育ち」という言葉があるように、
育つ環境によって変わる可能性のほうがはるかに高いと思う。
同じ環境で同じものを食べていれば同じ心身になるだろうけれど、
そうでなければそうでない。
勉強する、練習する用意があるのと無いのとでも全く変わる。
妊娠期間が冬か夏かで、生まれてくる子どもの体質思考は変わる。
夏は身体を冷やすもの、冬は温めるものを多く食べるだろうから。
食べ物が違えば、それで作られた血が流れる脳も違う。
身体も脳も、細胞はどんどん入れ替わる。
人体の内外に永遠不滅なもの、常住なものは無い。
諸行無常であるから、
遺伝するような実体は無いはずである。
親子は通常、同じ性である。
だから、
姓で呼ばれる場合、同じ画数の影響が現れる。
でも、
名前やあだ名で呼ばれれば変わり、
結婚などで性が変われば、また変わる。
最近は若い頃と比べて、体力も記憶力も衰えていることを自覚している。
そして、
父や祖父のことを思い出すと、
今の僕のような状況があったのだろうか、無かったのだろうか、
と考えてみる。
どこかに遺伝があるのだろうか。
枝豆は若者、大豆は熟年。
同じように、
グリンピースがウグイス豆になる。
グリンピースなどのインゲン豆は、メンデルの法則で有名。
高校の生物で習った時、
どうしてあんなに都合良く遺伝するのか、と不信感を持った。
僕は、遺伝を疑っている。
「氏より育ち」という言葉があるように、
育つ環境によって変わる可能性のほうがはるかに高いと思う。
同じ環境で同じものを食べていれば同じ心身になるだろうけれど、
そうでなければそうでない。
勉強する、練習する用意があるのと無いのとでも全く変わる。
妊娠期間が冬か夏かで、生まれてくる子どもの体質思考は変わる。
夏は身体を冷やすもの、冬は温めるものを多く食べるだろうから。
食べ物が違えば、それで作られた血が流れる脳も違う。
身体も脳も、細胞はどんどん入れ替わる。
人体の内外に永遠不滅なもの、常住なものは無い。
諸行無常であるから、
遺伝するような実体は無いはずである。
親子は通常、同じ性である。
だから、
姓で呼ばれる場合、同じ画数の影響が現れる。
でも、
名前やあだ名で呼ばれれば変わり、
結婚などで性が変われば、また変わる。
最近は若い頃と比べて、体力も記憶力も衰えていることを自覚している。
そして、
父や祖父のことを思い出すと、
今の僕のような状況があったのだろうか、無かったのだろうか、
と考えてみる。
どこかに遺伝があるのだろうか。
息子ふたりと鳴門へきています。
毎年恒例、お盆のお手伝い。
お昼はうどん屋へ行く。
ひいきの店が二件あり、
僕は毎日「冷たい醤油の大」
実は、
二か月くらい前から身体を絞って、随分と体重が減った。
すると、
こちらのみなさんから、
あんた、やせたねえ、具合悪いんか?
と聞かれる。
自分では、スマートでカッコよくなったと思っていたのに、
この歳で痩せると誤解を生むらしい。
僕も歳をとったけれど、相手も同じである。
そんな中、体が枯れても、言葉遣いや立ち居振る舞いが美しい人がいる。
こんなふうに歳をとりたい、と思える人がいる。
年齢を経ているのに、見た目が異様に若く、年寄りに見えないのは不自然であり、
気持ちが悪い。
妖怪じゃないのだから、歳をとったら身体と欲は枯れたほうが気持ちいい。
とにかく僕は、
毎日たくさんうどんを食べて、太ろうとしている。
でも、
うどんは白いから、カロリーゼロかもしれない。
毎年恒例、お盆のお手伝い。
お昼はうどん屋へ行く。
ひいきの店が二件あり、
僕は毎日「冷たい醤油の大」
実は、
二か月くらい前から身体を絞って、随分と体重が減った。
すると、
こちらのみなさんから、
あんた、やせたねえ、具合悪いんか?
と聞かれる。
自分では、スマートでカッコよくなったと思っていたのに、
この歳で痩せると誤解を生むらしい。
僕も歳をとったけれど、相手も同じである。
そんな中、体が枯れても、言葉遣いや立ち居振る舞いが美しい人がいる。
こんなふうに歳をとりたい、と思える人がいる。
年齢を経ているのに、見た目が異様に若く、年寄りに見えないのは不自然であり、
気持ちが悪い。
妖怪じゃないのだから、歳をとったら身体と欲は枯れたほうが気持ちいい。
とにかく僕は、
毎日たくさんうどんを食べて、太ろうとしている。
でも、
うどんは白いから、カロリーゼロかもしれない。
落語『錦木検校』では、
老中筆頭、酒井雅楽頭の次男・角三郎と、
按摩・錦木との交流が美しくも悲しい。
このふたり、
身分も住む世界も違うけれど、仲良くなるのは同じ数を持っているからである。
そして、
錦木の画数20があるために、
悲しい別れが訪れる。
病人、迷っている人、悩んでいる人、不如意の人には、
名前の中に9か10の画数を持つことが多い。
それゆえに、
医者、宗教者、教育者の多くも、9、10の画数を持つ。
名前よりも、食べ物や環境のほうが影響するけれど、
類は友を呼ぶ。
仲の良い兄弟を見た人が、
ウチとは違うなあ、ボクは兄と合わない、
と言う。
実は、
角三郎と父親の酒井雅楽頭も「合わない」。
この兄弟には、同じ数が姓を除いても、ふたつある。
そして、
分かれ仲違いを表す0が無い。
だから、仲良し。
どういう名前にするか、
を考える一例である。
老中筆頭、酒井雅楽頭の次男・角三郎と、
按摩・錦木との交流が美しくも悲しい。
このふたり、
身分も住む世界も違うけれど、仲良くなるのは同じ数を持っているからである。
そして、
錦木の画数20があるために、
悲しい別れが訪れる。
病人、迷っている人、悩んでいる人、不如意の人には、
名前の中に9か10の画数を持つことが多い。
それゆえに、
医者、宗教者、教育者の多くも、9、10の画数を持つ。
名前よりも、食べ物や環境のほうが影響するけれど、
類は友を呼ぶ。
仲の良い兄弟を見た人が、
ウチとは違うなあ、ボクは兄と合わない、
と言う。
実は、
角三郎と父親の酒井雅楽頭も「合わない」。
この兄弟には、同じ数が姓を除いても、ふたつある。
そして、
分かれ仲違いを表す0が無い。
だから、仲良し。
どういう名前にするか、
を考える一例である。
『アエラ』最新号の特集は、
「新しい弔いと供養
ルポ:お墓はなくても大丈夫」
死、死後、遺族、葬儀、火葬、遺骨、埋葬、
仏教、寺、僧侶、先祖供養、ビジネス、
などがいろいろと絡み合っている。
どんな宗教も死に関わるだろうけれど、
なぜ、仏教は、寺は、僧侶は、
葬儀を行い、故人の供養をするのだろうか。
仏教に「霊や故人を弔う」などという思想があるのだろうか。
人は死後、どうなるのだろうか。
想像して自分流に解釈するのではなく、
事実はどうなのだろうか。
仏教の葬儀では引導作法を修し、
多くの先祖供養では経を唱える。
そこには何が書かれ、どういう意味があり、
なぜ修法し、どうしてそれを唱えるのだろうか。
なぜ、今までそれが伝えられてきたのだろうか。
それは、
仏教の、僧侶でないと、できないことなのだろうか。
生死とは迷いのシンボル、
それは即ち、涅槃(心の寂静)であり、
修行し菩提を得た先に、涅槃(自他の救い)がある、
と仏教では説かれている。
「新しい弔いと供養
ルポ:お墓はなくても大丈夫」
死、死後、遺族、葬儀、火葬、遺骨、埋葬、
仏教、寺、僧侶、先祖供養、ビジネス、
などがいろいろと絡み合っている。
どんな宗教も死に関わるだろうけれど、
なぜ、仏教は、寺は、僧侶は、
葬儀を行い、故人の供養をするのだろうか。
仏教に「霊や故人を弔う」などという思想があるのだろうか。
人は死後、どうなるのだろうか。
想像して自分流に解釈するのではなく、
事実はどうなのだろうか。
仏教の葬儀では引導作法を修し、
多くの先祖供養では経を唱える。
そこには何が書かれ、どういう意味があり、
なぜ修法し、どうしてそれを唱えるのだろうか。
なぜ、今までそれが伝えられてきたのだろうか。
それは、
仏教の、僧侶でないと、できないことなのだろうか。
生死とは迷いのシンボル、
それは即ち、涅槃(心の寂静)であり、
修行し菩提を得た先に、涅槃(自他の救い)がある、
と仏教では説かれている。
『THE BIG ISSUE』 340号(2018.8.1)に、
雨宮処凛がオウムについて書いているのが興味深い。
人はある時期、生きる目的を探す。
僕も若いころ、
なぜ生まれてきたのか、
何のために生きるのか、
「僕」が僕である理由は何か、
を探した。
もし、
誰かがその答えを教えてくれたらどうだろうか。
楽になり、幸せな気持ちになるだろうか。
たぶん、そうはならない。
大切なのは、疑問を持つことである。
本当だろうか、
なぜだろうか、と。
その答えに、論理的矛盾はないだろうか、と。
意見や感想では答えにならないのだから。
真言宗で大切にしているものに『十巻章』がある。
弘法大師の著作と『菩提心論』の十。
難しい文章もあるけれど、百回くらい読めば僕でも少しは分かる。
実践的なこともかかれているから、それを試してみる。
そうすれば、答えが見つかるかもしれない。
もし、
あの人のように生きたい、
と思っても、その人の言動は本当だろうか、と疑い、
確認して勉強し実践しなければ、
自分の生きかたにはならない。
生きるも目的も幸せも、
これだ、という方法は無い。当たり前である。
その定義もないし、人によってさまざまであるから。
人生は自分で工夫して歩かなければ、
目的地にたどり着けない。
雨宮処凛がオウムについて書いているのが興味深い。
人はある時期、生きる目的を探す。
僕も若いころ、
なぜ生まれてきたのか、
何のために生きるのか、
「僕」が僕である理由は何か、
を探した。
もし、
誰かがその答えを教えてくれたらどうだろうか。
楽になり、幸せな気持ちになるだろうか。
たぶん、そうはならない。
大切なのは、疑問を持つことである。
本当だろうか、
なぜだろうか、と。
その答えに、論理的矛盾はないだろうか、と。
意見や感想では答えにならないのだから。
真言宗で大切にしているものに『十巻章』がある。
弘法大師の著作と『菩提心論』の十。
難しい文章もあるけれど、百回くらい読めば僕でも少しは分かる。
実践的なこともかかれているから、それを試してみる。
そうすれば、答えが見つかるかもしれない。
もし、
あの人のように生きたい、
と思っても、その人の言動は本当だろうか、と疑い、
確認して勉強し実践しなければ、
自分の生きかたにはならない。
生きるも目的も幸せも、
これだ、という方法は無い。当たり前である。
その定義もないし、人によってさまざまであるから。
人生は自分で工夫して歩かなければ、
目的地にたどり着けない。
ひと月ほど前の猛暑日、
蔵書の多い市川中央図書館へ行く。
図書館は涼しい、快適である。
その帰路、
小岩駅近くの新金線・新中川鉄橋へ寄る。
鉄橋脇のコインパーキングに車を停め、橋を渡って堤防を歩く。
この暑い日中に、中学生からおじいさんまで、
10人ほどがカメラを抱えて列車を待っている。

暑いねえ、
と、人が来るたびにあいさつする。
言っても言わなくても気温は変わらない。
河原では、
バトミントンの羽根をゴルフクラブで打つスポーツをしている。なかなか楽しそう。
時折、川面からの風が吹いて気持ちがいい。

この新金線は、
総武線の小岩と常磐線金町を結ぶ貨物線で、
マニアには名高い。
東京圏は南北を結ぶ鉄道網が発達していないから、貴重な線である。
LRTなどの旅客化も噂されているけれど、どうなのだろうか。
貨物線は、乗れない線だから憧れがある。
乗って走ってみたい、どんな景色が見られるのだろうか。
蔵書の多い市川中央図書館へ行く。
図書館は涼しい、快適である。
その帰路、
小岩駅近くの新金線・新中川鉄橋へ寄る。
鉄橋脇のコインパーキングに車を停め、橋を渡って堤防を歩く。
この暑い日中に、中学生からおじいさんまで、
10人ほどがカメラを抱えて列車を待っている。
暑いねえ、
と、人が来るたびにあいさつする。
言っても言わなくても気温は変わらない。
河原では、
バトミントンの羽根をゴルフクラブで打つスポーツをしている。なかなか楽しそう。
時折、川面からの風が吹いて気持ちがいい。
この新金線は、
総武線の小岩と常磐線金町を結ぶ貨物線で、
マニアには名高い。
東京圏は南北を結ぶ鉄道網が発達していないから、貴重な線である。
LRTなどの旅客化も噂されているけれど、どうなのだろうか。
貨物線は、乗れない線だから憧れがある。
乗って走ってみたい、どんな景色が見られるのだろうか。
落語「柳田の堪忍袋」は、
「柳田格之進」のタイトルでも演じられる噺ですが、講談に起源があるみたい。
僕はこの噺を最初、志ん朝で聴いた。
柳田は実直真面目で嘘をついたことが無い。
しかし、その正直さが疎んじられて浪人となる。
その生活の中で、盗みの濡れ衣をかけられ、
柳田と娘は堪忍袋を抱え、耐え忍んで生きる。
疑いが晴れるまで、そして晴れた後、
柳田親娘はどうするのか。
ところで、
名人志ん生の長男が馬生、次男が志ん朝である。
僕は志ん朝のキレとスピード感ある語り口が好き。
華やかさと色気と潔さがある。
対して、兄の馬生は、まじめ一筋。
このふたりが演じた『柳田格之進」を聞くと違いがよくわかる。
志ん朝のそれは噺の筋が通らないけれど、
ハッピーエンドにして、聞いて楽しいものにしている。
馬生の噺は、道理的で悲運のまま、ばっさりと終わらせる。
堪忍袋は、
辛抱に辛抱を重ねた結果、緒が切れる。
だから、これは大人の感情である。子どもは辛抱を重ねない 。
子らがキレルのは瞬間だから、
堪忍袋の緒が切れているのではない。
つまり、
キレルのは子どもであり、大人ではない。
いい歳をしてキレルのは、中身が子どもなのであろう。
そして、
修行修養修練によって、
緒が切れない堪忍袋をもてるようになる。
その時、
堪忍が完成し、微笑と慈悲にあふれた人格になるのだろう。
「柳田格之進」のタイトルでも演じられる噺ですが、講談に起源があるみたい。
僕はこの噺を最初、志ん朝で聴いた。
柳田は実直真面目で嘘をついたことが無い。
しかし、その正直さが疎んじられて浪人となる。
その生活の中で、盗みの濡れ衣をかけられ、
柳田と娘は堪忍袋を抱え、耐え忍んで生きる。
疑いが晴れるまで、そして晴れた後、
柳田親娘はどうするのか。
ところで、
名人志ん生の長男が馬生、次男が志ん朝である。
僕は志ん朝のキレとスピード感ある語り口が好き。
華やかさと色気と潔さがある。
対して、兄の馬生は、まじめ一筋。
このふたりが演じた『柳田格之進」を聞くと違いがよくわかる。
志ん朝のそれは噺の筋が通らないけれど、
ハッピーエンドにして、聞いて楽しいものにしている。
馬生の噺は、道理的で悲運のまま、ばっさりと終わらせる。
堪忍袋は、
辛抱に辛抱を重ねた結果、緒が切れる。
だから、これは大人の感情である。子どもは辛抱を重ねない 。
子らがキレルのは瞬間だから、
堪忍袋の緒が切れているのではない。
つまり、
キレルのは子どもであり、大人ではない。
いい歳をしてキレルのは、中身が子どもなのであろう。
そして、
修行修養修練によって、
緒が切れない堪忍袋をもてるようになる。
その時、
堪忍が完成し、微笑と慈悲にあふれた人格になるのだろう。
我が子がどんな人間であるかは、
親ならば大体のことがわかりそうなものだけれど、
気がつかないことも多い。
子に限らず、恋人連れ合い親友など、心安く感じている人には、
いろいろな思いがある。
その人は、本来素晴らしいけれど、いろいろな垢がついて素行の悪いこともある。
しかし元々は清浄である。
そして、どのような時でも、
皆同じで平等、僕とも誰とも平等。
不可得空の宇宙は目の前に広がり
宇宙があるように、私もある。
私の中にはその宇宙があり、
私はそれを赤くするのも青くするも可能である。
煩悩だらけの人間が、他を救おうと心から拝んでも、
その思いが自分流の衆生救済であるべき、
という自己本位的なものでは、ほぼ役に立たない。
自分の思いが衆生の思いであると、勘違いしてしまう危険があるから。
何をやっても本尊さんは認めてくれる、
などと思ってしまう傾向も困る。
拝むのは、
うまくいくことがあればそうでもない、ただ漫然と時間が過ぎることも多い。
それが無駄な時間のようでもあり、
心が熟成する時間でもある。
その時は、
ああ、そうか、
と気がつく。
『秘蔵記』17には、
種子を大地に蒔き、
水土の縁によって発芽する
陽の勢いによって茎葉が育ち
解脱の風を待って具足し生長する
虚空のようにみなすべて堅実ならば
なんで物が生じないことがあろうか、いや生じる
とある。
これは、
凡人が大日如来になる過程と同じ。
親ならば大体のことがわかりそうなものだけれど、
気がつかないことも多い。
子に限らず、恋人連れ合い親友など、心安く感じている人には、
いろいろな思いがある。
その人は、本来素晴らしいけれど、いろいろな垢がついて素行の悪いこともある。
しかし元々は清浄である。
そして、どのような時でも、
皆同じで平等、僕とも誰とも平等。
不可得空の宇宙は目の前に広がり
宇宙があるように、私もある。
私の中にはその宇宙があり、
私はそれを赤くするのも青くするも可能である。
煩悩だらけの人間が、他を救おうと心から拝んでも、
その思いが自分流の衆生救済であるべき、
という自己本位的なものでは、ほぼ役に立たない。
自分の思いが衆生の思いであると、勘違いしてしまう危険があるから。
何をやっても本尊さんは認めてくれる、
などと思ってしまう傾向も困る。
拝むのは、
うまくいくことがあればそうでもない、ただ漫然と時間が過ぎることも多い。
それが無駄な時間のようでもあり、
心が熟成する時間でもある。
その時は、
ああ、そうか、
と気がつく。
『秘蔵記』17には、
種子を大地に蒔き、
水土の縁によって発芽する
陽の勢いによって茎葉が育ち
解脱の風を待って具足し生長する
虚空のようにみなすべて堅実ならば
なんで物が生じないことがあろうか、いや生じる
とある。
これは、
凡人が大日如来になる過程と同じ。
暑い日が続いているから、ちょっと辛めに煮つけましょう、
湿気が多いから、気持ちだけ酸味をきかせよう、
などという暮らしの智恵があるかどうかで、
身辺は変わるのだろうな、と歩きながら思う。
妻が買い物をしている間、
僕は落書きを収集。
もう半年以上前のこと、
家族と待ち合わせまで1時間の余裕。
となれば、
やはり落書き収集ですね。
恵比寿の町も、縦横に歩けば、たくさん見つかる。








人はなぜ、落書きをするのだろうか。
僕はなぜ、それを集めるのだろうか。
家族と待ち合わせまで1時間の余裕。
となれば、
やはり落書き収集ですね。
恵比寿の町も、縦横に歩けば、たくさん見つかる。
人はなぜ、落書きをするのだろうか。
僕はなぜ、それを集めるのだろうか。
本尊を拝むことを供養という。
供養とは、
浅略では、尊敬することであり、
深趣は、菩提心(自性清浄心)を忘れないこと。
その供養の方法には、念誦法と護摩法がある。
念誦は真言陀羅尼を唱え、護摩は火を焚く。
それぞれの本尊によって作法がある。
お不動さんなら不動法、観音さまなら観音法、お地蔵さんなら地蔵法など、
すべての尊に次第がある。
日本の真言宗寺院には、本堂や大師堂に弘法大師が本尊としておまつりされており、
弘法大師その人を供養する。
そのために編纂された「大師法」は少し毛色が違う。
密教の作法では、
我即大日
我即法界(宇宙)
を観想し、
われも何もかもは、悟りの象徴であり、それ自体である、
と自己を確認しようとする。
だから、
お不動さんを拝む時、われは不動であり、
観音さまを拝む時、自分は観音様になる。
どこか遠いところに観音さまがいるのではなく、
自分の中に在ることを認識する。
お大師さんは、
高野山奥の院に入定し、
弥勒菩薩とともに修行して、
常に我らへ手を伸ばし、
救いにきてくれる、
と云うのが大師信仰である。
つまり、
弥勒菩薩が本地で、お大師さんが垂迹である、と考えられる。
だから、
お大師さんは、お遍路さんひとりひとりと「同行二人」できる。
高野山奥の院に参籠する場合、弥勒法を修法する。
これは、
お大師さんの誓願に関わるものであり、
弥勒法の秘讃にもかなう。
「奥の院の参籠で大師法とは、余りにも直裁過ぎて疑問である」
と村上先生は『密教と現代』に書かれている。
僕などは、
我即大日を拝むことはできるけれど、
実在した温かみあふれるお大師さんに対して、
我即弘法
とは、生々しくて拝みにくい。
お大師さんを本尊とするときは、
大師法より、弥勒法や、大日を拝む理趣経法が心安いと感じる。
お大師さんは遍照金剛(大日)であるから。
大師法の特徴は、
日本で生まれたものであり、
諸尊法のように、印や真言が経典儀軌で規定されていないことである。
大師法の内容は、
先徳先人が経験の中から創作されたものなので、
今でも種類が多い。
だからか、
宥快さんの『宝鏡鈔』などには、
正当なものでは無いというような記述があるし、
古くからの伝授目録にはない 。
「垂迹としての大師がさらに格上げされて、諸佛菩薩と同格視され、いわゆる大師法があらわれた 」
と『弘法大師法考(1)』(高見寛恭)にある。
諸尊法は密教作法であり、
大師法は真言宗の作法なのであろう。
いずれにしても、即身成仏を目指して三密行をするのであれば、どんな作法でも構わない 。
「冒地の得がたきに在らず、この法に遇うことの易からざるなり」
(悟りが得がたいのではない、その教えに出会うことが難しいのである)
「一尊一契は証道の経路、一字一句は入仏の父母なるものなり」
(どの仏の印も悟りの経路であり、その言葉は成道の基本である)
(共に性霊集)
供養とは、
浅略では、尊敬することであり、
深趣は、菩提心(自性清浄心)を忘れないこと。
その供養の方法には、念誦法と護摩法がある。
念誦は真言陀羅尼を唱え、護摩は火を焚く。
それぞれの本尊によって作法がある。
お不動さんなら不動法、観音さまなら観音法、お地蔵さんなら地蔵法など、
すべての尊に次第がある。
日本の真言宗寺院には、本堂や大師堂に弘法大師が本尊としておまつりされており、
弘法大師その人を供養する。
そのために編纂された「大師法」は少し毛色が違う。
密教の作法では、
我即大日
我即法界(宇宙)
を観想し、
われも何もかもは、悟りの象徴であり、それ自体である、
と自己を確認しようとする。
だから、
お不動さんを拝む時、われは不動であり、
観音さまを拝む時、自分は観音様になる。
どこか遠いところに観音さまがいるのではなく、
自分の中に在ることを認識する。
お大師さんは、
高野山奥の院に入定し、
弥勒菩薩とともに修行して、
常に我らへ手を伸ばし、
救いにきてくれる、
と云うのが大師信仰である。
つまり、
弥勒菩薩が本地で、お大師さんが垂迹である、と考えられる。
だから、
お大師さんは、お遍路さんひとりひとりと「同行二人」できる。
高野山奥の院に参籠する場合、弥勒法を修法する。
これは、
お大師さんの誓願に関わるものであり、
弥勒法の秘讃にもかなう。
「奥の院の参籠で大師法とは、余りにも直裁過ぎて疑問である」
と村上先生は『密教と現代』に書かれている。
僕などは、
我即大日を拝むことはできるけれど、
実在した温かみあふれるお大師さんに対して、
我即弘法
とは、生々しくて拝みにくい。
お大師さんを本尊とするときは、
大師法より、弥勒法や、大日を拝む理趣経法が心安いと感じる。
お大師さんは遍照金剛(大日)であるから。
大師法の特徴は、
日本で生まれたものであり、
諸尊法のように、印や真言が経典儀軌で規定されていないことである。
大師法の内容は、
先徳先人が経験の中から創作されたものなので、
今でも種類が多い。
だからか、
宥快さんの『宝鏡鈔』などには、
正当なものでは無いというような記述があるし、
古くからの伝授目録にはない 。
「垂迹としての大師がさらに格上げされて、諸佛菩薩と同格視され、いわゆる大師法があらわれた 」
と『弘法大師法考(1)』(高見寛恭)にある。
諸尊法は密教作法であり、
大師法は真言宗の作法なのであろう。
いずれにしても、即身成仏を目指して三密行をするのであれば、どんな作法でも構わない 。
「冒地の得がたきに在らず、この法に遇うことの易からざるなり」
(悟りが得がたいのではない、その教えに出会うことが難しいのである)
「一尊一契は証道の経路、一字一句は入仏の父母なるものなり」
(どの仏の印も悟りの経路であり、その言葉は成道の基本である)
(共に性霊集)