震災原発事故での被災後
昨年体調不良が戻った後、
そういうときの食事は、何か特別だったような気がします。
普段は、
旬のものを楽しく食べるのがよろしいと思っていますが、
基本的に、
家族揃って食べるものは何でもうまい。
食時作法に正食偈(しょうじきげ)があります。
「若飯食時 当願衆生 禅悦為食 法喜充満」
(にゃくぼんじきじ とうがんしゅじょう ぜんねついじき ほうきじゅうまん)
食事をいただく時は、
衆生と共に、
禅定(心をしずめる)の悦びを食とし、
真理による歓喜の心が充満しますように
という意味。
この「正食」は、
正(まさ)に食する、
ということ。
また、
五正食というものがあります。
その内容は経典によって違いますが、
飯、麦豆飯、麨(はったい粉)、肉、餅 (『寄帰伝』)
飯、麨、糒(ほしい)、魚、肉 (『十誦律』)
粳米飯、穄米飯(きび)、粟米飯、赤粳米飯、麦飯 (『善見律』)
飯、麨、乾飯、魚、肉 (『四分律』)
などとあり、
正食とは主食のこと。
穀物以外に肉魚があるのは、その地方の特長でしょう。
『集異門足論』第二には、
考え無しに食べ、食べねば力が出ぬと食べ、おごりたかぶる心を起こすために食べ、
顔色を良くし、皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、
世間の人に見目良しと云われたいために食べるのは、
食の意味も分からず、ただ食べるだけという愚かな食べかたである。
この身を保ち、飢渇を取り除き、
節食の苦しみを断ち、
飽食による苦しみを起こさず、
身体を衰えないように、心に余計な執著を受けないために、
行動に差しさわりがないように、
修行に必要な限度に食事を取る、
これが、食を知ること、と書かれています。
中川善教先生の『有情食』には、
正しい食によって心が正しくなり、
食は有情(衆生)を存立せしむる根元であるから、
これを捨てることは生きる義務を有する人間に許されることではない。
節度ある人間として、殊に信施に生きる沙門として、
食を受けるにあたって、慇懃なる慎みを以って対せねばならぬ。
まことにあらゆる執著より離脱することをその要諦とする仏教は、
我執を離れたる生活をその目的とし、
教の立前として無我の心地の上に生活することを要請する。
その観点に立つ時、
現身を保持し、生きるために欠くことのできぬものとは云いながら、
食に執著し食に溺れることは、輪廻の根元となるであろうし、
真の人間形成の上にも害多きことである。
人は食に馴れ食の意義を軽く見過ぎていないか。
人の生命を司るものは食であるが、人を作るのも食である。
須らくは人は食に敬虔なる感謝を致し、常に正食を摂ることを心すべきである。
とあります。
という人がいるように、
仏教の僧侶だけれど、お葬式や先祖供養もできます、
という人は多い。
それはさておき、
お寺の仏教と、
個人の仏教には違う点がいくつかあります。
以下、筆者の個人的見解、例外多数。
寺院仏教 | 個人仏教 |
唱えるもの | 経典とは | 内容を理解して実践するもの |
言葉で説明する | 真理とは | 修行で確認する |
仕事 | 仏事とは | 生きかた |
想像するもの | 成仏とは | 現実に目指すもの |
有相 | 修行方法 | 無相 |
他者 | 利益 | 自分 |
無いに等しい | 戒律 | 保つ工夫をする |
読経 | 勤行 | 禅定 |
言葉 | 仏教の理解方法 | 三摩地 |
法人、伽藍の維持 文化財の保護 檀信徒、地域への貢献 儀式、文化、風習の伝承 | 特徴 | 個人的な体験 |
プロティヌスの発出論と云うものを知りました。
それによると、
1、神が、
2、精神 理性
3、霊魂
4、自然
5、物質
を産出するらしい。
神は常住で自律した絶対者、
そこから下位のものが生まれる。
絶対、というのは論理的にも現実的にもありえないですから、
この神というのは、
経験が論理より上なのでしょう。
『十住心論』では、
食欲と性欲のみの心から、
他への施しをする心になり、
倫理道徳を知り、
善業を積んで天界へ生まれたいと願う宗教心が生まれ、
自我から無我の仏教へ、
さらに空や縁起を体得し、
宇宙大の智慧と慈悲を知る心まで、
次第に上昇する心が説かれています。
これは、
劣っている下位から、勝れた上位へ向かうとも云えますが、
平等に見れば、
総てが大日如来の現れ、真理の一面。
観法・瞑想でも、
雑念妄想(これがおそらく下位のもの)を排除する方法と、
雑念妄想があるまま、そこに真如を観じるものがあります。
今、そのもの、そのまま、の中に、仏を見る。
それが、
凡聖不二、我即法界、我即大日という密教の立場です。
地獄も極楽も何もかも、
法身・大日如来の顕現と考えます。
『秘蔵記』には、
日月と光明のように、
仏を離れずして衆生あり
衆生を離れずして仏あり
かくの如く融入して相離せず
とあります。
システムエンジニアをしていました。
担当していたのは、大型汎用機のOS。
コンピューターの中には、
ICとかLSIなどの基盤があり、その姿はマンダラに似ています。
コンピューターは、
入力装置 ⇒ CPU(論理演算、記憶(メモリ)、制御) ⇒ 出力装置
という構造で、
演算は基本的に、ANDとORとNOTです。
マンダラの中央は大日如来。
働きは記憶と制御
その周囲の四仏が、AND、OR、 NOTなどの仕事を分担しています。
さらに、
十六大菩薩や金剛界三十七尊が、四仏の役割を細分化しています。
マンダラ外周・外金剛部(等流法身)の諸尊が、
心の入出力を担当しています。
ところで、
僕は身体という姿があり、
名前という文字があり、言葉を話します。
衣体や持ち物などの象徴があり、
僕なりの仕事・役割があります。
これがマンダラの種類。
姿のマンダラ、声音文字のマンダラ、シンボルのマンダラ、働きのマンダラ。
どのような存在も、そのすべてを持っています。
それらが集まって、また大きなマンダラになっています。
世界の、万物の姿がマンダラであり
その表現に上の4種類がある、ということ。
ちなみに、
一切のマンダラの共通の儀軌である秘密経、という名の、
『グヒャサマージャ・タントラ』では、
マンダラとは、一切の衆会、あつまりの意味であり、
『大日経』では、「仏の菩提を円満したもの」。
パソコンの中にICチップ、LSIがたくさん集って動いているように、
宇宙の中に地球があり、地球の中に私があり、私の中に細胞がたくさんある。
マンダラは存在するもの、認識できるものすべてを動員して、
現世の、人生の、いのちの美しさと素晴らしさを説いています。
大日如来・CPUを、
お大師さんは心臓に、覚鑁さんは五臓に置いていますが、
例えば宇宙を観想してみましょう。
広い大きな宇宙、
その中に銀河系があり、太陽系があり、
またその中に地球があり、日本があり、自分がいる。
自分以外のものがたくさん集って世界がある。
その中心地が自分の心臓や五臓。
そこへ宇宙全体が収束する。
多が一になる。
そこから今度は、
自分の外側へ、地球へ、宇宙へ広がってゆく。
一が多になる。
自心が発展する。
図絵のマンダラには、
その様子が描かれています。
我即法界(我は宇宙のすべて)
我即大日(我は大日如来)
と云います。修行してそうなる、と。
真言宗は大日如来の教えです。
常用している『理趣経』も、
帰命毘盧遮那佛(大日如来のこと)で始まり、
毘盧遮那佛
と念仏して終わります。
真言宗はまた、真言を唱える宗派です。
お大師さんは、都の大学を中退後、遣唐使として入唐するまでの期間、
何をされていたのか不明な部分が多いのですが、
その間、大日如来を拝んでいた、学んでいた、
と金山穆韶先生がおっしゃっていたということを、
田中千秋先生から聞いたことがあります。
金山先生は、高野山大学学長、高野山真言宗管長を歴任し、
行学兼備とうたわれた昭和の名僧。
その金山先生は、
常に真言を唱えており、
まだ新幹線の無い時代に、
長い東京までの車内でも、ずっと唱えていたらしい。
何を唱えていたかといえば、大日の真言。
それも田中先生から聞きました。
千葉県野田市金乗院住職で、
アビダルマ 研究で著名な加藤純章先生とお話した時、
あんたは大日如来かね
と聞かれました。
大日如来のお姿は、
顔はひとつ、手足は二本づつ、人間と同じで、
人間のように身を装飾しています。
大日如来は宇宙法界ですから、とても大きい。
その中に多くのいのちを抱えています。
それらも大日の三昧耶形(象徴)で
大日の等流法身(ともなる身)
つまり、
私は(私以外の総ても)大日如来である、
と云ってもよいのだけれど、
本来そうでも、現実には違う。
なぜかといえば、自我に執著しているから。
無限の大日に、有限の私が出会うと、
私が消えて吸収される。
無限大のものに摂取されたとき、我即大日になる。
私は大日(無限)だけれど、「私(有限)」が残っていれば大日では無い。
その無限大のものに気がつくことが、如実知自心。
『大日経』に、
悟りとは「実の如く自心を知ること( 如実知自心)」
とあります。
厳密には経典ではなく、礼敬文ですが、お経として通用しています。
「一心頂礼 万徳円満 釈迦如来
真身舎利 本地法身 法界塔婆
我等礼敬 為我現身 入我我入
佛加持故 我証菩提 以佛神力
利益衆生 発菩提心 修菩薩行
同入円寂 平等大智 今将頂礼」
これだけ。
栂尾先生の訳では、
まことをささげ おん舎利を
まどかの功徳 仰がなん
釈迦牟尼仏の 肉身の
とわにほろびぬ 舎利こそは
根本の法の みほとけの
性(さが)そのままの 塔婆なり
われら心に おろがめば
仏の姿 眼にうかび
われとみ仏 融けあえり
仏のめぐみ 身にうけて
まよいの闇を われのぞき
ほとけのちから うけもちて
世のひとびとを 救わなん
ともにさとりを 請いもとめ
すくいのわざを はげみつつ
きよきいこいに 入れよかし
総てをめぐむ 智の性(さが)の
舎利をば礼し たてまつる
舎利はお釈迦さんの遺骨、
本地法身は真如、大日如来のこと、
法界塔婆は、
大日如来の智慧を象徴したもの。
それを礼拝することで、仏は仏身を現わし、
入我我入し、
仏は我に加持し、
その仏の救済力によって、その力を私も体得し、
一切衆生を救済し、利益する。
そして、
一切衆生に菩提心をおこさせ、
悟りの境地へ入らせる、
自他平等の大智を体得する
ということ。
重要なのは、
大日の象徴である塔婆はイコール法界であること。
(だから、塔婆の表には胎蔵の大日を現す五字の梵字、
裏には 金剛界大日を示すバン字という梵字が書かれています)
それを拝むことで、
入我我入(にゅうががにゅう)する、
つまり、自分が仏になること。
塔婆を面前に瞑想修行して、
現実に成仏する、悟る。
加持(ちからぞえ)は、入我我入と同じように、
仏の慈悲の光を、僕らの信心が受け取ること。
窓(心)を開けて、風(仏の説法)を入れると、
仏の加持を受け、迷いの闇が除かれます。
窓の鍵は、懺悔と持戒で開きます。だから、誰でも開けられる。
また、
迷いが波立つ海に漂っていても、
思い切って潜れば、
波の無い、寂静の海に入る。
その海は、
大きく広く、たくさんの生命を育んでいる。
『秘蔵記』には、
諸仏は満徳円満の眷属囲繞せり
我もまた、満徳円満して眷属囲繞せり
諸仏は遍法界の身なれば、吾が身、諸仏の中にあり
吾が身 遍法界の身なれば、諸仏の身、吾が身中にあり
とあります。
諸仏は、仏の智慧は、悟りは、宇宙全体に満ちています。
宇宙は仏、その中にいる僕らは、身体を構成している細胞みたいなもので、
仏の一部、仏の身。
風(仏)を入れれば、僕らも風になる、風と一体になる。
海(仏)に潜れば、僕らも海の一部になる、海と一体になる。
万徳円満する。
1、すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められている。
2、如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされている。
3、如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている。
また、『大般涅槃経』には、
一切衆生悉有仏性
とあり、
これがつまり如来蔵です。
僕らの内側には、仏・如来、あるいは仏と同じ本来清らかな心がある。
けれど、
それは迷い煩悩に覆われて見えない。
その覆いを取り去れば成仏が可能、
ということ。
僕らの中には仏の、悟りの種があるんですね。
しかし、
仏教は諸法無我が原則で、唯一の根源的実在は無いはずだから、
仏性や如来蔵などの清浄なものが、僕らの中に本質として存在している、
なんて、縁起や空の法則に反していないだろうか。
そもそも、
清浄とか清らかなんて、概念であり、実体は無い。
それにしても、
真言密教は如来蔵思想の宗教です。
その証拠に、
総ての行法にある慈無量観では、
「六道四生の一切有情は皆如来蔵を具す」
いつも唱える『理趣経』第十二段には、
「一切有情は如来蔵なり」
とありますから。
そして、
『秘蔵記』第二十九章には、
この卒塔婆に自性清浄心、真如、仏性、如来蔵の名を付す
とあります。
卒塔婆は大日如来の象徴、つまり、僕らの心中の悟りのシンボル。
僕らの中に仏の種がある、つまり慈悲がある。
それによって、
他人の苦しみを抜き、楽を与える(能力が僕らにはある)
だれもが愚かさの迷いをもっているけれど、
大丈夫だよ、心配ないよ、と収める。
みんなに仏性があり、本当は清浄なのだから、それを喜ぶ。
そうすれば、
我と人、あっちとこっち、という差別を超越して大空のように広く平等。
あらゆるものはみな、自心より起る。
総ての迷いも、身体も、世界も、
それらの現象はみな幻の如く、焔の如く、音響の如く、
永遠常住ではなく、滅して平等の真理に一致し、
しかも、虚空に充満している諸仏は、
我々を(そのことに)目覚めさせる
とあります。
たとえば、
僕がAさんを嫌いなのは、
僕の心が作ったイメージであり、実体はなく、真実でもありません。
総ての人がAさんを嫌いなわけではなく、たまたま僕がそう思うだけですから。
そして、
僕はAさんを好きになることもできます。
そう思えば良いだけで、事実そうなるかもしれません。
それらは心が作るイメージ。
幻と同じ、一瞬一瞬燃えては消える焔と同じ、発しては流れ消える音響と同じ。
好き、も同じ。
大切なのは、僕がどう思うかで、その思ったことに実体はない、ということです。
そんなもの、本当はないんだ。
そして、
そういうことに、自分で気づくこともあるけれど、
自分以外から教わることが多い、ということ。
なかなか起きられない朝に、
さあ、朝ですよ、起きなさい、
と言われるように。
そうして目覚めたら、
事実を大切にして、
心を観察して、
怠惰な生活に満足せず、
自他の平安を目指します。
いくつかの方法があります。
最も基本的なことは、
自分と自分以外
自分のものとそれ以外
の間にある仕切りをなるべく低くすること。
自分と自分のものへの執著を、なるべく減らすこと。
それらの役に立つ拝みかたがあります。
自利については、
実の如く自心を知る、とか、
自心の源底を覚知する、
などと表現されますが、
心を観察、探究すること。
今、何かを思っています。
何も思わない、無になろう、なんて思ってもいい。
それをそのまま続けていくと、
思うもの、思われるもの、思う自分などが少しづつ消えてゆきます。
その時、
反省や感謝があれば、そのまま思い続ければいい。
ただ、思うだけ。
これが、練習になります。
筋トレを続けていれば、だんだんと筋力が増すように。
久しぶりに会う人が、
ずいぶん太ったなあ、老けたなあ、
と見えることがあっても、
日々顔を合わせていれば、少しずつ太る、少しづつ老けることに気がつきません。
同じように、
心のトレーニングを毎日続ければ、
少しづつの積み重ねによって、
長い間には、心のことがわかるようになります。
苦楽愛憎総ては心から生じるものなので、
心のことが分かれば、問題は解決するでしょう。
利他については、
四つの観想があります。
まずは、
総ての存在は如来蔵であること。
ホントは仏さま、と思えばよろしい。
その中には、
良い子悪い子普通の子といろいろ違いがあるけれど、
何かに染まっているのは表面だけで、
真髄は真っ白で、空き領域がいっぱいあって、
これから多くのことを学んで成長できる。
みな同じで平等の価値がある。
そういうふうに考えます。
心の平安は思いやりよって得られ、
思い通りにならない苦しみは、
平等観と謙遜と、よく心を観察することで和らぎます。
キャッチャーがピッチャーへサインを出す。
そのサインは、他のチームには伝わらない。
分かる人にはわかるサインがある。
そういうものに気がつくと、
パッと納得できる瞬間があります。
お経と真言は何が違うの?
と聞かれました。
お経はブッダの言行録であり、
所謂「仏教の教え」が書かれています。
内容は、
成仏する、菩提を得る、悟りを開く、ブッダになる方法。
たとえば般若心経には、
智慧の修行によって、モノも心も空であると悟ったら、
一切の苦厄から救われた。
その空とはどんなものか、
と云うことが書かれています。
理論的なこと、
修行方法、
修行に使う仏像やマンダラの作りかた
などもお経には説かれています。
真言は一種の呪文ですが、
それも悟りの手段であり、
経典の中に書かれています。
悟りの世界は、
仏像マンダラ真言などによって象徴されています。
ところで、
経典には説かれていないけれど、
真言のように唱えるものがあります。
南無阿弥陀仏とか、
南無大師遍照金剛など。
それらはなぜ、唱えるのでしょうか。
世の中の総ての音声は如来の説法、
と密教では考えているので、
大きな意味では真言かもしれないけれど。
南無大師遍照金剛は御宝号(ごほうごう)と呼ばれ、
真言宗でポピュラーなものです。
お大師さん、弘法大師空海に帰依します
ということ。
真言宗はお大師さんが開祖ですし、
お大師さんの業績は深く広大なものですから、
僕もお大師さんを尊敬しています。
でも、
御宝号を唱えるたびに、これでよいのだろうか、
と考えることがあります。
お大師さんは若い頃、
おそらく虚空蔵菩薩の真言を最も多く唱えたと考えられます。
それをたくさん唱える修行を何回も修していますから。
その後は、
不動明王、如意輪観音なども多く唱えたであろうことが、
伝記などから伺えます。
僕は、
生涯で最も多く唱えたのは大日如来の真言だろう、
と考えています。
だから、僕もたくさん唱えたい。
僕はお大師さんを崇拝しているので、
真似をしたい。云いつけをなるべく守りたい。
なので、
『御遺告』、『弘仁遺戒』、『承和遺戒』 などに書かれていることを目標にしています。
それは、
三昧耶戒(慈悲心、向上心、心をまとめる修法)を保ち、
毎日、三密行という本尊の瞑想法を行い、
すみやかに迷いを超えて、
一刻も早くこの上ない最高の悟りに至り、
自利と利他の二利を円満して、
父母・国王・衆生・三宝から受けた四恩に報いること。
そして、
三論(空)と法相(唯識)を学ぶこと(これは御遺告にあります)
宗教はどうだろうか。
仏教の場合、
真理は総て経典に説かれているから、
それを解読し、書かれていることに従います。
自分の考えを展開することは、ほぼ無い。
大切なのは、
経典を注釈し、内容を実践する。
疑いは挟まない。
多くの苦悩は人間関係から生まれるけれど、
難しいことがあっても、
真理が書かれている経典に立ち返ればよろしい。
そこには、正しい答えが用意されている。
経典に書かれている、
と主張すれば、
それは正しい、ということになります。
だから、
経典の内容を知らなくては、仏教教理は成り立たない。
仏教は本来、現実世界の事実を扱ってきました。
悩み苦しみは、そこにあり、原因もそこにあるから。
諸行無常、諸法無我、空、縁起などは、現実の事実の判断です。
僕が生まれて、いつか死ぬように、
現実世界は生じたり滅したりするのが事実です。
人間と云うものは、生まれて死ぬ。
その中に、男とか女とか、
背が高いとか低いとか、いろいろ違いがある。
それも現実世界の事実。
しかし、
生まれるから死ぬ、生じるから滅するということであれば、
その本体(唯一で常住で不変なもの)は無い。
本体が無いから、無常であり無我であり、縁起によっており空である。
その立場から見れば、みな同じで違いはない。
これも事実。
すべてのものに、ふたつの事実があります。
ところで、
総ての心は本来清浄である、とか、
人はみな仏の性質を持っている、
などは、事実判断ではなく、価値判断です。
それは、
インドと日本では異なり、
平安時代と現代では違う。
人によっても違う。
そのあたりはどうなのだろうか。
さらに、
仏教の目的である、
悟り、菩提、成仏、人格の完成などは、
事実判断できるのか、価値判断の問題なのか、
それを追求することが、仏教の発展につながると考えています。
空は広く大きい、仕切りが無い。
仏教で虚空とは、
一切のものを包み込んだ空間
のこと。
作られたものではない、無限なことの喩え
にも使われます。
『大日経』住心品には、
菩提=心=虚空
という内容が書かれています。
悟り、心は、広く大きく、仕切りが無い、
つまり、無差別無執着。
『釈論』には、虚空の十義が説かれています。
1、妨げられ、妨げるものではない
2、あらゆるところに行き渡る
3、平等
4、広大
5、形が無い
6、清浄
7、不動にして、出来たり壊れたりしない
8、分量をもたない
9、空々としている
10、無碍で無執著
密教では、
悟るべきもの(本不生と云う)は、
虚空に等しい、
と習います。
そして、それは法然に具足している。
空がいつでもどこでも、
誰の上にもあるように。
『吽字義』には、
日月星辰はもとより虚空に住すれども雲霧蔽汚し、烟塵映覆す
愚者はこれをみて、日月無しと思えり
本有の三身もまたかくの如し
無始よりこのかた本より心空に住すれども
覆うに妄想をもってし
纏うに煩悩をもってす
『秘蔵宝鑰』では、
虚空の相はこれ菩提なり。知解のものもなく、また開暁のものもなし。何をもっての故に。
菩提は無相なるが故に。秘密主、諸法は無相なり。いわく、虚空の相なり。
と、虚空を説いています。
観想、瞑想修法で最も大切なものが虚空と云ってもいい。
虚空は自在であり、邪魔が無い。
だから、
一切の分別を離れて無染無著
それが体得すべきものです。
『秘蔵記』に、
心は虚空の如く不生不滅なり
とあるように。
今日は梅雨空、
見上げれば落ち着きます。
昔から、戒律を重要視していない日本の仏教では、
時々、戒律復興運動が起りました。
明治維新後にそれを行ったのが、
釈 雲照(しゃく うんしょう)律師。
その雲照さんが作った学校が目白僧園。
ここでは、
宗派、寺檀関係、地域的習俗とは異なる、
個人の自発的な宗教心を開発することが目的でした。
死んだら成仏するという、
因果の法則を無視したものではなく、
勉強して修行して成仏する、
という本業。
目白僧園のカリキュラムは下記の通りですが、
戒・定・慧(かい・じょう・え)の三学です。
戒学(いましめ)は仏教の基本、土台。
これが無ければ、定学(こころまとめ 瞑想修行)をしても、
錯覚や妄想になりやすい。
定学によって生まれるのが慧学(道を求める)の智慧であり、
そうでないものは単なる知識。
慧学によって追試しなければ、誤解や間違いも多くなります。
当時、どれだけの人が入学して、どのように社会の役に立ったのだろうか。
今もあるなら、
ぜひ入学したい。
せめて、
生きている間に、
下記の1/3くらいは習得したい。
__________________________________________________
課目表
戒学
「蘇婆呼童子経」
「蘇悉地経」
「四分律 行事鈔」
「有部律摂」
「表無表章」
「南海寄帰伝」
「瑜伽戒本」
「禅要」
「梵網経開題」
「三摩耶戒序」
「菩提心論」
「梵網経古迹記」
定学
別行 百日
五十日
五十日
二十一日
二十一日
十四日
十四日
七日
七日
慧学
「探玄記」
「摩訶止観」
「十住心論」
「諸儀軌」
「大日経奥疏」
「理趣経」
「秘蔵記」
「成実論」
「法花玄義」
「釈摩訶衍論」
「大日経 住心品疏」
「三十唯識述記」
「中論嘉祥疏」
「義林章」
「維摩経略疏」
「倶舎論」
「金剛頂経開題」
「秘蔵宝鑰」
「因明大疏」
「観経疏妙宗抄」
「五教章」
「悉曇字記」
「二教論」
「十不二門」
「起信論義記」
「吽字義」
「円覚経」
「三論玄義」
「四教義集註」
「声字義」
「観心覚夢記」
「四念処」
「因明論科註」
「即身義」
「異部宗輪」
「天台小止観」
「心経秘鍵」
仏教には三で始まる言葉、三でまとめた言葉がたくさんあります。
三世、三界 、三宝、三帰三竟 、三句の法門、
三鈷、三部、三大、 三聚浄戒、
三毒、三業、三密、釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊・・・。
仏教に限らず、
三冠王、日本三景、三公園、
三大ナントカはいくつも聞きますし、作れますね。
三馬鹿トリオというのもあったなあ。
玄奘さんで有名な三蔵は、
経蔵 :経典の内容
律蔵 :戒律
論蔵 :経典と律の解釈・注釈
この三つを修めた人。
不空三蔵、鳩摩羅什三蔵、真諦三蔵、義浄三蔵、般若三蔵、牟尼室利三蔵、
おおぜいいます。
密教で重要なのは三密
身体の秘密、言葉の秘密、心の秘密。
身体の行為、言葉、考えること、
これらは業となり、行為の因となりなす。
もし、
このみっつが仏のレベル、つまり智慧と慈悲から生まれてくれば、
三密となり、全ての働きは仏のそれと同じになります。
数字の3ではないけれど、
サンスクリット語・サマーディ(samādhi)の音訳が三摩地(さんまぢ)、
旧訳では三昧。
妄念妄想錯覚を離れ、
心を仏(法界)に集中させ、
動乱せず、静寂で平安な心の状態。
この三摩地に住して三密修行をすることで、
迷いが悟りに転じ、即身成仏する、
というのが密教の思想です。
ところで、
智慧の火は、迷い煩悩を焼きます。
その火は、三角形で象徴します。
色は赤。
三角火輪という言葉も、
いくつもの経典に見られます。
タイトルは『魔法の言葉』
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楽しみです。
僕が魔法の言葉と感じるのは、
ああ、おいしかった、
おなかいっぱい
そのほかにも、
ありがとう
ああ、楽しかった
いただきます
お前なら大丈夫だ
それらしくなったな、
なども、
聞けば俄然元気になる。
いってきます
と言ったら、
いってらっしゃい
と返ってくる。
ただいま
と言えば、
お帰り。
これもいい。
普段無口でぶっきらぼうの人から、
おはようございます
と言われた時も、心弾む。
言葉がなくても、にっこり微笑む。
これも魔法になる。
お経や真言は、
意味を知り、
正しい使いかたをすれば、
魔法にはならないけれど、人生の役に立ちます。