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僕らは何かに抱かれている 3
総ては真如・大日如来の顕現である、

としても、

現実はそうではない、そう感じられない、

というのは、垢のような自我(執著・煩悩)があるからで、

仏教では、その垢を行によって取り除こうと考えます。

『性霊集』(高雄山寺に三綱を択び任づるの書) に、

「一鉢単衣にして煩擾を除き、
 三時に上堂して本尊の三昧を観じ
 五相入観して早く大悉地を証すべし」

とありますが、

拝むことで大日になります。

しかも、

その行は楽しんで拝む。

拝むことで、

大日では無い、ということが減っていく。

拝んでいる時、

仏と自分は加持感応しています。

大日に抱かれている。

子が自分で択んだ道を、親が応援してくれているようなこと。

真言を唱えて、

自分が大日であると言い聞かせる。

そのうちに、大日になる。

自我という垢が消えて、

宇宙の中に吸収されていくような、

無限の大日であるものと溶け合うような。



自分が大日という仏と同じである、

しかし、

今の自分はそうでもない、

その両方を知ることが如実知自心(悟り)です。


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[ 2019/11/27 16:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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