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[ 2024/04/27 19:01 | ]
真理はどのように現れているのか。
思い通りにならないという苦に対し、

思い通りになるという楽を求めることを、

執着(rāga)と云います。

この思考では、

苦が無くなれば楽も無くなります。 

普段、言葉を使うことによって、

その言葉が持つイメージで固定された認識を持つので、

多くの場合、正しい判断や正確な認識ができません。

苦や楽は主体側にのみあります。


鳥の声を聞いて、美しいと感じます。

美しいと感じるのは主体(私)であり、

鳥(客体)には、何の関係もありません。

鳥、美しい、などの言葉で、主体側が勝手にイメージしていだけで、

それが真実かどうかはわかりません。

この、

主体と客体を分別することは、識によって行われますが、

僕らの日常は、

主客相対の上に成り立ち、相手を区別し分析します。

それは、事実のありのままの姿の認識ではなく、

僕がそう感じた、という主観によって組み立てられたもので、

誤謬性があり、妄分別(vikalpa)です。

つまり、

だれが何を感じようと、

真実は言葉で説明できません。

そのため、

仏教では、真言、梵字、仏具、曼荼羅、仏像、香、景色、月星、自然などで、

シンボライズします。

心とは満月のようなもの、

などと。

心そのものを言葉で定義できないからです。

この、主体と客体の分別を停止することで、

執着の止滅→苦楽の止滅になります。

ふたつの対立を無くするのです。

存在の真実(なぜ存在しているのか、など)は

言葉では説明できないので、多くは沈黙されます。

しかし、それでは分からないので、

作法や所作などを通して説法します。

悟りとは、実の如く自心を知ること(大日経)ですが、

それは、

心の執着する内外、分別等の、

あらゆる執着(とらわれ)よくよく観察して離れることです。


具体的な瞑想法では、

虚空は無ではなく一切を含容しているように、

ひとつの作法、ひとつの動作が、

法界に周辺すると観想すること。

これによって、

表現されないものを観ます。


Ofuse お布施箱 




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[ 2020/07/13 09:26 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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