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ファンタジー
明日は満月。

月にはウサギがいてお餅をついている。
 

密教の瞑想では、

月には金剛杵や卒塔婆(仏塔)がある。

これは大日如来の、智慧の、硬い菩提心の象徴で、

僕らはそれそのものである。

我即大日であり、自心は満月のようであり、悟りの智慧を具足している、

ということ 。



宇宙のかなた、M78星雲にはウルトラマンはじめ、ウルトラ一族がいる。

そして、

地球を、僕らを助けていくれる。



人は死ぬと地獄とか極楽とかに行く。

それは宇宙のかなたにあるのだろうか、

月より遠いのだろうか。


そして、

人は死ぬと霊魂という、目に見えないものとして存在するらしい。

それは宇宙にもいけるのだろうか。

M78星雲にもいるのだろうか。


神という見えないものも、宇宙と関係あるのだろうか。


ウルトラマンが本当にいたら楽しいし、安心である。

勇気と希望を得られる。

彼らの存在が、

現代社会へ警鐘を鳴らしてくれるかもしれない。


地獄極楽霊魂神が本当にあれば、

それはおもしろいし、

普段の生活を見直し、清らかに生きるきっかけになるだろう。


どちらも素晴らしいことである。


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[ 2018/09/23 15:10 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
なんにもしない
パーティーか宴会か、

なんだか大勢の人が出てくる夢をみた。


こういう夢は、

脂肪が代謝されていない時、

腎膀胱系、脾臓膵臓胃、所謂お腹が疲れている時に見る。

それらの不調は、

フノリをよく溶かした野菜スープ、ジャガイモ、納豆、トロトロに炊いたエノキなどで改善する。

そして、

胃腸は穀物がもっとも滋養になるので、

ご飯やうどんと一緒に食べるのがよろしい。



それはさておき、

オフィスビルの階段下、

喫煙所になっている場所で、数人のサラリーマンが休憩していた。

みな、スマートフォンをいじっている。

昔、僕がサラリーマンだったころ、

休憩時間(という決まった時間は無かったけれど)には何をしていたのだろうか。

 タバコを吸う、

コ-ヒーを飲む、

誰かと話をする。

でも、ほんどは何もしなかったように思う。ただ、ボーっとしていた。


小学生のころ、
 
親から留守番を言いつかり、友だちも遊びに来ない時、

何をしていたのだろうか。

本を読んだり、

おやつを食べたり、

でも、ほとんどの時間は何もしていなかったように思う。


ある夏休みの一日、

前日夜遊びして、ほぼ半日寝てから起きだした息子が、

ご飯を食べてまた寝た。

夕方起きてから、

今日は何もしていないなあ、

と言う。


何もしない、というのは今や貴重である。

みな、何かしている。


何もしないとき、

心寂静な三昧が訪れる可能性は高い。 


フランス文学者で昆虫博士の奥本大三郎が、

『虫のゐどころ』のなかで、

「今の世に最もありがたいものは、きれいな水と静けさと上品な言葉遣いである」

と書いている。


これは、

鋭敏で繊細であること。


何もしないとき、

心はそうなることがある。


なあんにもしないで、

何か思い浮かんでも放っておく。

妄想も空想もそのままにして、執著から離れる。
 
感想意見を持たず、そのままにしておけば、

心身は良い(清浄な)方向へ自然と向かう。

なぜなら 、それが本性だから。


自性清浄心は本性であり、それが菩提心であり、本不生際(真如)である。


身体の不調も、

なにもしないで寝ているほうが良いことも多い。



[ 2018/09/22 09:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
under control
マージャンを覚えた息子が、

平和という字を見ると、

ピンフーとしか読めない

と言う。

 
若い頃から強かったらしい母は、

向かい側をトイメンと言う。


昔、高野山大学の授業中、

音読を指示された学生が、

東西南北をトンナンシャーペイと読んだ。

彼は今、どうしているだろうか。


それはさておき、

言いたいことが言えないことは、よくある。

そこには遠慮や自信の無さがある。

言いたいことを言わないこともある。

これには、

たしなみとか羞恥とか、品格の問題もある。


感情を外に表さないように堪えることを、

僕は美しいと感じるけれど、

そうできないことも少なくない。

先日、

千葉ZOZOマリンスタジアムで、

ロッテ対ソフトバンクの試合を観戦した。

ロッテ側外野応援席である。

そこでの応援は抑制が効いて、少し物足りない気がした。

タイガースの試合では、

絶叫と興奮とヤジとトランペットと太鼓とで、

コアでカオスで尋常ではない。

感情のコントロールがない替わりに、

ある種の開放感がある。


もう会えないと思っていた息子が、

ある日突然帰ってくる。

息子は、感情を押し殺し、うつむいて「ただいま」と云う。

それを見た母も、

我慢して無言で迎える。

そんな話がスタインベックの『怒りの葡萄』にある。

原文は、

Then she knew,and her control came back,and her hand dropped.


意識はコントロールできるけれど、

その下にある自我は制御しにくい。

でも、訓練すればできる。

そして、

その自我を支配している心の種子があり、

それはいつも電源が入っており、

ハードディスクのような記憶装置(自分では忘れてしまっている記憶も)から、

メモリに情報が常に移動し変化している。

ここが、

心のコントロールにもっとも重要なところであり、

自他を苦しめるか助けるか、

迷うか悟るか

を、制御不能で自由に動いている。

まあ、宗教的トレーニングによって抑制できるのだけれど。

それがコンピュータと人間が違う、大きな点である。



※料理のブログもご覧ください。 『阿吽・精進料理散策』


[ 2018/09/20 11:35 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
してはいけない、したほうがいい
最近は何でもハラスメントになるようですが、

昔からある伝統的なハラスメントといえばお酌ですね。

飲みたくないものを、

飲みたくないタイミングでつがれるのは苦痛である。

医師以外が医療行為をしてはいけないように、

芸者さんなど、作法を知っている人以外はお酌をしてはいけない、

ということにして欲しい。


それはさておき、

不飲酒戒は

お酒を飲んではいけない、ということで、

少しなら薬になるので良いとか 、

人間関係のためには飲んだほうがいい、

などということはない。

 
不邪淫は不淫、梵行であり、

セックスをしてはいけない、ということで、

夫婦恋人なら良い

といういことではない。


これは

不殺生が、

人殺しをしてはいけない、ということではなく、

ハエや蚊も、どんな命も殺してはいけない、

ということと同じである。


これらは業の問題であり、

己の行為がどういう果をもたらすか、ということである。


守れない、できないことは懺悔する。宗教には懺悔が必ずある。

心身を使って徹底的に懺悔すれば、何とかなる。

 業と果が分かれば、

ハラスメントも起きる可能性が低くなる。

また、

年に一度、一週間くらいは、

酒も異性も遠ざけ、殺生に気をつけて拝むようにすれば身に染みる。


普段のちょっとしたこと、

しゃべる人はしゃべらない、飲む人は飲まない、食べすぎの人は食べないなど、

やれば心身に有効なことは多い。


密教では、

してはいけないことは無く、

したほうがいいことをあげている。

それは、

信心 混じり気の無い心をもつ

行願 自分でなければ誰がやるんだ、という気持ちで他を救おうとする

勝義 論理的に矛盾のある教えに満足せず、向上心を持って学ぶ

三摩地 常に心をまとめる瞑想行を忘れない

[ 2018/09/18 08:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
内外の仏
宗教には

聖なるもの、大いなるものが自分の外側にあり、

我らはそれに包まれて、そのお蔭や力添えを受けているとする思想と、


聖なるもの、大いなるものは自分の内側にあり、

それを開発発展させることを目的とする、

ふたつがある。

 

仏教はその両方の要素があり、

浄土教は比較的前者の要素が多く、

禅は後者に重きがあり、

密教はその両方を持っている、

と僕は理解している。



自分の中にあるものを、

自分の力だけでもぎとろうとすると、

それができたとしても、傲慢や慢心が伴う可能性がある。

自力に頼りすぎると、

いざというときに、自分が役に立たなくなることがある。



ご先祖さまなども同じように、

自分の外側にいるというような理解もあり、

自分の内側にある、という考えかたもある。

どちらでも、その人の資質によってで良いけれど。



大地海植物動物鉱物大気などがまとまって地球がある。

地球という蔵の中にそれら総てがある。

同じように、

骨筋肉血液などがまとまって我があり、

我れという家の中にそれらが住んでいる。


どちらにしても、

それらは自分の脳が考え、思っていることだから、

考えること、思うことをやめれば生滅する。無いと同じである。

地球や我が現実にあるとしても、

それは脳がなければ認識できないのだから。


いずれにしても、考えているならば、
 
地球も我も宇宙も、

同じ蔵にあるということで、

それが法界。

密教では 我即法界と云う。

法界にはいろいろなもの総てがあるから、

どれをとってみても法界の一部である。

地球という法界があり、その中に我れという法界がある。


だから、

そこにあるものはなんでも法界の象徴であり、

そういうものを一つのイメージとしたのが仏である。


ということは、

好悪善悪どれにも、

あらゆる性質あらゆる機能がそこにあり、

区別がないということであり、

それが身にしみていることを、悟りと云う。



[ 2018/09/16 10:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お知らせ ごあんない
飯田市 立石寺の予定です。

1、秋季例祭 十一面観音護摩供

10月13日(土) 13時半から



詳細は、
https://risshakuji.cloud-line.com/topics/2018/107236/ 

2、密教瞑想法


11月17日(土)

①10時から約1時間半

②14時から約1時間半 

(①、②は同じ内容です)

 
 
仏教の勉強方法は、

戒律を基礎とし、
坐禅瞑想を修し、
物事の本質を知る 

また、

優しさと思いやりを常に持ち、
向上心を持って勉強し、
坐禅瞑想によって真実を体得する

というのが密教のトレーニング方法です。 

どちらにも必須な坐禅瞑想法をご案内します。 

お気持ちがありましたらどうぞご参加ください。 .

お申し込みはこちらから 。

持ち物:数珠、輪袈裟(お持ちでなければ結構です) 

服装:坐りやすい服装 

参加費:無料(予約制) 


3、月並十一面観音護摩供


11月18日(日)10時から


https://risshakuji.cloud-line.com/page38511/ 


どなたでも参りできます。 

各詳細はホームページ お知らせ をご覧ください。




長野県飯田市・千頭山立石寺は857年(天安元)創建、

現在の本堂は1669年(寛文9年)に改築された古い建物です。

本堂には藤原時代の秘仏十一面観音はじめ、

同時代作の前立十一面観音、広目天、増長天、多聞天、

1779年(安永8年)造立の聖天(伝金剛愛染明王)がおまつりされており、

その御宝前で春の大般若祈祷会、秋の十一面観音護摩供、その他の行事や修法が行われています。

本堂の広さは29.6坪。

寺内には他にも藤原時代の薬師如来、阿弥陀如来、

比較的新しい尊像で珍しい蚕玉像(伝馬鳴菩薩像)もおまつりしています。

本堂は建築されてから350年近く経ち、一度も大きな修理がおこなわれていません。

屋根瓦を始め、建物の傷みが激しく、安全面でも問題が生じています。

今後、本堂等修復実行委員会を設置し、修復のための事業を始める予定ですが、

お気持ちがありましたら、

ご協力をお願いいたします。


千頭山立石寺 第六十五世住職 須永晃仁  敬白


●Information of Esoteric Buddhism meditation 


Buddhist study method is based on precepts, studying zazen meditation and knowing the essence of things. 

In addition, it is the training method of Esoteric Buddhism meditation that always has gentleness and compassion, studies with ambitions, and acquires the truth by zazen meditation.  

I will show you methods of the essential zazen meditation for both. 

Please join us if you have an interest. 

Sign up here

November 17th(Sat)
① About one and a half hour from 10 o’clock
② About one and a half hour from 14 o’clock
※ ①,② are the same contents 


What to bring with:Buddhist rosary, Buddhist stole(loop-shaped stole for temples)
※There is no problem even if you don’t have them. 

Clothing:Comfortable outfits to keep seated 

Participation fee: Free(You need to make a reservation)


●Monthly holy fire memorial service with Eleven-faced Kannon 


November 18th(Sun) 

From 10 o’clock 

Anyone can participate in that. 

[ 2018/09/12 12:53 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
理論から実証へ
『Newton』最新号(2018.10)の特集は、
 
「死とは何か」

現状では、

生きている人間の都合で、死を決めているだけであり、

ここから先が死だ、

という境界線を引くことは、まだむづかしい

とのこと。


植物状態の人に意識がある(可能性がある)

というレポートもあった。

宗教的な三昧のとき、

ほぼ意識は無いといっていい。

根本的な種子(阿頼耶識)のみがあるのだけれど。

しかし、

睡眠や無意識と三昧は違う。
 
三昧には、緊張が在る。



複雑系物理化学の学会から帰ってきた息子に

何かスゴイ発表はあった?

と聞いたら、

今は酸素原子が目に見えるようになった、という。

以前でも、金とか銀とか大きい原子は見えたけれど、

酸素ような小さな原子が見えるというのはすごい。

もちろん、顕微鏡でですが。


見えるということは、動きがわかるということで、

そうすると、

酸素と水素が結合して水になる瞬間が見える、

ということである。

それはすごいなあ。


こういうことが分かってくると

存在の分析はどうなるのだろうか。

仏教の目的である悟りは、存在とは何かを知ることであり、

その本体は不可得としている。

不可得を体験することで、絶対自由の心になる。

そうすると、

自分が生きる道が求められ(それは本来清浄なものである)

他を救う大悲の働きが生じる。



死や原子が理論ではなく、実証としてわかるようになれば、

今は宗教的体験によってしか得られない不可得の境地も、

存在とは何か(自分とは、心とは、苦しみとは)も、

もっとわかりやすくなるのかもしれない。




[ 2018/09/10 10:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
災害で思うこと

台風地震等、災害お見舞い申し上げます。

6年前は、


いろいろ不便がありましたが、義援金支援金はとてもたすかりました。

また、

一段落した後も、お仕事をいただくのがありがたかった。

なので、

募金や被災地産品の購入、落ち着いてからの訪問(現地でお金を使う)は、

大きな支援になる。


あれ以来、

ガソリンは常に満タン

充電器の確認

水、米、醤油を余分に置く

というのが僕の注意。



ところで、

災害が起きるたび思い出すのが、

『秘蔵宝鑰』第四 唯蘊無我心にある十四問答。


その最初に

「多くの僧尼を見るに、頭髪を剃っても欲を剃らず、衣を墨染めにしても心を善法に染めることをしらない。

戒、定、慧の三学を修めるものはきわめて少なく、非法濫行のものは頗る多い。

日夜に営々として、あるいは頭を臣妾の履に叩いて、それにへつらい、あるいは召使にまで歓心をかわんとして朝夕に手土産を事としている。

仏の習わしはそのために衰微し、仏道はこれによりて頽廃するのである。

かの、旱魃や洪水がしきりにおこり、疫病が年ごと流行し、天下がみだれ、人々が苦しむのも、

みなこれ僧尼の非法濫行によるものといわねばならぬ  云々」

だから、僧尼に布施することなど禁止にするべき、

という。


そんなことは関係ない、ということは無いだろうし、

関係ないと思っているようではいけないと思う。


上記の問いに対してお大師さんは、


物には善悪があり、

人には賢愚がある。

賢善は稀れであり、愚悪はとても多い

だからといって総てをなくしてしまうべきではない。

いつかは賢善が現れるのだから、

やめることなく、続けることが大切であり、

その道を断絶する理由はない

と答えている。


そういう思いをもって、

どんなことでも自分に関係があるとして、

懺悔反省と感謝するべきである。



[ 2018/09/10 06:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
吐けば吸える
調身、調息、調心は、

坐禅瞑想ヨーガなどで使われる言葉ですが、

身体を調え、呼吸を調え、心を調える。


このうち、

息を調えるのはとても大切。調わないと死んでしまう。

息の調えかたで、

単なるリラックス状態か、

深い瞑想状態かの違いが生まれる。



先日、

「㈱おぼうさんどっとこむ」の林代表が

会社で息に相当するのがお金です。

息を吐かないと吸えないように、

お金を使わないと入ってこない。

ということを教えてくれた。


例えば

10万円の資金で、来月は1割増にしよう、とする。

すると、

来月の収入は11万円

翌月は12万1千円

翌々月は13万3100円

こうして1年間、お金を使っていけば30万を越える。


3割増なら230万、

5割増なら1200万を越える。


この場合

お金を全部使わなければ増えない。

ちょっとだけでは増えない 。



ラーマ・クリシュナは、

神に会う最低限の条件は、放棄(離欲)としている。


それも、ひとつづつ放棄するとかえって執著するから、

いっぺんに捨てたほうがいい、と。


「日本ヴェーダンタ協会」のサイトには、

放棄とは、私たちが永遠なるものを求め、つかの間のものより永遠なるものにより多く集中することができるように、世間のはかない物事への執着を諦めるこ とです。

僧は内面外面両方の放棄を実践することを要求されますが、

家住者は、水の中にあっても水に浸されないハスの花のように、

無執着を実践することに よって、精神的な放棄を行なうことができます。
https://www.vedantajp.com/%E9%9C%8A%E6%80%A7%E3%81%AEq-a/#58


永遠で無いものは放棄するのなら、

空の立場では、総ては放棄するべきものとなる。


[ 2018/09/06 11:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
旅客営業規則
朝7時に息子と家を出て駅へ向かう。

息子はパラグライダーで空を飛び、

僕は高野山へ向かう


持っているキップは往復乗車券。

最寄り駅(東北線小金井)から大阪市内(電車特定区間という)までは、

片道601キロ以上あるので往復割引が摘要される。


東北線を東京で下車、新幹線に乗り換えたら、高野山から電話。

台風の影響で、明日の行事は中止とのこと。


あわてて下車し、関係者に連絡。

同行予定者も既に出発していたけれど、引き返すとのこと。


さて、

手元には大阪までの往復乗車券と東京→新大阪の自由席特急券がある。

これを精算窓口へ出し、

台風の影響で旅行中止、出発地へ戻る旨を伝えると、
 
旅行中止と払い戻しの判子を押してくれる。

台風の影響で、ということが大切

列車が止まっていなくても大丈夫。

通常なら、

往路のキップは既に東京まで乗車しているので、

未乗車区間(東京から大阪)しか払い戻しされず、しかも払い戻し手数料がかかる。

ちなみに、

未使用区間が101キロ以上でないと、払い戻しは無い。

しかし、

「台風のために」旅程変更ではなく、中止で戻る場合にかぎり、

往路のキップで戻れば、手数料無しで全額払い戻される。

これは、

キップのいろいろを定めた旅客営業規則にはなく、

最近になって、各駅窓口で臨機応変に対応しているみたい。




とうわけで、

タダで東京まで往復して帰宅。

雨が強くなってきた。



[ 2018/09/04 16:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
法味
仏教では、

真理や真実、悟りの境界など聖なるものと、

存在するもの、一切の対象、あなたも僕も何もかも、

という俗なるものを

同じ「法 (dharma:ダルマ)」という言葉で表す。


ご飯を食べた後、
 
ああ、おいしかった、

と、心が落ち着く満足感のような、

坐禅瞑想中の三昧、心の静かさを

法味と云う。
 
大自然の中で、

深呼吸して、心身さわやかになり、大自然と一体になったような感 じ。

本来、そういうものを味わうべき儀式や読経を意味することもある。


先日、ある会合で、

講師が参加者に質問した。

葬儀や法事でのお経は、誰に唱えているのか、と。

故人に向けて唱えている、という人と、

参列者(生きている人)に向けて、という人、

その両方と答えた人がいた。

参加者は坊さんである。

僕は、

へえー、と思った。


その話を母にしたら、

お経には死んだ人向けと、生きている人向けの二種類があるんじゃないの?

という。

そうだっけ? 


色即是空 空即是色

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

などと唱えるのは、故人に対してだろうか。

そもそも、故人に対して唱えるとは、

どういうことなのだろうか。

身体が無くなっても、仏性は残っているのだろうか。

仏性は実有なのか、空性なのか、

いろいろ問題はある。



もし僕が死んで、死後の様子を体験できるのなら、

内容が伴わない坊さんの読経はいらない、聴きたくない、迷惑。

話のうまい坊さんの法話は聴いてもいいかな。

噂話でなく事実を聴けるなら、ありがたい。

それよりも、

家族友人縁者が、
 
健康で、

みんな仲良く

やりたいことがあれば、それに向かって進み

楽しく生きて欲しい 。

そうすれば嬉しくて、安心して、成仏するだろうな。

そうではないから、心配で成仏できないかな。 

故人のため、故人の供養とは、

そういうことではないだろうか。

経典には、

心身を調え、自他を救い、

ともにより良く生きて、

安心して平安になる実践方法が説かれている。

それを体得するのが法味。




[ 2018/09/02 14:11 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お大師さんの供養
本尊を拝むことを供養という。

供養とは、

浅略では、尊敬することであり、

深趣は、菩提心(自性清浄心)を忘れないこと。


その供養の方法には、念誦法と護摩法がある。

念誦は真言陀羅尼を唱え、護摩は火を焚く。

それぞれの本尊によって作法がある。

お不動さんなら不動法、観音さまなら観音法、お地蔵さんなら地蔵法など、

すべての尊に次第がある。


日本の真言宗寺院には、本堂や大師堂に弘法大師が本尊としておまつりされており、

弘法大師その人を供養する。

そのために編纂された「大師法」は少し毛色が違う。


密教の作法では、

我即大日

我即法界(宇宙)

を観想し、

われも何もかもは、悟りの象徴であり、それ自体である、

と自己を確認しようとする。

だから、

お不動さんを拝む時、われは不動であり、

観音さまを拝む時、自分は観音様になる。


どこか遠いところに観音さまがいるのではなく、

自分の中に在ることを認識する。


お大師さんは、

高野山奥の院に入定し、

弥勒菩薩とともに修行して、

常に我らへ手を伸ばし、

救いにきてくれる、

と云うのが大師信仰である。


つまり、

弥勒菩薩が本地で、お大師さんが垂迹である、と考えられる。

だから、

お大師さんは、お遍路さんひとりひとりと「同行二人」できる。



高野山奥の院に参籠する場合、弥勒法を修法する。

これは、

お大師さんの誓願に関わるものであり、

弥勒法の秘讃にもかなう。


「奥の院の参籠で大師法とは、余りにも直裁過ぎて疑問である」

と村上先生は『密教と現代』に書かれている。


僕などは、

我即大日を拝むことはできるけれど、

実在した温かみあふれるお大師さんに対して、

我即弘法

とは、生々しくて拝みにくい。


お大師さんを本尊とするときは、

大師法より、弥勒法や、大日を拝む理趣経法が心安いと感じる。

お大師さんは遍照金剛(大日)であるから。


大師法の特徴は、

日本で生まれたものであり、

諸尊法のように、印や真言が経典儀軌で規定されていないことである。


大師法の内容は、

先徳先人が経験の中から創作されたものなので、

今でも種類が多い。

だからか、

宥快さんの『宝鏡鈔』などには、

正当なものでは無いというような記述があるし、

古くからの伝授目録にはない 。


「垂迹としての大師がさらに格上げされて、諸佛菩薩と同格視され、いわゆる大師法があらわれた 」

と『弘法大師法考(1)』(高見寛恭)にある。

諸尊法は密教作法であり、

大師法は真言宗の作法なのであろう。

 
いずれにしても、即身成仏を目指して三密行をするのであれば、どんな作法でも構わない 。


「冒地の得がたきに在らず、この法に遇うことの易からざるなり」
(悟りが得がたいのではない、その教えに出会うことが難しいのである)


「一尊一契は証道の経路、一字一句は入仏の父母なるものなり」
(どの仏の印も悟りの経路であり、その言葉は成道の基本である)

(共に性霊集)




[ 2018/08/29 15:59 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
早朝雑感
我が子がどんな人間であるかは、

親ならば大体のことがわかりそうなものだけれど、

気がつかないことも多い。

子に限らず、恋人連れ合い親友など、心安く感じている人には、

いろいろな思いがある。

その人は、本来素晴らしいけれど、いろいろな垢がついて素行の悪いこともある。

 しかし元々は清浄である。

そして、どのような時でも、

皆同じで平等、僕とも誰とも平等。



不可得空の宇宙は目の前に広がり

宇宙があるように、私もある。

私の中にはその宇宙があり、

私はそれを赤くするのも青くするも可能である。


煩悩だらけの人間が、他を救おうと心から拝んでも、

その思いが自分流の衆生救済であるべき、

という自己本位的なものでは、ほぼ役に立たない。

自分の思いが衆生の思いであると、勘違いしてしまう危険があるから。


何をやっても本尊さんは認めてくれる、

などと思ってしまう傾向も困る。



拝むのは、

うまくいくことがあればそうでもない、ただ漫然と時間が過ぎることも多い。

それが無駄な時間のようでもあり、

心が熟成する時間でもある。

その時は、

ああ、そうか、

と気がつく。


『秘蔵記』17には、

種子を大地に蒔き、

水土の縁によって発芽する

陽の勢いによって茎葉が育ち

解脱の風を待って具足し生長する

虚空のようにみなすべて堅実ならば

なんで物が生じないことがあろうか、いや生じる

とある。

これは、

凡人が大日如来になる過程と同じ。



[ 2018/08/26 08:10 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
堪忍袋
落語「柳田の堪忍袋」は、

「柳田格之進」のタイトルでも演じられる噺ですが、講談に起源があるみたい。

僕はこの噺を最初、志ん朝で聴いた。


柳田は実直真面目で嘘をついたことが無い。

しかし、その正直さが疎んじられて浪人となる。

その生活の中で、盗みの濡れ衣をかけられ、

柳田と娘は堪忍袋を抱え、耐え忍んで生きる。

疑いが晴れるまで、そして晴れた後、

柳田親娘はどうするのか。


ところで、

名人志ん生の長男が馬生、次男が志ん朝である。

僕は志ん朝のキレとスピード感ある語り口が好き。

華やかさと色気と潔さがある。

対して、兄の馬生は、まじめ一筋。


このふたりが演じた『柳田格之進」を聞くと違いがよくわかる。 

志ん朝のそれは噺の筋が通らないけれど、

ハッピーエンドにして、聞いて楽しいものにしている。

馬生の噺は、道理的で悲運のまま、ばっさりと終わらせる。



堪忍袋は、

辛抱に辛抱を重ねた結果、緒が切れる。

だから、これは大人の感情である。子どもは辛抱を重ねない 。

子らがキレルのは瞬間だから、

堪忍袋の緒が切れているのではない。

つまり、

キレルのは子どもであり、大人ではない。

いい歳をしてキレルのは、中身が子どもなのであろう。

 
そして、

修行修養修練によって、

緒が切れない堪忍袋をもてるようになる。

その時、

堪忍が完成し、微笑と慈悲にあふれた人格になるのだろう。




[ 2018/08/24 07:29 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
こうすれば幸せになれる、という方法は無い。
『THE BIG ISSUE』 340号(2018.8.1)に、

雨宮処凛がオウムについて書いているのが興味深い。


人はある時期、生きる目的を探す。

僕も若いころ、

なぜ生まれてきたのか、

何のために生きるのか、

「僕」が僕である理由は何か、

を探した。

もし、

誰かがその答えを教えてくれたらどうだろうか。

楽になり、幸せな気持ちになるだろうか。

たぶん、そうはならない。


大切なのは、疑問を持つことである。

本当だろうか、

なぜだろうか、と。

その答えに、論理的矛盾はないだろうか、と。

意見や感想では答えにならないのだから。


真言宗で大切にしているものに『十巻章』がある。

弘法大師の著作と『菩提心論』の十。

難しい文章もあるけれど、百回くらい読めば僕でも少しは分かる。

実践的なこともかかれているから、それを試してみる。

そうすれば、答えが見つかるかもしれない。


もし、

あの人のように生きたい、

と思っても、その人の言動は本当だろうか、と疑い、

確認して勉強し実践しなければ、

自分の生きかたにはならない。


生きるも目的も幸せも、

これだ、という方法は無い。当たり前である。

その定義もないし、人によってさまざまであるから。


人生は自分で工夫して歩かなければ、

目的地にたどり着けない。







[ 2018/08/17 09:09 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仏教は何をしているのか
『アエラ』最新号の特集は、

「新しい弔いと供養 

   ルポ:お墓はなくても大丈夫」


死、死後、遺族、葬儀、火葬、遺骨、埋葬、

仏教、寺、僧侶、先祖供養、ビジネス、

などがいろいろと絡み合っている。


どんな宗教も死に関わるだろうけれど、

なぜ、仏教は、寺は、僧侶は、

葬儀を行い、故人の供養をするのだろうか。

仏教に「霊や故人を弔う」などという思想があるのだろうか。


人は死後、どうなるのだろうか。

想像して自分流に解釈するのではなく、

事実はどうなのだろうか。



仏教の葬儀では引導作法を修し、

多くの先祖供養では経を唱える。

そこには何が書かれ、どういう意味があり、

なぜ修法し、どうしてそれを唱えるのだろうか。

なぜ、今までそれが伝えられてきたのだろうか。


それは、

仏教の、僧侶でないと、できないことなのだろうか。


生死とは迷いのシンボル、

それは即ち、涅槃(心の寂静)であり、

修行し菩提を得た先に、涅槃(自他の救い)がある、

と仏教では説かれている。




[ 2018/08/16 11:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仲良しの理由
落語『錦木検校』では、

老中筆頭、酒井雅楽頭の次男・角三郎と、

按摩・錦木との交流が美しくも悲しい。

このふたり、

身分も住む世界も違うけれど、仲良くなるのは同じ数を持っているからである。

そして、

錦木の画数20があるために、

悲しい別れが訪れる。


病人、迷っている人、悩んでいる人、不如意の人には、

名前の中に9か10の画数を持つことが多い。

それゆえに、

医者、宗教者、教育者の多くも、9、10の画数を持つ。


名前よりも、食べ物や環境のほうが影響するけれど、

類は友を呼ぶ。


仲の良い兄弟を見た人が、

ウチとは違うなあ、ボクは兄と合わない、

と言う。


実は、

角三郎と父親の酒井雅楽頭も「合わない」。


この兄弟には、同じ数が姓を除いても、ふたつある。

そして、

分かれ仲違いを表す0が無い。

だから、仲良し。


どういう名前にするか、

を考える一例である。



[ 2018/08/15 16:06 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お盆
お盆でございます。

元気で仲良く過ごしましょう。

故人先祖がもっとも喜ぶのは、そういうことです。




[ 2018/08/13 13:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
アンチ・アンチエイジング
息子ふたりと鳴門へきています。

毎年恒例、お盆のお手伝い。

お昼はうどん屋へ行く。

ひいきの店が二件あり、

僕は毎日「冷たい醤油の大」


実は、

二か月くらい前から身体を絞って、随分と体重が減った。

すると、

こちらのみなさんから、

あんた、やせたねえ、具合悪いんか?

と聞かれる。

自分では、スマートでカッコよくなったと思っていたのに、

この歳で痩せると誤解を生むらしい。 


僕も歳をとったけれど、相手も同じである。

そんな中、体が枯れても、言葉遣いや立ち居振る舞いが美しい人がいる。

こんなふうに歳をとりたい、と思える人がいる。


年齢を経ているのに、見た目が異様に若く、年寄りに見えないのは不自然であり、

気持ちが悪い。

妖怪じゃないのだから、歳をとったら身体と欲は枯れたほうが気持ちいい。


とにかく僕は、

毎日たくさんうどんを食べて、太ろうとしている。

でも、

うどんは白いから、カロリーゼロかもしれない。

 

[ 2018/08/10 14:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
遺伝
枝豆を収穫しないでそのまま育てれば大豆になる。

枝豆は若者、大豆は熟年。

同じように、

グリンピースがウグイス豆になる。

グリンピースなどのインゲン豆は、メンデルの法則で有名。


高校の生物で習った時、

どうしてあんなに都合良く遺伝するのか、と不信感を持った。


僕は、遺伝を疑っている。

「氏より育ち」という言葉があるように、

育つ環境によって変わる可能性のほうがはるかに高いと思う。

同じ環境で同じものを食べていれば同じ心身になるだろうけれど、

そうでなければそうでない。

勉強する、練習する用意があるのと無いのとでも全く変わる。

妊娠期間が冬か夏かで、生まれてくる子どもの体質思考は変わる。

夏は身体を冷やすもの、冬は温めるものを多く食べるだろうから。

食べ物が違えば、それで作られた血が流れる脳も違う。

 

身体も脳も、細胞はどんどん入れ替わる。

人体の内外に永遠不滅なもの、常住なものは無い。

諸行無常であるから、

遺伝するような実体は無いはずである。



親子は通常、同じ性である。

だから、

姓で呼ばれる場合、同じ画数の影響が現れる。


でも、

名前やあだ名で呼ばれれば変わり、

結婚などで性が変われば、また変わる。


最近は若い頃と比べて、体力も記憶力も衰えていることを自覚している。

そして、

父や祖父のことを思い出すと、

今の僕のような状況があったのだろうか、無かったのだろうか、

と考えてみる。

どこかに遺伝があるのだろうか。



[ 2018/08/09 13:54 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
助産院
長男は助産院で 、

次男はお産婆さんを呼んで自宅出産だった。

ここ数年は、

助産師さんと望診や食養の勉強会をしているので、

その方面には心安く感じている。


寺の近くに「よしみ所産院」 がある。
http://iimachi.net/ms/50821/


先日ちょっとお会いし、

人口10万人の飯田市には5軒の助産院があると教えてもらった。

なんだか、うれしい。

子は成長して大人になる。

その間、親も同じ時間を過ごしているのだけれど、

成長しているようには思えないこともある。

退化、衰退、弱化などの影響が増しているからかしら。

まあ、それはそれで、おもしろいものなのだけれど。


いまだに成長しているとしたら、ちょっと気味が悪いような気もする。



[ 2018/08/08 06:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
暑中平安
あまりに暑くて蚊がいない、

という話を聞きましたが、

その分、ちょっと涼しい山や家の中には蚊が多い。 

そういえば、ハエも見ないかな。

でも、

早朝はアゲハが舞い、夕方にはコオロギが部屋に飛び込んでくる。


ひとつ思い出したのは、

原発事故後のある日、

庭に出てみたら、一切の音が無かった。

広い空と雲があるだけ、シーンとしている。

なぁんにも音がしないねえ、

と子らが言う。

それは一日だけで、翌日からはキジを先頭に鳥が鳴きだし、

虫も出てきた。

春になれば、いつもどおり蝶が舞い、ウグイス、カッコウ、キビタキもさえずる。

あの年は農作が制限されて農薬が散布されなかったためか、

いつもは見ないタテハやシジミチョウも増えて、虫の種類が多かった。


人間より環境に敏感な奴らが活発なのだから大丈夫だろう、

と思った。

 


お盆の用事で、信州飯田に来ています。

当地は標高400メートルあるけれど、やはり暑い。

でも、都会とは違う暑さかな。



※新しいブログ「阿吽・精進料理散策」 もどうぞご覧ください。





[ 2018/08/04 08:08 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
秘仏考
秘仏は、

信仰上などの理由で非公開、厨子の扉が閉じられたままの仏像。


なぜ、秘仏にするのだろうか。

考えられるのは、

貴重なものだから大切に保存する、ということ。

秘仏は保存状態がよいから、結果的に国宝指定などを受けているものが多い。

それから、

ありがたい、畏れ多い、などの理由で、滅多に見せない。

これは神道的な思想。

人間が見てはいけない、見たら大変なことになる。

そして、

秘密にすると、喜ばれる、尊ばれるという風潮もある。

さらに、

その秘仏を時々「特別」に公開することで、

仏教に親しむきっかけを作れ、興行的にも成功する可能性が高い。


以上、仏教的に意味のあることとは思えない。


当山本尊も秘仏。

寺伝では60年に一度ご開扉とあるけれど、その由来は今のところ不明。

1979年(昭和54)に近隣の札所寺院とともに、ご開帳をしている。

そして、

17年後の1996年(平成8)にも、同じように地域の寺院合同でご開帳。
 
特に決まりは無いといっていい。

 

秘仏十一面観音(『飯伊百観音ガイドブックの表紙から)


お前立本尊


寺に伝わる本尊のお札(江戸時代ころ)



そもそも仏像とは何だろうか。

『御請来目録』には、

「密蔵深玄にして翰墨に載せがたし、さらに図画を仮りて悟らざるに開示す」

とある。

教えと云うものは難しく、文章では表せないから、

絵などで目から教える。


仏像は報身といって、

修行を積んだ結果を表現したもの。

だから、それは目標になる。


また、

本尊とは自心の源底にある清浄な種子を、

仏像の形に表現したもの。

密教では、識大、一切智々、本不生際などと云う。


要するに、悟りの、目的地のシンボルですね。



拝む時、

その対象は自分の心の中にいます。

それは大日如来でも観音様でも、ご先祖様でも同じ。

拝んでいるうちに、自分とそれが同体になる。


密教で、本尊の供養法を修法する場合、

拝む人と本尊が溶け合うように、

自分が本尊に入り、本尊が自分に入ることを観想する。

これを、ヨーガとか相応とか入我我入という。

これによって、

自分は思っているよりも、もっと大きなものなんだ、

だから、より良く生きよう、

とするきっかけになる。


なので、

拝む時には厨子の戸を開け、

大切なお客様をお迎えして対座するように、

本尊を見たほうがいい。


 
求聞持法や阿字観などでは、

拝む時には、本尊を目の前にして交流し、

それ以外は布などをかけて隠すことになっている。


秘仏にしても拝めないことはないけれど、

ちょっとどうなのかなあ、

とかんじている次第。





[ 2018/08/01 12:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
追いはぎがいた頃
同級生宅でお盆の供養 。

家の西側にグリーンカーテンがあり、ゴーヤがたくさん実っている。

数本所望したら、

どうするの?

と聞かれる。

食べるんだよ、油と相性がいい

と答えたら、

えっ、これ食えるの?

と云う。


 
素揚げしてニンニク醤油に漬ける。こういうものは新鮮なほどうまい。 


拝んでから、居間で昔話に花が咲く。

あの頃は追いはぎがよく出たねえ

そうだね、最近は見ないねえ

なんて。


僕らの世代、

中学時代に流行ったのが、札幌オリンピックとこっくりさん。

高校時代は「俺たちは天使だ」と口裂け女

こっくりさんは女子らが熱しすぎて禁止になった。

口裂け女も本当に信じていたので、出没地域には行かないように伝言がひろまった。

彼女はスーパーカブより速く走り、ポマードの匂いが嫌い

口が裂けたのは、

○○医院で手術を失敗したから、と聞いた。 


話していて感じたのは、

僕らの中学生時代は 、外で思いっきり遊んでいた、ということ。

よくやったのは、公園で二人対二人の野球

時には三人対三人にもなる。

ピッチャーと守備が同一チーム。

フライでもゴロでも捕ればアウト。取れなければヒット。

でも、ひとり(もしくは二人)だから内外野を走り回る。

キャッチャーは相手チームがバッターと交代で。

主審はキャッチャーが兼任、四死球もある。

ランナーは仮想で各塁上に置く。

それをちゃんと9回までやる。

 その他、

夏休み早朝はラジオ体操の後にキャッチボールをして、

午前中は毎日学校のプール。


もうひとつ、

あの頃はどの学校にも不良がいた。

彼らはタバコを吸い、主な役目は他校とのケンカ。

シンナーのウワサもあったけれど、

運動会や球技大会ではクラスのヒーローになる。

その不良を取り締まる、暴力OKの教師がいた。

不良だけでなく、真面目な僕らも理不尽に殴られた。

でも、

その先生らは僕らと一緒に遊んだ。教室でラグビーをしていると、

急に後ろから押してきて、教室のガラスを割るようなことになるのは先生のせいだった。

そして、

あの不良と手を出す教師がいなくなってから・・・。

ちょっとここには書けない。




今は自家用車に気を使っているけれど、

あの頃は、スピードメーターやウインカーがついている自転車に憧れていた。





[ 2018/07/29 07:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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