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かんがえてみよう  運気の上げかた4
宇宙は大きく、広い

いったいどこまで続いているのだろうか、

いつからあるのだろうか。


心も大きく広い

何でも自由に思える。

どんな大きなことも想像できる。


宇宙と心は似ているらしい。

マクロコスモスとミクロコスモス、

宇宙は心の中にあり、

心の中に大宇宙があるというようなことを、

仏教は云う。

そして、

心は本来清浄で美しい。

それは、

元々がまっさらだから、汚れていない、ということである。

だから、

本来仏である、元から悟っている、ということになる。

本当だろうか。

多くの場合、

今まで生きてきた自分の歴史で、自分の心は限定されている。

そんなことはないのだ、もっと大きいのだ、と云う。

本当だろうか。


心の中に仏がいる、心は清浄である、

という教えを作り、

本来自分は仏である、清浄である、

とするのは、

自分が切った木を見て、

この木は切って良いのだ、

と思うものではないだろうか。


魑魅魍魎や悪霊や鬼お化けが見える時、

見えてしまうことが妄想である、

と考えている場合と、そうでないことがある。

そもそも、

死後の世界や霊界など信じていないのに、

そういうものを見ることがある。

それはなぜだろうか。

それは肝臓の仕業である。


いずれにしても、

考えると運気は上がり

悩むと下がる。


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[ 2018/11/17 06:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
うんこをしよう  運気の上げかた3
歳をとると、内臓の力も低下する。

だから、

ある程度たくさん食べたり飲んだりしないと、

なかなか滋養にならない。

そんな中、

繊維が多くて脂肪が少なければ、うんこがたくさんでるから、

体調は良い。

ウンコがでないと、不要なものを貯めているからか、

運気は上がらない。

もうひとつ、

加齢や体調不良では、

水分が足りないのに咽喉が渇かないことがある。

それで陽性過多の便秘になる。

ウンコの成分は80パーセントが水分で、

残りが食物繊維と腸壁のカスと細菌。

水分が少ないのは、食事の内容も関係がある。

ごはん (半分が水分)
煮物漬物(半分以上が水分)
味噌汁 (ほとんど水分)

という食事なら、食べる水分が豊富。

野菜はほとんどが水分で、

可食部100g中、

タクアンで88g

フライドポテトで53g



ウンコには種類があり、

「プリストル便性状スケール」という国際基準がある。
http://yoshida-pharm.jp/magnesium/assets/pdf/bristol_scale.pdf
 
重たいウンコと軽いうんこ

油の多いうんこ

黒いうんこ白っぽいうんこ、黄色いうんこ 

脂肪が多いと、胆汁が多く分泌されるのでその影響でうんこは色が濃くなる 

 

便秘の国際診断基準もある
https://www.jstage.jst.go.jp/article/naika/102/1/102_83/_pdf

これをみると、ほとんどの人は便秘かもしれない

いきむ、残便感は便秘の徴らしい。


足が不調だとウンコはでないし、脳が不調でも出ない 。

足と脳がたいせつである。


[ 2018/11/17 05:27 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
もやしてみよう 運気の上げかた2

とはいっても、

最近は焚き火、野焼き、ゴミを燃やす、

など、できないところが増えましたね。


人間は、火に本能的な憧れがあります。

畏敬といってもいい。

火は熱と光、

暖かさと明るさをもたらし、

食べ物を調理する。

火にあたるだけで、

身体も心も暖かくなり、力が沸き、心が潤う。



日常で火が見られるのは台所。

電磁調理器では難しいけれど、かまどやガスなら火がある。

火に近づくだけで、心身は変化します。

海苔をあぶると、よく分かるけれど、火の扱いは難しい。

何でも料理をすれば火を使うのだけれど、

それによって食べ物に火の力、熱が加わる。

生食は本能的なものを伸ばし、
 
火食は理性的な心身を作ります。

その理由は陰陽五行説で説明できるのだけれど、

長くなるので、何か機会があれば解説しましょう。 


ちょっと工夫すると、火のお蔭を得られます。 

干しシイタケや昆布を指でつまみ、

ガスの焔に当てて、端を少し焦します。

それを出汁に差し入れ、煮込む。

追い出汁と云い、コクが出て、身体を引き締める味になります。




次は仏壇 。

ローソクと線香の火がある。

ローソクに火を灯したら、

1分くらい、じっと見つめてみましょう。

いろいろなことが分かります。

ひらめきもある、集中力も上がる。


お線香も火をつけて香炉に立てたら、

じっと見つめてみましょう。

淡々と同じ速度で燃える。

このリズムを精進と云います。

それを心身にしみこませると、

いろいろなことが分かります。

ひらめきもある、集中力も上がる。

 

火鉢など大きなものに、

線香をたくさん組み合わせ、護摩のように燃やす方法は、

とても勝れた心の制御法です。

これはちょっと練習が必要なので、

当方にお越しくださればお教えします。

 

最も火の効果、火の力を感じられるのが護摩供。
 
自身を炉として真実の智慧を火とし、

心中の障り・迷いを、薪として燃やす。
 
火の本性は如来の一切智光。

護摩の火を見ることで、

煩悩、つまり自我の執著を達観します。

 
今月18日 10時より、

立石寺本堂で護摩供を修法します。
 
どうぞおまいり下さい。

火と自分、

智慧と迷い

をじっくり見比べてみてください。

立石寺十一面観音護摩供
 
立石寺 護摩の話









[ 2018/11/14 11:21 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
となえてみよう 運気の上げかた1
お芝居などの舞台

俳諧短歌

話芸朗読

民謡演歌、ロックにJポップ

それら声を出すものと、

読経や念誦の違いはなんだろうか。


お経、真言陀羅尼などは、

口から口へと伝承されてきました。

伝えるために唱え、覚えました。

ですから、

多くのお経は、

「かくのごとく、我、聞けり」

という文で始まっています。

伝えるために唱えたのでしょう。

ですから

間違えていはいけない。

内容も理解したほうが、覚えやすく、伝えやすいでしょう。

なので、

正しく唱え、意味を理解して唱え、伝えることが功徳になります。



お経には、

修行の目的と修行方法が説かれています。

真言ダラニは呪文の一種ですが、

これらにも、修法の内容効果が説かれています。

つまり、教科書ですから、書かれていることを学び実習するものです。


『理趣経』の最初には、

「つねに教えに遇い 受持し読誦して忘念せず」

初段には、

「日日に必ずこれを読誦し、思惟し、修習すれば、

 この世において あらゆるものにとらわれぬ心の自在を得て、

 限りない楽しみと歓喜を得る

 ついには浄き汚れなき菩薩の功徳を得て、

 如来のさとりの位を得られる」

とあります。

まず唱える、そして考え勉強実習する、

そうすれば結果が得られる、ということ。

『理趣経法次第』にも、

「受持読誦の人は永く一切の悪趣を越え

  修習思惟すれば、速やかに万徳の善果を証す」

とあります。


唱えかたについては、

蓮体和尚の『真言開庫集』第九真言念誦の用心に、

まず身の回りをととのえ、身を調えてから、唱えるべき、

と書かれています。

盗みをしながら、ウソをつきながら唱えることができる

不浄な衣でもできる

でも、そうでない時よりも必ず濁り乱れる、と。


唱えることで心は浄化するのだけれど、

その前に身体(行い)を浄化することが、効能を増す、ということ。

これは、

普段の会話でも同じでしょう。


言葉、音声は総て仏の説法、

と云うのが密教の立場ですが、

唱えることは、仏語(フランス語ではない、仏の言葉)を唱えることであり、

それは秘密を開示します。




[ 2018/11/13 09:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
はしれ ディーゼルきかんしゃ デーデ


震災原発事故の後、

重苦しい空気の中で少しずつ明るさが戻る頃、

タンク車を牽いた機関車と、

そこから燃料を入れたタンクローリーが走る姿は、

街に希望をもたらした。

その姿を見て、涙が出るほど嬉しかった。


『はしれ ディーゼルきかんしゃデーデ』
文:すとうあさえ
絵:鈴木まもる
童心社 発行


[ 2018/11/12 16:49 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
私は宇宙
なんだかお腹が痛かったので、

あれこれと手当てをした。

お腹といっても、胃なのか腸なのか脾臓なのか、

いろいろあるだろうけれど、

それらは「私」の一部であるから、痛いのは「私」。

そちらから見ればお腹だけれど、こちらから見れば私である。



金で造られた象に、鼻があり耳がある。

差別区別する側から見れば、鼻であり耳であるけれど、

平等性の立場からみれば、どれも金である。

水と波も同じで、

波はそれぞれ別なものだけれど、本来は水。


さらに、

鼻でも耳でも、それは仮にそう決めたもので、

どこからどこまでが鼻とか耳とか厳密に決定はできないから、

象総てが鼻であるといっても間違いでは無い。

つまり、

差別が平等になるのである。


宇宙も同じであり、

差別性からみれば「あなた」であり「私」であるけれど、

平等性からみれば、みな宇宙。 

その「私」の中も宇宙と同じ。


ギョーカイのなかで、僕がいるグループは、

諸法は実相である、と考えている。

あらゆるものは真実である

すべてのものは真実の姿を表している

ということ。

象も水も、

内臓も私も、

宇宙もである。

すると、

真実=宇宙=私=その他全部

ということになる。


この真実を密教では本不生(ほんぷしょう)と云う。

本来、生じたり滅したりしない、ということ。

宇宙も私も本性は空であるから不生不滅である、

というのは、悟りの側からの真実で、

現実にある宇宙や私には、必ず始まりと終わりがある、

というのが俗世間の真実。

この二つの真実が本不生。

それは三摩地(心の源底を知る)の瞑想によって悟る。

その時、

私は宇宙。

その状態は清浄心であり、

清浄だから(愚かさの迷いに汚れていないから)慈悲にあふれ、

自他を救い、役に立つ。

よって苦悩は無くなる。


『大日経』に、

我、本不生を覚り、
言葉を越えて
罪過より解放され、
原因と条件の束縛から離れ、
智慧の空は虚空に等しいと知る


『菩提心論』には、

あらゆる智慧を求めて、
菩提心の三摩地を修習し通達すれば、
迷いの肉身そのままに
速やかに、まどかなさとり を証する

とある。


まとめると、


「私」も宇宙も、

そのままに不生不滅の真如である。

だから円融無碍し、

私と宇宙(仏)は不二である。

これは、

三摩地の法によって覚り、

その根底には、

私たちが本来備えている清浄な菩提心がある。




[ 2018/11/08 15:57 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ドライブの効用
息子とふたり 、車で東北へ行った時、

現地の人から、

二人でドライブはいいねえ、と言われた。

なぜなら、

話ができるから。



ドライブしながらの会話が良いのは、

お互いの顔を見ないからである。

顔色を気にせずに、だから話しやすい。

運転中だから、

感情的な話を抑制できる。

さらに、

前方や車窓が見えるから、

会話のきっかけも増え、話の薬味や箸休めもある。



妻とは月に数回しか会わないけれど、

ドライブすることがある。

とはいっても、買い物か墓参りか息子に会いに行くか、である。

楽しい話、意外な話、痛いところを突かれる話。

それらはなかなか良いものである。


大切なお客様は、

後部座席、運転手の後ろに坐っていただく。

それは安全だからである。

しかし、そこでは話が進まない。

助手席は危険な席だから、

心安い人でないと坐れない。


若い頃、

助手席は特別な席だった。

もちろん、彼女の指定席である。

彼女以外が坐ることは許されない。

彼女でもないのに、ずけずけと坐るのは最低のやつ、

オメエの席じゃあねえよ。


そして、

そこは空席のまま、若い時代が終わる。

助手席はあの頃、

汚れなかった。


そういえば、

焼肉を食べに行くカップルはデキている

という話が当時、人口に膾炙していた。

あれはやはり、

助手席に坐らせて行くのだろうか。

どんな話をするのだろうか。



[ 2018/11/06 06:57 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
死ぬまでのわがまま
中学高校大学生を見ていると、

彼らはこれからどんな人になり、

どんな人生を送るのだろうか、

と思う。

いろいろ期待して、

こちらが勝手に夢を描く。


自分を含め、

おっさんおばさんを見ていると、

彼らはこの先どうするのだろうか、

と思う。


例えば僕は

いつ死ぬか分からないから、

僕が親の死に際して手間がかかった、

行政や相続などの手続きをまとめたファイルを作っている。

結婚は1回、他所に子はいない、

という証明(戸籍謄本、除籍謄本、改製原戸籍など)も綴じてある。

名義変更が必要なものは、

その一覧と手続き先を表にしている。


問題なのはモノである。

僕にとっては宝物だけれど、

おそらく家族が見ればゴミでしかないコレクションはどうしようか。

これは考慮中である。


老後と死に際に関しては、

なるべく健康で認知症にならないよう、

運動、食事、睡眠を工夫し、

脳を使うようにしている。

酒も控えた。

太っていると、

介護でも、納棺でも迷惑をかけるから、

そうならないようにしている。

 
死後すぐのことについて、

事務的なことは縁ある葬儀屋さんに任せる。

葬儀などの儀式については、

今のうちに、

よその葬儀や親類の法事に行かせ、

知識と経験の蓄積を家族に促している。


葬儀屋さんと、宗教者ひとりづつ、心安い人がいれば問題無い。


葬儀は普通にしたほうがあとあと便利で困らないけれど、

それは妻子が好きなようにすればいい。

お金がかかるようなら、

考えられるだけを準備しておく。


僕の母は、自分の葬式代を貯め、

すでに僕が受け取っている。

これで済ましてくれ、と。

内容等は任せる、と。

僕はそれを、

母の死まで使い込まないようにしなければならない。


お墓等についても、子どもらが好きなようにすればいい。

何でも良いから、

健康で仲良く楽しく暮らしてくれれば、

こちらから他に望むことはない。

作法崩れの儀式や、

インチキな読経など不要である。


いずれにしても、

僕はまだ生きそうだから、

その間に、

家族からでも縁者からでも、

もう少し迷惑をかけられたい。

迷惑は嬉しいのだ。



[ 2018/11/05 09:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
否定と肯定
神さまはいるのか、いないのか

ということを考えてみると、

神はいない、

とは云えない。

なぜなら、無いものを考えることはできないから。

では、どこにいるかといえば、脳の中にいる。

それが「いる」と決めているから、そう思う。

もちろん、それは真実在ではない。

真実在とは、

誰でも、いつでも、どこでも、

その存在を確認できるもので、

常住で唯一で天地を主宰していること。

だから、それは生じることも滅することもない。

本体が無いから生滅は無く、

従って、

神はいないけれど、いると思う。

つまり、

神は仮にいるのであって、

実在ではなく、

実在ではないから、生じては滅する。


本来生じたものでも滅したものでもない根源的なもの、

モノでも感情・想いでも、その大本を探る場合、

言葉で表現すると否定を繰り返すことになる。

「私」はあれではない、これではない・・・

「心」はそれではない、これでもない・・・

「しあわせ」はAではない、Bでもない・・・


それは不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、

否定して、対立する概念を捨てて本来のものに行き着く。

否定して否定して、最後に否定できない究極の真理に至る。

でも、

否定して、最後に何も残らないかもしれない。

または、

総てを否定した後、

最後に否定する心が残る、とも考えられる。

いずれにしても、

最後の究極は、どのようなものであろうか。


否定の立場からは、

すべてのもの(本質)は不生不滅であるけれど、

現実のものは仮に生まれ、仮に滅している、とする。

これは、

迷っている立場から、悟りに向かう、

スタートからゴールに至る考えかたである。


もうひとつ、

総てを肯定する方法がある。

真実在を直接観ること、

それは、実の如く自心を知ることなのだけれど、

総てのものの真実在を観ることである。

このとき、

不生不滅、不垢不浄、不増不減ではなく、

生と滅、垢と浄、増と減などは問わない。

真実在は不生だから。


世の中の総ては歴然として存在するけれど、

本質は不生不滅である。

見かたを変えれば、

もとより在るもので常住である。

これは、

肯定の思想、

ゴール(悟り)からスタート(迷いの現実)を観た考えかた。

だから、瞑想修行によって悟ることができる。




[ 2018/11/02 11:35 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
塀が友だち
ひとりぼっちの時、

僕はブロック塀と遊んだ。


塀にチョークで丸を書き、

そこをストライクゾーンにしてボールを投げる。

軟球である。たぶんC球だった。

跳ね返ってバウンドしてくるボールを受ける。

延々とそれを続ける。

そのうち、僕はエースになる。

相手はジャイアンツ。

一番、センター 柴田

とつぶやき、

塀に向かって、

つまりキャッチャーへ投げる。

バッターボックスには柴田がかまえている。

一球目はアウトコース低めのストライク、

二球目はインコース高め、

そうして、試合が進む。
 
そのままなら、三振かフォアボールのどちらかだけれど、

時々、

塀の縁に当たってノーバウンドで跳ね返ってきたボールを取ればアウト。

取れなければヒットで、相手は出塁する。

それを9回まで。

完投すると、そこそこの運動量になる。

井戸で足を洗い、

縁側に置いていある雑巾で足を拭き、

家に入って、おやつを食べる。



パソコンの前に坐っていないで、

今でも、そんなことをしたいと考えている。



[ 2018/10/31 16:31 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
差別と平等
政治学者の京極 純一著『文明の作法』(昭和45年発行) に、
 
「明治このかた日本を動かしてきたひとつの底流は、人間平等の信仰である。

しかも、日本の平等主義の背後には、個性と多様性の信仰ではなく、万人同形同質の信仰がある。

中略

万人が背広とマイ・カーの制服でひと色になっても不思議はない」

とある。

これを読んで、いろいろ考えた。


ウチには三人の子がいて、

それぞれ体質も性格も得意なものも違う。全く違う。

当たり前である。違う人間なのだから。 

それは、

妊娠していた時期が違う、

その時に母親が食べていたものが違う、

育った環境、周囲の人間関係が違う、
 
氏は同じだけれど育ちが違うから、違う人間になる。

その違いを僕は好ましく感じる。


違うけれど、同じ子であり、平等に気をもみ、心配する。

三人とも、

できることなら、元気で仲良く、暮して欲しい。

その思いは平等である。



先日、

大阪から帰るときに、

僕は「のぞみ」ではなく「こだま」に乗った。

そのほうが長い時間乗れるから、ゆっくり眠れる。

空いているから気分が良い。

同じ新幹線だけれど、違いがある。

でも、

同じように東京へ着くのは確実である。


もし、

何もかも混ぜ合わせて、同じようにして平等

と考えていたら、良いことは無い。

そう考える人たちが戦争をおこして来た。


差があるのは存在として正しく、重要なことなのである。


もちろん、

その差に上下貴賎善悪の意味は無い。

差があるけれど、存在としては平等なので、

優しさと思いやりが生まれる。


仏と僕は平等である。

けれど、

仏と僕は違う、レベルが違う。

それを、

平等だから、僕と仏は同じだと思ったら、

オウムのようになってしまう。





[ 2018/10/30 18:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
慈悲、智慧、瞑想
仏教とは何か、

という質問に対して、しばしば引用されるのが『七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)』

「悪いことをしない
 良いことをする
 自らの心を清くする
 これが諸仏の教えである」

というもの。

大乗仏教以降、

総ての人、いのちは、如来蔵を具している

と考えるようになりました。

みんな、仏さまである、ということ。

大きく深く広く、多くの命を育んでいる海があり、

そこには波が立つ。

その波のひとつが僕であり、

他の波が僕以外のいのち、

本質は同一の海。

波は生滅しても海に変わりはない。


でも、多くの場合、

海を見ない、海に気がつかない、

自分のみに目がくらんでいる。


でも、

誰もが本来は清浄で、真実の海から盛り上がっているもの。

そして、

自分も他人も、

本来自然のあるがまま、各々自性を守り、互いを供養尊敬している。

それが楽しく生きる方法だと、心の奥では知っているはず。

つまり、

人みな仏なのだけれど、
時には悩み苦しみ不安になり、悪いこともしてしまう、
けれど、本来は清浄で美しくもっと大きい
そして、みな平等である

ということ。

平等というのは、

それぞれ違いがある、ということです。


宗教の基本は

自分の内側を懺悔し、

外側に感謝することですが、

それなら倫理道徳と変わりは無い。

特に、

懺悔はしすぎると、逆効果になることがあります。


仏法は自分の内側を観るものだけれど、

そこには、根底に思いやりと優しさがあります。

親が子に対するように、

可憐な蝶をいとおしく感じるように。

なぜなら、

その気持ちは、自分の心を平安にするから、気持ちがいいから。

これが慈悲の始まりなのだけれど、

自分で無ければ誰がやるのか、

というくらいに、他を観ているかどうかを、密教では重要視しています。

そして、

慈悲は智慧があればより効果的になります。

たとえば、

自我という智慧があり、

神を信じる智慧、差別や平等も智慧。

そこから、無我という智慧、因果や空という智慧と発展し、

存在の根本、心の本性を知る智慧になれば、

すべてが無差別無執著であることが分かるからです。

これらの慈悲と智慧は、

瞑想修行によって確固たるものになります。

机上の理論が、実験や観測によって証明されるようなもの。

瞑想とは心を静かにし、まとめることです。

それによって、心も身体も仏になる。


心が騒いで散乱していたら、慈悲も智慧も乱れてしまう。






[ 2018/10/25 08:17 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夢守袋
細かいものを作るのがうまい妻が、

10年ほど前にお守り袋を作っていた。

そして、

中に何を入れてもいいのよ、

と云う。


震災翌年の5月、

津波被災地の復興行事で、大勢の人とお話をした。

その中で、家族と仕事を失ったお父さんが、

生きるために一番必要なのは食べ物より希望なんだ、

と言った。


被災地の介護施設で働いていた永良尼は、

復興の手助けをしながら、お守り袋を作り、夢守袋として配った。

夢をもつことは、生きる希望につながるから。



来月の七五三、

寺に保育園の子らが来てくれる。

夢を持ち歩いてもらおうと、夢守り袋の準備を進めている。

身体には食べ物、心には夢が、滋養になり、

それは希望につながり、困難を乗り越える力にもなる。

子らが夢を持ってくれたら、

こんなに嬉しいことはない。

さあ、

夢を持って生きましょう。

[ 2018/10/23 18:23 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
高野山
久しぶりに高野山へ上がる。

新幹線で新大阪、

地下鉄、南海電車、ケーブルカー、バスを乗り継いで。

山内を歩き、

田原屋で下駄を、

勝間屋で高野粉を、

小堀書店で仏教書総目録を買い、

高野山出版社で暦を注文してから、

師僧寺の宿坊・高室院に投宿。

秋祭りのお神輿が練り歩き、賑やかである。

町中、8割くらいが外国人観光客。

紅葉が始まったところ。
 
お師僧さまに梵字の事など質問して、答を得る。


今回は法流稟承(ほうりゅうほんじょう)という儀式と、

住職辞令親授式に出席するため。

法流稟承は、密教の教えを受け継ぐ儀式で、

可を許される灌頂、所謂イニシエーション。

住職になるために必要とされています。

辞令親授式はお免状をもらうセレモニー。


翌朝、4時前に起床して、5:50に朝食。

衣体を調えて、同じ儀式に出席する和尚さんと出発。

儀式セレモニーの後、

山内料亭「花菱」の豪華な斎食(まつたけ尽くし)を挟んで、

お大師さんがいらっしゃる奥の院で奉告法要。

奥の院参道は、過日の台風の影響で、大木が倒れ、墓石が壊れている。

大きなものばかりなので、ヘリコプター出動で修復するらしい。


朝6時半から15時半までの行事が終わり、 

数珠屋で買い物と世間話をしてから、高野山駅まで送ってもらう。


ここからケーブルカーで下山。

来月から車両の新造と諸設備の更新工事のため運休するので、

最後の乗車になる。

橋本でホテルに投宿。

翌朝、105系の撮影をしてから大阪を経て京都へ。

奈良線の103系を見てから、新幹線で帰る。

 
高野山は宗教都市といわれていたけれど、今は観光の町である。

世界遺産に指定されて以来、

上記のように外国人観光客が多い。

高野山も人の住む町だからいろいろあるけれど、

遠距離恋愛の彼女が住んでいる町に、

どきどきしながら、

わくわくしながら行き、

着けば気持ちが新たになり、

さあ、明日からがんばろう、と感じる場所である。



※立石寺の予定

11月17日(土) 10時から、密教瞑想法体験

11月18日(日) 10時から、十一面観音護摩供

どうぞ、お越しください。

詳細はホームページをご覧ください。



[ 2018/10/22 18:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
秘中の秘
県と市の教育委員会担当者が、

県宝に指定されている本尊を見に来ました。

文化財パトロール、とのこと。

そのために秘仏を開帳。

目的は、

防犯、防火、防災、防虫のようですが、

彼らは眺めて写真撮って、調査用紙に書き込むだけ。

仏教や仏像の専門家ではないのですね。


本尊も他の仏像も、法身の三昧耶形。

悟りの象徴です。

または、

心が投影されたもの。 

地域の、

大きく考えれば人類共通の文化遺産だから、

大切にするのは当然ですが、
 
拝むものであり、美術品ではない。


仏教は自性清浄心を基本としているから、

その清浄性を仏像は表現しています。


心の中にある清浄であるはずのものを仮に出現させ、

分かりやすくしたものが仏像や仏画です。


さて、

仏像を前に何を拝むのか。

家内安全商売繁盛でも良いのですが、

その仏像が表す誓願、悟りの世界が、自分の中にある、

と気づくために拝みます。

慈悲と智慧が確固たるものになるように拝む。

自分はそれそのものである、と。


当山本尊、十一面観音の真言には、

一切の勝者たちが慈悲と智慧にもとづいて過去より行ってきた、

一切衆生に対する誓願と救済の力が説かれています。

拝むことで、

様々な病気や災難が取り除かれるかもしれない。

そして、

それによって生活に利益と安心が得られ、

結果的に悟りへ導かれる。

菩提心(自分の悟りと他者の救済の基盤)を呪文化したものです。


次回、見に来られたら、

その真言を教えて、唱えていただこうかな。

そのための仏像ですから。



[ 2018/10/21 19:36 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
違うことの違い
左の手相は親の影響が現れ、

右は自分が作った相、今までの歴史が刻まれている。

体調が良ければ線がきれいで、

そうで無ければ濁るけれど、

体調が変われば、すぐに変わる。

財産運でも、

親指側から上へ伸びていれば、親の財産を受け継いだもので、

小指側からなら、他人からの援助である。

自分で努力工夫したものはまた、ちがう。

そういう履歴が身体には現れる。


胃は鍵型にふくらんでいるので、最初に食べたものが底に貯まる。

胃壁に触れる。刺激する。

だから、

食事の最初に何を食べるかで、

胃の様子は変わる。体調も変わる。


例えば、

A町でうまれ育ち、一生をA町で暮らすならば、

A町より良いところがあるなんて体験しない。

他にもっと良いところなんて無い、ここが一番と思っていれば幸せである。

しかし、他県他国へ出て、そこの刺激をうければ人は変わる。

違う自分になる。

より幸せになるか、放逸になるかは自分次第。

とにかく、

小さなところから

宇宙くらい大きなところまで、

自分は居る、同じ世界である。

A町の自分、信州の自分、日本の自分、宇宙の自分、

家族の自分、会社の自分、もっと違う自分。



これらの違いを観想してみると、

何が存在の基本であるかがわかり、

それがわかれば迷いは消滅する。


なぜなら、存在の理由本質がわからないことが、

人生の苦しみ悩みの元だから。

[ 2018/10/13 05:53 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
安心感
電車内で周囲の人を観察する。

目が合わないように、失礼にならないように、さりげなく。


髪を見れば、体質と心の陰陽が分かる。

耳を見て腎臓の様子。

耳が小さいなら腎臓が硬く陽性で、

怖れに敏感である。

鼻は、その人の人生を観るのに役立つ。

背筋と鼻梁はほぼ同じ姿になるので、体型と人生の姿勢を観る。

何よりも、肺と生殖器の様子が現れるので、

呼吸、つまり心の落ち着きと生存欲の根本が現れる。

そんな細かいことばかりでなく、

楽しそうな人、辛そうな人、

イライラしている人、気の抜けたような人、

世の中にはいろいろな人がいる。

透き通るような肌の人、

荒れ肌で疲れた人もいる。

観察していると、

健康な人と病気の人は半々のようだけれど、

もう少しじっくり分類すると、

健康な人と病気の人が1割づつ、その他はどちらでもない人である。

何でも分別すれば、そういうものであり、

社会ではどちらでもないことがバッファになり、大勢なのである。

アベ君応援1割、大嫌い1割、そんなことどうでもいい8割だろうか。


実はその日、

僕はとても身体が不調だった。

できれば家で寝ていたかったのだけれど、

やむを得ず出かけ、電車に乗って、他人をこそこそ見ていた。

そして、

不調なのは自分だけではなく、

自分よりも、もっとつらい人がいることがわかり、

ああ、僕はマシなほうだ、などと安心していた。

これはあまり良くない考えかたである。

他人の幸せを妬み、不幸を喜ぶようなものだから。

『密厳院発露懺悔文』には、

「勝徳の者を見ては嫉妬を懐き
 卑賤の人を見ては驕慢を生じ
 富饒の所を聞いては希望を起し
 貧乏の類を聞いては常に厭離す」

とあり、

そのような心は徹底的に懺悔すべきことが説かれている。




[ 2018/10/12 07:25 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
全員野球で勝つ
お寺の新聞とお経本を作りました。



ご希望のかたにはお送りします。

編集制作はイメージワークス、幼馴染の会社。


それはさておき、

ノーベル賞の先生がタイガースファンであるのは、

とても心安い感じがして嬉しい。

その反面、アベ君が示した、

全員野球内閣には笑ってしまう。

本気で言っているのだろうか。


全員野球とは、

レギュラーだけではなく、補欠もマネージャーも、

チームに関係する総ての人が心をひとつにすること。

大切なのはチームプレー。

自分を犠牲にしても、走者を生かす。


きっと、

アソウ君は大事なところでタイムリーエラーするだろうなあ。
 
すると、

アベ君が、ドンマイドンマイなんて。

きっと、あのチームはエラーやボーンヘッドが多いから、

試合には勝てない。そして、負けても反省しないのだろうな。


ところで、

最近は民間人の閣僚が出ないですね。

過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない

のだから、国会議員より適した本物の野球人にお願いしたらどうだろうか。



2013年、

福嶋 一雄 さんが、野球殿堂入りした。

旧制小倉中学のエースとして夏の甲子園大会2連覇。

2年目は全5試合完封勝利。

早稲田から八幡製鐵に入社して、

都市対抗野球大会で活躍。

引退後は野球連盟などで要職につく。

プロ野球とは無縁の人である。

母に聞くと、

イケメンで、投げ方は金田に似ていた、という。



今年、広島の新井が引退する。

2011年、震災で開幕をどうするか揉めていた時、

プロ野球選手会長として東奔西走し、

その年、打点王に輝く。

エラーと併殺打の多い、愛すべきお兄ちゃんだった。


おふたりとも、入閣していただきたい。




[ 2018/10/07 07:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
修法の効果
大好きな人の名前、

たとえば「まり子」さんとしましょう。

「まり子」と呼べば、

それは、「まり子」を表す。

「まり子」とは何か?

目の前に現実にいるのだから、実相真実と云ってもよい。

ということは、

「まり子」即実相である。

だから、

人の名前を呼ぶというのは大切なこと。


病気になると、

医者に行ったり薬を飲んだり、食事や生活を工夫して、療養する。

病気には痛みや痒みがあり、苦しみがある 

それを医薬や生活法は治すことができる。


迷い悩み不安怒り貪り慢心疑いがあると、

瞑想や念誦など、心をまとめる修法をする。

思い通りにならない、という苦しみがあるけれど、

自分とは何か、

心とは何か、

苦しみとは何か

などの「なぜ」を解き明かすことで、治すことができる。


いずれにしても、

世の中で最も信用できるのは、

自分の身体と心であるから、それを丈夫にすることが役に立つ。


 

哲学倫理道徳ニートと、修法する仏教が違う点は、

自らの解放と他者を救うことを同時に目指すことである。



修法修行を経ると、

脳(心)は、適切に自らの使いかたを覚える。

食べる時は食べる脳だけを使い、

寝る時は寝る脳だけをつかう。

だから、

迷いが無くなる。




[ 2018/10/06 09:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の重要な問題 2
およそ人間の言動は心から生じる。

十住心を解説すると、

1、腹減ったなあ、あの娘と付き合いたいなあ、そんなことばかりの心
 
2.今日は節約して、その分を困っている人に差し上げよう、という心

3、良いことをしますから、未来は極楽へ住めるようにお願いします。
  そして、神さま、世界を救ってください。
  と思う心。

4、(僕以外の)あなたがいるから僕がいる。
  あなたがいなければ「僕」はいない、
  すなわち無我であると知る心

5、宿酔は飲みすぎと身体の不調が原因で生じた、
  と論理的に思考できる心

6、僕が美しいと思うから、あなたは美しいので、
  僕が思わなければ、美しくないかもしれない
  と認識について理解する心

7、タイガースは甲子園を本拠地とするプロ野球チームである、
  と論理的に説明できても、
  タイガースの実体とは何か、は説明できない。
  つまり空である。
  しかし、タイガースは実在している。
  それが「存在」であると知る心

8、在るものは、いつか必ず無くなる、
  在るものの本体というものは無い。
  ならば、その在るものを知っている私は、
  在るものと一体になっているのではないか、
  それが存在ということではないか、と知る心

9、ということは、
  何もかもが、ごちゃごちゃと混ざり合っており、
  細胞が集って私があるようなものである。
  細胞も私も毎日変化しているから、
  不変の本体などと云うものはどこにも無い、と知る心

10、私は怒ったり泣いたり笑ったりする、
  私はいろいろな服を着る、
  私にはいろいろな役割がある、
  私は行動と、言葉によるコミュニケーションと、意思によって、  
  良いことも悪いこともする。
  そのように、
  世界は、私が見たり聞いたり感じたりするすべてもので構成され、
  全部が集ってひとつの世界になっている。  
  見たり聞いたり感じることは無限にできるから、
  その世界も無限である、
  と知る心。


この10のうち、心がどれかひとつに留まることはない。

いつもウロウロと動いて変化して、

ある時は1、あるときは9、

工夫すれば10になる。

できることなら、

1の心(自分のことだけ考えている)から、

10の心(全部を思い慕う心)に上昇するのが良いのだろうけれど、

なかなか難しいので、

戒律と勉強と修行が役に立つのである。


[ 2018/10/03 15:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の重要な問題 1
勝手口に積んである玉ねぎを見て、

これを丸かじりしたい、

と衝動的に思った。

ひとつ取り上げ、皮をむき、がりりと噛んだ。

泣きたいほど辛かった。

こういうことは、よくあることである。


嘘をつく、

という心の動きを考察してみると、

意識と自我と集合的無意識のつながりを発見できる。

これは、

嘘をつくことを正当化するのではない。

悪事を思う心を調べることと、

所詮、人間なんてそんなものよ、

などと、悪事を正当化することは違う。


 
仏教以外の教えを外道(げどう)と云う。

これは、

サンスクリット語のティールティカ(tīrthika)の訳語 

『大日経』や『十住心論』では、

心を10段階に分けている。

最初のみっつは、

1、性欲と食欲の、生存するための心
2、施しなどの倫理が生まれる心
3、真理に憧れ、神や哲学を追求する心

ここまでは自我がある。仏教以前の心。

これを外道と云う。

神や霊魂などが実在する(自我がある)と考えるのが外道で、

自我による思い込みが、

迷いの原因である。



田中先生は『菩提心論講和』のなかで、

他人を救うことより、自分の悟りを優先させる、

自分がもっと力をつけてから、慈悲の行いをする、

というのは外道かもしれない

と書いている。


無我を知ると、

自他の区別が無くなる。

そうすると、慈悲の存在が当然のこととなる。

だれもが本来清浄で無限の心徳をもっているのだから、

一切衆生を利益し安楽しようとするのは当然

ということだろうか。


[ 2018/10/03 11:49 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
中指は自分

人差し指は連れ合い

小指は子ども

の状態が現れます。

その指に元気があるか、力があるか、色ツヤがどうか、

まっすぐか、曲がっているか、

仲良く並んでいるか、離れているか

などで、関係と症状を観ます。


いづれにしても、

夫婦親子などの縁で、自分は存在しています。

その他にも、

自然環境や社会の関係、いろいろな縁と条件で僕らの存在がある。

それらの縁が変われば、今の僕とは違う存在になるかもしれない。


よくよく考えてみると、

普段の生活でもっとも影響している縁が食べ物です。

日々の食べ物が身体や脳細胞を作り、それが変われば体調も変わります。

僕は少し断食をしたことがあり、

食事を摂れないくらいの体調不良になったこともある。

自分の意志で食べないのは快適だけれど、

食べられないのはずいぶんと苦痛。


身体は食べ物という縁によって動き、はたらき、変わり、

どんな縁に遇うかによって人生は変わります。


今はインターネットによって、

ひとり部屋にこもっても、ネット経由で縁ができます。

だから、

ネットで人生が変わってしまう。


『性霊集』に、

大きな石は沈み、小さな蚊や虻は遠くまで飛べないけれど、

船に載せれば石は沈まない、

鳳の羽につかまれば、蚊虻も遠くまで飛べる

というのがあります。 

つまり、

自分は大したことのない、つまらない人間であると感じても、

縁によれば、沈むこともなく遠くへ飛ぶこともできる、

とすれば、ありがたい。 


縁によって、迷いも悟りに変わる筈であり、

この縁を「師」とも云います。




 


[ 2018/09/30 16:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
もっと簡単かもしれない
食事は、

旬のものを楽しく食べる

人間関係は、

元気で仲良く(先祖供養もこれがいちばん)

健康のためには、

早寝早起きして、エレベータより階段を。

より良い未来のためには、

希望をもつ。

こういうことを書くのは簡単だけれど、

毎日続けるのは難しいかもしれない。

けれど、

内容は簡単なことなのだから、

習慣にすれば、そうしないと気がすまないようになるかもしれない。



迷い(煩悩)とは、

自分と他を分別することだけれど、

これは歳を重ねると、多分に強くなる傾向がある。

それは、

どこの学校を出て、どんな仕事をして、というような、

過去に積み重ねたものが自分であるかのように思いがちで、

自分の歴史で、自分を限定するようなところがあるから。

でも、そんなことはない。

自分はもっともっと大きいものである。

可能性も未来もある。

特に、

悟り、仏になる可能性がある。

そういう心を持っている。

それはどんな心かといえば、

一心とか全体心と云う。


『御遺誡』には、

「一心の性は仏と異なることなし

 我心、仏心、衆生心の三差別なし

 この心に住すればすなわちこれ仏道を修す」  

とあり、

『秘鍵』には、

「一心はこれ本居なり」

と書かれている。


一心(全体心)は、自他の分別が無い心で、

その反対が個別心。

それは自分さえよければ良いというような、自分にとらわれる心だけれど、

それを拡げて、自他の区別がない一心(全体心)を回復する。

宇宙法界に広がる心、

自分だけではない全体を包む心、

にする。


栂尾先生の『真言宗読本』教義編には、

「我らと植物が酸素などの呼吸によってつながっているように

 われはもっと大きい

 自身は宇宙につながり、天地一切がこの身に集約されている」

とある。

つまり、大日如来とおなじである。

宇宙は大日であり、

われは大日であり、宇宙であるから。

そこに直入する方法が、三密行なのだけれど、

一切がみな仏と成りますように、

と願うことも、ひとつの方法。

ようは、

心を入れ替えることである。


目前の善悪に悩むのではなく

その根源にある大きな心を見る。

その大きさを知っていれば、

どんな困難があっても、乗り越えられる。




[ 2018/09/28 10:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
続・なぜ、経を唱えるのか 
仙台に住んでいた5年間、

他派の住職にお世話になった。

檀家が多いので、葬儀の手伝いも頻繁であった。

その住職は、

俺たちは芸人さんや役者さんと同じだよ、

と云う。

葬儀という総合舞台には、

葬儀屋さんはじめ、花屋、仕出し屋、タクシー業者など大勢の人が関わっている。

その中で、

ある決まったスケジュールで坊主の出演時間があり、

そこで読経などの作法をする。

それでギャラをもらう。

なるほどなあ、

と思った。その通りである。


だから、

その時間の質が問題になる。

声は良く、音痴で無いほうがいいし、

衣装も豪華なほうが良いかもしれない。

話もじょうずなほうが断然いい。

でも、お経の意味や、正しい唱えかたは知らなくていい。

儀式の雰囲気にあえば、自己流でもいい。

お話も実話でなくていい。

 
つまり、

儀式は一種のパフォーマンスやショウなので、

それにあわせることが大切である。


このような考えなら、

経を唱えるのは、

噺家の落語、歌手の唄、芸人の技、役者の芝居と同じかもしれない。

下手くそではいけない、名人を目指さなければ。





 


[ 2018/09/27 10:16 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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