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仏教は何をしているのか
『アエラ』最新号の特集は、

「新しい弔いと供養 

   ルポ:お墓はなくても大丈夫」


死、死後、遺族、葬儀、火葬、遺骨、埋葬、

仏教、寺、僧侶、先祖供養、ビジネス、

などがいろいろと絡み合っている。


どんな宗教も死に関わるだろうけれど、

なぜ、仏教は、寺は、僧侶は、

葬儀を行い、故人の供養をするのだろうか。

仏教に「霊や故人を弔う」などという思想があるのだろうか。


人は死後、どうなるのだろうか。

想像して自分流に解釈するのではなく、

事実はどうなのだろうか。



仏教の葬儀では引導作法を修し、

多くの先祖供養では経を唱える。

そこには何が書かれ、どういう意味があり、

なぜ修法し、どうしてそれを唱えるのだろうか。

なぜ、今までそれが伝えられてきたのだろうか。


それは、

仏教の、僧侶でないと、できないことなのだろうか。


生死とは迷いのシンボル、

それは即ち、涅槃(心の寂静)であり、

修行し菩提を得た先に、涅槃(自他の救い)がある、

と仏教では説かれている。



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[ 2018/08/16 11:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仲良しの理由
落語『錦木検校』では、

老中筆頭、酒井雅楽頭の次男・角三郎と、

按摩・錦木との交流が美しくも悲しい。

このふたり、

身分も住む世界も違うけれど、仲良くなるのは同じ数を持っているからである。

そして、

錦木の画数20があるために、

悲しい別れが訪れる。


病人、迷っている人、悩んでいる人、不如意の人には、

名前の中に9か10の画数を持つことが多い。

それゆえに、

医者、宗教者、教育者の多くも、9、10の画数を持つ。


名前よりも、食べ物や環境のほうが影響するけれど、

類は友を呼ぶ。


仲の良い兄弟を見た人が、

ウチとは違うなあ、ボクは兄と合わない、

と言う。


実は、

角三郎と父親の酒井雅楽頭も「合わない」。


この兄弟には、同じ数が姓を除いても、ふたつある。

そして、

分かれ仲違いを表す0が無い。

だから、仲良し。


どういう名前にするか、

を考える一例である。



[ 2018/08/15 16:06 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お盆
お盆でございます。

元気で仲良く過ごしましょう。

故人先祖がもっとも喜ぶのは、そういうことです。




[ 2018/08/13 13:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
アンチ・アンチエイジング
息子ふたりと鳴門へきています。

毎年恒例、お盆のお手伝い。

お昼はうどん屋へ行く。

ひいきの店が二件あり、

僕は毎日「冷たい醤油の大」


実は、

二か月くらい前から身体を絞って、随分と体重が減った。

すると、

こちらのみなさんから、

あんた、やせたねえ、具合悪いんか?

と聞かれる。

自分では、スマートでカッコよくなったと思っていたのに、

この歳で痩せると誤解を生むらしい。 


僕も歳をとったけれど、相手も同じである。

そんな中、体が枯れても、言葉遣いや立ち居振る舞いが美しい人がいる。

こんなふうに歳をとりたい、と思える人がいる。


年齢を経ているのに、見た目が異様に若く、年寄りに見えないのは不自然であり、

気持ちが悪い。

妖怪じゃないのだから、歳をとったら身体と欲は枯れたほうが気持ちいい。


とにかく僕は、

毎日たくさんうどんを食べて、太ろうとしている。

でも、

うどんは白いから、カロリーゼロかもしれない。

 

[ 2018/08/10 14:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
遺伝
枝豆を収穫しないでそのまま育てれば大豆になる。

枝豆は若者、大豆は熟年。

同じように、

グリンピースがウグイス豆になる。

グリンピースなどのインゲン豆は、メンデルの法則で有名。


高校の生物で習った時、

どうしてあんなに都合良く遺伝するのか、と不信感を持った。


僕は、遺伝を疑っている。

「氏より育ち」という言葉があるように、

育つ環境によって変わる可能性のほうがはるかに高いと思う。

同じ環境で同じものを食べていれば同じ心身になるだろうけれど、

そうでなければそうでない。

勉強する、練習する用意があるのと無いのとでも全く変わる。

妊娠期間が冬か夏かで、生まれてくる子どもの体質思考は変わる。

夏は身体を冷やすもの、冬は温めるものを多く食べるだろうから。

食べ物が違えば、それで作られた血が流れる脳も違う。

 

身体も脳も、細胞はどんどん入れ替わる。

人体の内外に永遠不滅なもの、常住なものは無い。

諸行無常であるから、

遺伝するような実体は無いはずである。



親子は通常、同じ性である。

だから、

姓で呼ばれる場合、同じ画数の影響が現れる。


でも、

名前やあだ名で呼ばれれば変わり、

結婚などで性が変われば、また変わる。


最近は若い頃と比べて、体力も記憶力も衰えていることを自覚している。

そして、

父や祖父のことを思い出すと、

今の僕のような状況があったのだろうか、無かったのだろうか、

と考えてみる。

どこかに遺伝があるのだろうか。



[ 2018/08/09 13:54 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
助産院
長男は助産院で 、

次男はお産婆さんを呼んで自宅出産だった。

ここ数年は、

助産師さんと望診や食養の勉強会をしているので、

その方面には心安く感じている。


寺の近くに「よしみ所産院」 がある。
http://iimachi.net/ms/50821/


先日ちょっとお会いし、

人口10万人の飯田市には5軒の助産院があると教えてもらった。

なんだか、うれしい。

子は成長して大人になる。

その間、親も同じ時間を過ごしているのだけれど、

成長しているようには思えないこともある。

退化、衰退、弱化などの影響が増しているからかしら。

まあ、それはそれで、おもしろいものなのだけれど。


いまだに成長しているとしたら、ちょっと気味が悪いような気もする。



[ 2018/08/08 06:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
暑中平安
あまりに暑くて蚊がいない、

という話を聞きましたが、

その分、ちょっと涼しい山や家の中には蚊が多い。 

そういえば、ハエも見ないかな。

でも、

早朝はアゲハが舞い、夕方にはコオロギが部屋に飛び込んでくる。


ひとつ思い出したのは、

原発事故後のある日、

庭に出てみたら、一切の音が無かった。

広い空と雲があるだけ、シーンとしている。

なぁんにも音がしないねえ、

と子らが言う。

それは一日だけで、翌日からはキジを先頭に鳥が鳴きだし、

虫も出てきた。

春になれば、いつもどおり蝶が舞い、ウグイス、カッコウ、キビタキもさえずる。

あの年は農作が制限されて農薬が散布されなかったためか、

いつもは見ないタテハやシジミチョウも増えて、虫の種類が多かった。


人間より環境に敏感な奴らが活発なのだから大丈夫だろう、

と思った。

 


お盆の用事で、信州飯田に来ています。

当地は標高400メートルあるけれど、やはり暑い。

でも、都会とは違う暑さかな。



※新しいブログ「阿吽・精進料理散策」 もどうぞご覧ください。





[ 2018/08/04 08:08 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
秘仏考
秘仏は、

信仰上などの理由で非公開、厨子の扉が閉じられたままの仏像。


なぜ、秘仏にするのだろうか。

考えられるのは、

貴重なものだから大切に保存する、ということ。

秘仏は保存状態がよいから、結果的に国宝指定などを受けているものが多い。

それから、

ありがたい、畏れ多い、などの理由で、滅多に見せない。

これは神道的な思想。

人間が見てはいけない、見たら大変なことになる。

そして、

秘密にすると、喜ばれる、尊ばれるという風潮もある。

さらに、

その秘仏を時々「特別」に公開することで、

仏教に親しむきっかけを作れ、興行的にも成功する可能性が高い。


以上、仏教的に意味のあることとは思えない。


当山本尊も秘仏。

寺伝では60年に一度ご開扉とあるけれど、その由来は今のところ不明。

1979年(昭和54)に近隣の札所寺院とともに、ご開帳をしている。

そして、

17年後の1996年(平成8)にも、同じように地域の寺院合同でご開帳。
 
特に決まりは無いといっていい。

 

秘仏十一面観音(『飯伊百観音ガイドブックの表紙から)


お前立本尊


寺に伝わる本尊のお札(江戸時代ころ)



そもそも仏像とは何だろうか。

『御請来目録』には、

「密蔵深玄にして翰墨に載せがたし、さらに図画を仮りて悟らざるに開示す」

とある。

教えと云うものは難しく、文章では表せないから、

絵などで目から教える。


仏像は報身といって、

修行を積んだ結果を表現したもの。

だから、それは目標になる。


また、

本尊とは自心の源底にある清浄な種子を、

仏像の形に表現したもの。

密教では、識大、一切智々、本不生際などと云う。


要するに、悟りの、目的地のシンボルですね。



拝む時、

その対象は自分の心の中にいます。

それは大日如来でも観音様でも、ご先祖様でも同じ。

拝んでいるうちに、自分とそれが同体になる。


密教で、本尊の供養法を修法する場合、

拝む人と本尊が溶け合うように、

自分が本尊に入り、本尊が自分に入ることを観想する。

これを、ヨーガとか相応とか入我我入という。

これによって、

自分は思っているよりも、もっと大きなものなんだ、

だから、より良く生きよう、

とするきっかけになる。


なので、

拝む時には厨子の戸を開け、

大切なお客様をお迎えして対座するように、

本尊を見たほうがいい。


 
求聞持法や阿字観などでは、

拝む時には、本尊を目の前にして交流し、

それ以外は布などをかけて隠すことになっている。


秘仏にしても拝めないことはないけれど、

ちょっとどうなのかなあ、

とかんじている次第。





[ 2018/08/01 12:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
追いはぎがいた頃
同級生宅でお盆の供養 。

家の西側にグリーンカーテンがあり、ゴーヤがたくさん実っている。

数本所望したら、

どうするの?

と聞かれる。

食べるんだよ、油と相性がいい

と答えたら、

えっ、これ食えるの?

と云う。


 
素揚げしてニンニク醤油に漬ける。こういうものは新鮮なほどうまい。 


拝んでから、居間で昔話に花が咲く。

あの頃は追いはぎがよく出たねえ

そうだね、最近は見ないねえ

なんて。


僕らの世代、

中学時代に流行ったのが、札幌オリンピックとこっくりさん。

高校時代は「俺たちは天使だ」と口裂け女

こっくりさんは女子らが熱しすぎて禁止になった。

口裂け女も本当に信じていたので、出没地域には行かないように伝言がひろまった。

彼女はスーパーカブより速く走り、ポマードの匂いが嫌い

口が裂けたのは、

○○医院で手術を失敗したから、と聞いた。 


話していて感じたのは、

僕らの中学生時代は 、外で思いっきり遊んでいた、ということ。

よくやったのは、公園で二人対二人の野球

時には三人対三人にもなる。

ピッチャーと守備が同一チーム。

フライでもゴロでも捕ればアウト。取れなければヒット。

でも、ひとり(もしくは二人)だから内外野を走り回る。

キャッチャーは相手チームがバッターと交代で。

主審はキャッチャーが兼任、四死球もある。

ランナーは仮想で各塁上に置く。

それをちゃんと9回までやる。

 その他、

夏休み早朝はラジオ体操の後にキャッチボールをして、

午前中は毎日学校のプール。


もうひとつ、

あの頃はどの学校にも不良がいた。

彼らはタバコを吸い、主な役目は他校とのケンカ。

シンナーのウワサもあったけれど、

運動会や球技大会ではクラスのヒーローになる。

その不良を取り締まる、暴力OKの教師がいた。

不良だけでなく、真面目な僕らも理不尽に殴られた。

でも、

その先生らは僕らと一緒に遊んだ。教室でラグビーをしていると、

急に後ろから押してきて、教室のガラスを割るようなことになるのは先生のせいだった。

そして、

あの不良と手を出す教師がいなくなってから・・・。

ちょっとここには書けない。




今は自家用車に気を使っているけれど、

あの頃は、スピードメーターやウインカーがついている自転車に憧れていた。





[ 2018/07/29 07:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
現代的陰陽の実際

陰陽研究塾の記事 87   



現代的陰陽の実際






[ 2018/07/29 06:42 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
生死涅槃 2
死にたいと願う者はいないけれども

自分が造った行いによって

おのづと命の限界を

定めているのである
(『教王経開題』)


始めあれば終わりあり 生ある者は死あり

合会は離るることあり 良に以あるかな
(『性霊集』8)

前者は、

日常のありかたが寿命を決めており、

後者は、

人間は死ぬ、と云うことを認識すべき、

ということであろう。


僕らは、

家族を筆頭に、
 
友達、同郷、同窓などの集団に親しみを強く持つ。

同じ出身地、同じ学校、同じ興味、同じファン、同じ宗派だから特別、

というように。

もし、

同じ人間

という気持ちを持っていれば、みんな特別になるから、

害することも害されることも無くなる。

難しいけれど。



『戒序』には、

一切衆生をみること

なおし自身および四恩(父母、衆生、国王、三宝の恩)のごとし

この故に

あえてその身命を殺害せず

とある。


この、自分に引き比べて考えることを慈悲という。

その慈悲から生まれる優しさは他者の苦しみを抜き、

思いやりは楽を与える。

これも難しいことであるから、

気を抜かず慈悲に関心を持たなければ宗教は成り立たず、自心は解脱できない。 


解脱は自心の開放、つまり『自分』とか『特別』という執著から離れた途端、

生死涅槃(迷いと悟り)は無別になり、

心は自在で堅固になる

と『不動字輪観』にある。





[ 2018/07/28 11:20 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
生死涅槃 1
苦しみとは思い通りにならないこと、であり 、

その解決方法は、

ものごとの本質を明らかにすること、である。


死ぬことへの恐怖、その先の不安

これは思い通りにならない苦であり、そこから宗教は始まったといってもよい。

しかし、

死からの逃避が人生を空しくしている、

という面もあり、現代人は死を知らない。

人生でモノの豊かさを追求することに喜びを見出していれば、
 
死は、それができなくなることだから避けたいものになる。

人生の終止符・終着点を避けたいもの、にするのはどうなのだろうか。

お大師さんは、

「吾れ、永く山へ帰らん」と云い、高野山へ入り、後に入定された。

そこに苦としての死は無い。 



世間にはいろいろな死がある。

1903年、

一校生藤村操が「巌頭之感」を残して華厳の滝に投身した。

漱石はじめ多くの人がその死に驚き、

黒岩涙香は、少年哲学者と呼んで彼を絶賛した。
 
美しいとか、荘厳とか、憧れのようにもとらえられた。



映画『ジャック・サマースビー』で、

ジャックは、

周囲の応援者に任せれば裁判で無罪になる可能性が高いにもかかわらず、

自分の信念のために死刑になることを選び、誇りのために死ぬ。



落語『柳田格之進』では、

浪人ではあるが武士の誇りを捨てない実直な柳田が、

盗みの疑いをかけられたとき、

身の潔白を示すために、武士の本心を見せるために腹を切ろうとする。

しかし 、

そんなことをしたら、金を盗んだからそれを償うために腹を切った

と世間に思われる、と娘に言われ、自害を止める。

見かたによって死が変わるのである。


捨身や自己犠牲の死も少なくはない。

また、

意志的な死については『自死の日本史』(モーリス・パンゲ著)に詳しい。



さて、

死罪は昔からあり、今の日本には死刑制度がある。

多くの人がこの制度に賛成し 、

死刑を望む、という声はマスコミからよく聞こえる。

どうしてだろうか。



[ 2018/07/27 09:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
道草 亀戸辺り編
人生は旅である、

などという文章を見たことがあるような無いような。
 
お大師さんは、

「迷いの世の人々は

 あたかも宿屋における客の如くである

 しかも、その人々の一心こそ、

 仏の本心にして本来の住居である」

と『秘鍵』で云っている。

人生は旅、ということになるだろうか。


ちなみに、一心とは、

自分のことしか見ない心ではなく、

すべての人の楽しみも苦しみも、宇宙全体を観る心。


それはさておき、

いつもと違う道を曲がれば、それが旅の始まり。
 
普段は東武伊勢崎線が乗り入れる半蔵門線で錦糸町まで行き、

JR総武線に乗り換えるのだけれど、

過日は曳舟で降り、東武亀戸線に乗り換える。



全線3.4キロ、途中駅みっつの短い路線。

日中でも10分ヘッドで走るのはやはり都会である。


途中の東あずまで下車。

「東あずま」は東の東ではなく、東の吾嬬町(あづまちょう)



赤いのも黄色いのも、

東武のリバイバルカラー塗装。他に深緑色がある。


終点亀戸でJR総武線に乗り換え、いつもの道程へ戻る。




別の日、

亀戸駅から明治通りを新木場方面へ歩く。

小名木川橋で待っていれば、

やってきたのはEast-i-D



信号、通信、軌道などを測定する検測車、ドクターイエローの仲間。

ここは越中島支線という貨物線で、

通常は越中島貨物駅へレール輸送の貨物列車が走る、非電化(ディーゼル機関車)路線。



線路沿いの一部には、南砂線路公園があり、
 
一日3往復の貨物列車が見られます、

と看板にある。 


今回のこの列車、

新小岩発12:21→越中島貨物駅着12:29で、
 
帰りは13:42発と思っていたのに、すぐに折り返してきた。



この締川踏切に戻ってきたのは13:03 

鉄道ダイヤ情報に載っている時刻とも違う。どうなっているのだろうか。

何かミステリーに使えるかな。



仕事帰りの僧形で、荷物も多く、重ね着しているからとても暑い。

歩く元気がなくなったので、都バスに乗って東陽町駅へ。

そこから地下鉄で帰る。


今年の夏は暑いのに、

キレイな青空と入道雲を見ない。

夕立が懐かしい。







[ 2018/07/26 14:52 | Comments(0) | 道草 ]
不調が治るしくみ
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[ 2018/07/24 10:43 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
苦い野菜

陰陽研究塾の記事 8

苦い野菜
  



 


[ 2018/07/23 19:09 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
静座念光
納骨をして墓前で拝む。

墓地は暑いですねえ、

と、みなさんが云う。

帰りに寄ったガソリンスタンドの店員に、

暑いねえ、

と言ったら、

ここはコンクリートだからまだマシですよ、

アスファルトは堪らないです

と云う。

へえー、そんなことは気にしていなかった。

コンクリートは放射性同位元素を多く含 むから、放射線量が比較的高くなる、

というのは、あの日以降、知っていたけれど。


それはさておき、

お盆の前にお墓参りをするところは多いでしょう。

ご先祖様を迎えに行くとか、

家に来てもらう準備をする、

ということかもしれない。

いろいろ風習がある。

ご先祖さまは、お墓にいるのか、

極楽にいるのか、それとも仏壇の中か、

と考えれば、心の中にいる。


水に映る月のように、

水面の数だけご先祖様は映る。

心の水鏡がきれいなら何でもよく映る。

その鏡を磨いて、よく見えるようにするのが修行。


祈りの基本は自分の内側に懺悔し外に感謝する。

お墓はそこにご先祖さんがいるように感じられるから、

懺悔感謝しやすい。場所の力がある。

故人に対する自分の行いを懺悔反省し、

故人の言動に感謝すれば、

同じように現在生きている人にも、

それができるようになるかもしれない。

場所に関わらずそれができるようになれば、

自心は平安になる。


懺悔と感謝によって今の自分の生活がより良くなり、

健康で楽しく仲良く立派に生きていれば、

ご先祖さまも、生きている家族友人も喜ぶ。

故人のため、

というのはそういうことで、お経を唱えるだけでは供養にならない。



供養はその相手を尊敬することですが、

供養の最大は菩提心を発すること。

誰でも懺悔反省すれば仏になれるのだから、そうしようと勧めること。

誰でも仏なのだから、軽んじないこと。

例えば、わがままな心から優しい心に変わるように、

怨みねたみが慈悲深い心にかわるように、

子どもの考えかたが大人の思考に変わるように、

心は変化するから固定した実体はない。

だから執著せず、より良い心を目指すこと。

そして、

ご先祖さんにも有縁無縁の縁者にも、

懺悔反省できるよう、何でも映るきれいな心になるように観ずる。

その方法は、

「 息を調え心を鎮め清く妙なる光明を念じながら、

 息の自然の出入りとともに静かに徐に遍照無碍の霊光を心身全体に呼吸する

 心おのづから霊光と融合して明朗の一念に安住す」

と『大日の光』にある。






[ 2018/07/23 08:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心うきうき
この歳になっても上京の予定があると心がウキウキする。

今日は恵比寿、来週は池袋に用事がある。

東京には貨物専用線が多く、

用事の合間にそれを訪ねようと考えればまた、ウキウキする。


加藤純章博士は、

いろは歌「うゐの奥山けふ越ゑて」の「うゐ」はこの有為であり、

つねに変化してやまない迷いの世界を表している

と『日本大百科全書』に書いている。


宮坂先生の『暮らしの中の仏教語小事典』「有為」の頁には、

有為の奥山今日越えて、

この有為は「憂(う)い」と音の通づるところから、

憂いの多いこの世、という意味に解される。

憂き世は、江戸時代には浮世と書き、この世を意味し、

浮きうきしている世の中ということで、

当世風、色事、好色の意を表すようになった

とある。




有為はサンスクリットのsaṃskṛtaで、

「つくられたもの」「この一切の現象世界」のこと

無為はasaṃskṛtaで、「つくられないもの」「絶対の真理」

この有為無為の「為」は造作のことで、

有為は造作あること、原因と結果の因果因縁という造作のあること。

無為は、因縁所成の造作がないから、真如実相。


仏教ではあらゆるものを有為と無為の両面から考える。

現実と真如の両面から観る、ということ。

有為の立場から見れば、

あらゆるものは生滅変化しているから始めがあり終わりがある。

永遠不滅のものは無い、と云うのが有為からみた真理。

しかし、

あらゆるものが生滅変化するということは、

そのもの自体の本性がないということだから、

総てのものは生まれることも滅することもない、不生不滅である、

というのが無為の立場の真理。


僕らの心や身体も、

有為の立場では、生まれて変化して死ぬものだけれど、

無為から観れば、

本来不生不滅で、だから、他との妨げが一切無く、総てと相応瑜伽している。

これが即身成仏なのだけれど、

心がウキウキするのは有為の世界だから、

無常で、生滅のある世界。

しかしながら、

心もウキウキも空だと知れば、

それは不生不滅の真如悟りの世界である。

 

[ 2018/07/21 07:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
Be Kind To All Life
『Shingon Esoteric Buddhism: A Handbook for Followers』(1997)

をパラパラめくっていたら、

Be Kind To All Life

という言葉があった。

どういう意味なのかと思って読んでみると、

高野山のスローガン「生かせ いのち」の英訳なんですね。

みんながしあわせに

ということですが、

その根底には、

総ての存在はすばらしい、尊い価値を持っている、

という、お大師さんの思想があります。

どんな石ころでも雑草でも、

その中には宝石の原石や薬草の成分があるように、

貴重で素敵なもの。


 
総ての人は仏のように素晴らしいけれど、

いろいろ事情があって、または迷っていて、

困ったことになっているようなこともある。

迷っている苦しんでいるのは執著があるから。

でも、本来は清らかで美しい。

そして、

精神的にも社会的にも平等平等である。


そういう気持ちがあれば、

生かせ いのち になる。



当山本尊十一面観音には11のお顔がありますが、

慈悲深い、優しさと思いやりに満ちた顔

ちょっと道を外れると叱ってくれる顔

がんばれば応援してくれる顔

悪戯やウソをつけば、

コラコラと注意修正してくれる顔

それらの顔を持てるバックグラウンドには、

常に真如を追求する姿勢がある。



いろんな顔で僕らを見守り包む。

それぞれが慈悲のカタチで、

それも「生かせ いのち」


上記本には、お大師さんの言葉がいろいろと英訳されて、

それがとても美しい。

生かせ いのち

を象徴するお大師さんの言葉は『性霊集』にある、

When the sky no longer exists,

when all living beings have reached enlightenment, and

when Nirvâņa is expended,

only then shall my vow be completed,


[ 2018/07/19 11:05 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
脳談義
油が余ったので利休茄子




昔読んだ本に

坊さんは数珠を擦るが、

それによって掌のツボを刺激するから健康的である、

というようなことが書いてあり、

へえー、と思った。数珠を擦るのは、あまり品の良いものでは無い。

それよりも、

掌と指ををうんと反らすことができれば、動脈が硬化していない証拠であり、

親指の力が強くれば、肺が強いということだから死なない。

手首の骨が癒着していると脳が硬化して働きが悪くなるけれど、

打撃線をよく叩けば、手頚の八個の骨が癒着せず、自由に動くようになる。

すると、

物事の判断見通しがよくなる。

さらに、

足先と足首が固いと、脳の血行が渋滞しトラブルを招くから、柔らかくするとよろしい。  


 
この脳には、あらゆるものが含まれている。

過去現在未来総ての時間

全宇宙の全空間が入っている。

あの世、来世、霊魂、死後の世界、先祖、ウルトラマン、仮面ライダー、

地獄餓鬼畜生天国極楽、

それらは総て脳の中にある。

脳の中には亡くなった人がいて、供養すれば成仏する

などという理屈も脳内にある。

悟りも迷いも、好きも嫌いも脳の中にあり、

僕らが認識する限りにおいて、

脳の外には何も無い。


興奮するか落ち着くか

楽しくなるか不安になるか

安心するか悲しいか

勇気があるか、恐れおののくか
 
耐えるか、キレるか

これらも脳の中でのことであり、

脳内を流れる血の質で変わる。

その質は、

血を作る食べ物を始め、

呼吸、睡眠、精神状態、運動、休憩、

対人関係、自然環境によって変化し、

それによって、

無我になれるか、執著するか

と分かれる。 


言葉遣いひとつでも、

脳の血の性質が決定される。

そして、

僕の脳内にあるイメージは僕流のものだから、他人には分からない。

何とか言葉で調整することは出来ても、

あなたのイメージとはおそらく違う。

たとえば、

1000年前の飯田市立石寺門前で、

若い男女が手を合わせて祈っている、

その風景は、

僕の脳に在るのと、あなたのとではずいぶんと違う。

そして、

僕以外に見えないものだから、事実かどうかは何も証明できない。

多くの場合、

脳内で想像し、創造して、それを方便にしている。

証明できない世界をコトバで言いくるめているのが現実である。


そのとき

嘘か本当か、
 
思いやりがあるか、損得勘定か

それらは顔や手に現れる。


縁起の大本が脳にあるといって良く、

脳の中にあるからこそ議論し、その意味を追求することができる。

無いものの話をすることはできないのだから。 


できることなら、


その脳内イメージで、

生きる力、勇気と希望が生まれれば素敵である。

そして、

事実ではなく、脳内の世界なのだから、

冷静に理論的バックボーンを調えなければならない。





[ 2018/07/18 09:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夏の料理
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[ 2018/07/18 07:52 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
古本屋
土門拳『古寺巡礼』小学館  全7冊



表紙背中にキズ破れ日焼けがありますが

本文はキレイです。

どなたかもらってください、差し上げます。

送料着払いで送ります。


こちらも、もらっていただけるとありがたい


[ 2018/07/17 17:21 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
風心
エゴマの葉が繁ってきたので収穫して精進揚げ



衣は地粉とリブレフラワー同量

こうすると失敗が少なく、油をはじく。



竹炭粉を入れた夏野菜カレー

炭素はとても陽性、

なので適度に摂ればお腹が冷えない。

 
それはさておき、

檀家というのは寺または本尊のファンクラブと考えれば、

その御宝前で行なう坐禅瞑想はゲームである。

ゲームだからルールがあり到達点がある。

これは、なるべくぼんやりするのがいい。

あれもこれもとせず、どちらかといえば何もせず、大切のものをみつける。

宝探しである。


ファンクラブの特典として、

宝探しゲームに参加できる。


その場所はもちろん自心中。


せっかくだから何かしないと損をしたような気になるのが世間だけれど、

何もしないと不安になってしまうこともあるけれど、

人間は動物だか動くことが適しているのだけれど、

ただぼんやりする。

これは結構難しいもので、ただ坐っていることに耐えられないこともあるかもしれない。

スマホも触らない。


暑いけれど、時折悟りの風が吹く。

心の窓を開ければ、風が入る。

その窓の鍵は、宝探しである。

風と心が一つになった時、

一切の苦悩が消える。



[ 2018/07/17 08:04 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
現代医学では分からないこと

陰陽研究塾の記事 85   

現代医学では分からないこと
  





 

[ 2018/07/17 07:00 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
矛盾
これをやったら

もしくは

これをやらなければ、ここにはいられない

ということがある。

これはやりたくない、

自分の生きかたに反する

理不尽でおかしい
 
しかし、やらなければこの組織にとどまれない 。

やめてしまえばよいのだけれど、それができない。

これは苦しいですね。

こういうことは、会社でも学校でも部活でも町内会でも政治の世界でもあるでしょう。

もちろん、宗教にも。

 

オウムという団体は何を拝んでいたのだろうか。

本尊はあるのだろうか。

wikiにいくつか書かれていた。


最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在

というのはお笑いだけれど、

教義に無常観があり、輪廻転生も信じられているよう。

これは矛盾である。


無常は仏教の基本。あやゆるモノは変化している、ということ。
 
コップでも「私」でも変化しているから、

一瞬前のコップや私ではない。

川の水が流れて、常に新しい水が「そこ」にあるようなもの。


とうことは、コップとか私には、絶対に変化しない自性実体が無い、ということ。

宇宙でも時間でも、

「これが”宇宙”だ」

「これが”今”だ」

というものを取り出すことはできないのは、無常だからである。


輪廻転生は生まれ変わり。

教祖にはいろいろ前世があったらしい。


無常ならば輪廻転生しない。輪廻する主体が無いのだから。

そもそも、

存在苦しみなどの、

やらなければならない、などの、

無常無我を悟ることが、迷いからの解脱悟りである。
 
迷っているから、

怒り貪り嫉妬無知の世界を輪廻する。 

それに、

もし「私」という主体が存在するなら、

それは不変なものか変化するものか、どちらかである。

不変であるなら「私」は決して生滅せず、永久に輪廻を続けるから解脱できない。

変化するなら「私」はいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。


輪廻転生はあったら面白いけれど、

それと無常とは絶対に矛盾する。


無常であるからこそ、大切なのは心のあるようである。

勇気、忍耐、落ち着き、

同情慈悲、他人を理解しようとすること、
 

ところで、

三密行によって速疾に成仏するのが、密教の目的である。

三密行には次第があり、それに随って修法するのだけれど、

続けていくうちに、なぜこうするのだろうか、と疑問がわく。

そうすると原典を調べる。 なるほど、元々はそういう意味なのか、と理解する。


仏教の作法には如来菩薩明王などの仏さまが登場する。

次第の文章だけではイメージがつかめないけれど、仏像や仏画で表現されているので、

それらを文献や、各地の寺にまつられているものを観る。

ああ、こういうことだったのか、と理解する。
 
言葉ではわからなくても、モノを観ればわかる。

つまり、

やることが決まっていても、自分で疑問を解決しながら前進する。

こういう工夫が無く、妄信するだけでは何も解決できない。


これはカルトに限らず、

原発賛成もしくは反対運動でも、

部活動でも政治でも何でも、

同じである。



[ 2018/07/14 06:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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