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瞑想の極意:修行を生活に生かす
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[ 2019/11/15 05:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
豆腐とブッダの関係
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[ 2019/11/15 05:10 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
生老病死:生きる行為
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[ 2019/11/13 09:13 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お酒についての注意事項
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[ 2019/11/13 07:15 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
墓じまい仏壇じまい永代供養お骨預かり
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[ 2019/11/13 06:44 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
おふくろの味の問題点

毎日、家族のご飯を作っている人は、

どんな材料で、どんな料理をしているのだろうか。

インスタント、レトルト、冷凍食品は三種の神器、

それらがあれば、簡単に何でも作れます。

ナントカの素、の類も頼もしい。

ハウスの味、グリコの味、味の素の味、S&Bの味、

ニチレイ、ニッスイ、マルハニチロもいい。

それらを使っていても、

我が家とよその味は違うのだろうか。

違うとすれば何がどのくらいの差なのだろうか。

カレールーは2社のものをブレンドする。

そこに、余った惣菜とチョコレートを足す、

そういう工夫もあるだろうな。

もし、

市販の材料で、

そこに書かれているレシピで、

みなが同じように作っているとしたら、

どこの家のおふくろの味も同じになるかもしれない。

みなが同じ味のものを食べている。

そうだとしたら、ちょっと不気味。


あるお宅で食事をいただいたら、

醤油が驚くほど不味かった。

味噌も、一番安いものを使うと云う。

そういう生活の工夫がある。


楽しく食べるのが一番だけれど、

旬の材料、

天然醸造の調味料

いろいろ考えて作る

そういうことが大切だと考えています。



[ 2019/11/12 10:20 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
勇気ある人
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[ 2019/11/12 06:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
家族葬の欠点
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[ 2019/11/11 13:04 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
うつ病の事情
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[ 2019/11/10 10:44 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
南無大師遍照金剛を唱える人
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[ 2019/11/10 07:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
苦・悩・迷・憂・不安を消す方法
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[ 2019/11/10 06:35 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お相撲じいさん
公民館に併設されている温泉へ行ったら、

楽しいおじいさんがいた。

湯船から上がると、

風呂の床で四股を踏み、

壁に向かって鉄砲していた。

さらに、

湯船へ入るスロープに坐り前屈。


お風呂の外には宴会場があり、

お年寄りが集まって、宴会、カラオケ、楽しそう。

町の施設だから料金も安い。

そういうところで、

ひたすら運動しているおじいさんはすばらしい。



会合会議打ち合わせなど、

何かあると、その後に飲み食い宴会をすることがあります。

それをやらなければ気が済まないようである。
 


費用を抑え、

なるべく安いもので宴会をしようとする場合もある。

なぜ、わざわざ質の悪い酒を貧弱な肴で飲まなければならないのか。


そもそも、

飲んだり食べたりするより、

ボウリング、バッティング キャッチボールなどがいい。

運動できないのなら、

勉強会がいい。


多くのひとが病気で肥満で運動不足である。


[ 2019/11/09 08:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
善良で幼稚な人々
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[ 2019/11/09 07:02 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
不味いものの代表・こだわり
材料や料理法にこだわっています

と聞いたとたんに食欲が失せます。

いかにもまずそう。
 
こだわるのは自由だけれど、

言わないで欲しい。



そういう人がいるお店には行かないけれど、

こだわらない部分を出したほうがさわやかですし、

そもそも、料理は、

何も言わないでお出しするものです。

どんなものでも、

能書きのつかないものがいちばんうまい。



人生や生きかたにこだわる

なんていうのも気色が悪い。


そういうことは、

たとえ持っていたとしても、他人に言うことでは無く、

内緒にするべき秘密です。


秘密は恥ずかしい部分であるから隠します。

その恥があるからクオリティが上がる。




[ 2019/11/09 06:42 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
池谷駅
「いけのたに」

と読みます。JR四国の駅。

中学生時代に愛読した『シーナリィ・ガイド』は、いまや伝説的な模型誌ですが、

そこに出ていた風景のひとつが池谷駅。

高徳線と鳴門線の分岐点にあり、

Y字型に分かれた線路それぞれにホームが設置された、独特な構造。

今は無人駅です。


いつか行ってみたい

いつかこのような形のジオラマを作ってみたい

と長年思っていました。

その後、

何度か訪れることはありましたが、

送迎や乗り換えなどだったので、

今回、近くへ出張した時に、立ち寄ってじっくり観察しました。


広々としたレンコン畑の中に通る線路、

ディーゼルカーのエンジン音、

鳥の声、

青空と涼しい風、

楽しい時間でした。

動画を撮りました。







[ 2019/11/09 06:20 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
故人の成仏
故人とは死んだ人

成仏とは仏(ブッダ)に成ること

全ての存在には仏性(仏の性質)があるから、

だれでも仏に成れます。

戻れる、と言ったほうがよいかもしれない。

仏になる(戻る)ためには勉強と修行が必要

仏に成るとは、正しい智慧を得る(智慧そのものになる)こと

勉強、修行、智慧を得るには肉体、とりわけ脳が必要です。

したがって、

肉体が無い、この世にいない人が成仏する事はありえない。

電車に乗ることも、レストランへ行くこともできないように。


死ぬのは当人にとって苦であり、縁者にとって悲しみです。

なぜでしょうか。

それは、生きることに執著しているからです。

生命に執著する。

死や老や病は、その生命を破壊するから苦悩になり、

避けたいものになります。

なぜ生命に執著するのか。
 
肉体や家庭やそれを取り巻く世界に執著するから。

なぜ、それに執著するのか。

肉体や家庭などを自分のものとして執著するから。

それもなぜか。

欲があるから。

なぜ欲があるのか。

自我があるから。

ここが問題ですね。

自我は実在していません。単なるイメージです。

無いものが執著しているのです。


自我は無い(無我である)、

自分だけでは存在しない、自我という固定的な存在性はない、

これが正しい智慧のひとつです。

総ては縁起によって生じて滅し、空であることを体験していないから、

欲が起り 、

欲によって執著が生まれ、
 
執著によって生命や家庭に執著し、

その生命や家庭を破壊する死が苦悩になる、

と考えられます。
 

ではなぜ、

葬儀法事などで故人の供養をするのでしょうか。

古来、死者は霊になると考えられました。

それは物の怪であり、

畏怖の感情に根づいており、

それを慰撫し、祭ることで畏怖から解放されます。

そうして鎮魂されなければ霊は祟るものと考えられました。

死は避けたい、怖いものだから、

みな、生命に執著しているからです。


『性霊集』にある死者の追善菩提を願う文章では、

霊が祟るものとして考えられていません。

すべての存在には仏性があるので、

死者の霊にもそれがある、という立場で、

心中の仏を出現させ、

心中の仏法を聞いて悟る、

つまり、成仏を祈願される霊になっています。

死者は鎮魂されるものではなく、

成仏を願われるものになります。

これらは無我の思想と矛盾します。

まったく合理的でなく、論理的でありません。

霊という実体は無いのですから。

でも、それでよいのでしょう。

死の悲しみを、追善供養することで鎮め、

成仏したことにして安心する。

生きる人が、いつまでも悼み悔やんでも益がありません。

なので、
 
生者のために法事をして死の事実を受け止めます。

成仏するかどうかは、生きている人の脳が考えます。



自分が成仏する(故人を成仏させる)ためには、

仏と自分と衆生が平等であるとの立場で、
 
仏と自分と衆生の、

体と言葉と思いが相応するという三密行(瞑想修行)が必要です。

この修行は、三昧耶戒を保たなければできません。

三昧耶戒の内容は、

大悲(救いの心と行い:生きるとは他を救うことと自覚する)
勝義(道を求める心と行い:存在とは何かを追求する)
三摩地(心の源底を知る精神集中:自由になる)




[ 2019/11/08 08:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
回向は戒を土台とする
『華厳経』には回向の論理が詳しく説かれていますが、

回向とは、

change 或いは development を意味する言葉である、

と『佛陀の智慧 華厳経講話』(坂本幸男著)に書かれています。


回向についてポピュラーな偈文は、

『法華経』化城喩品の一節で、
 
願以此功徳 がんにしくどく
普及於一切 ふぎゅうをいっさい
我等與衆生 がとうよしゅじょう
皆共成佛道 かいぐじょうぶつどう

願わくは、この功徳をもって
あまねく一切に及ぼし
我等と衆生と 皆共に
仏道を成ぜんことを

というもの。

自分が善い行いをする、

その果報を自分だけのものとせず、

あえて自分以外のものへchange或いはdevelopして、

その平安を願う、

ということでしょう。
 

この「善い行い」とは、

戒律を守って、ブッダの教えを勉強し、修行することです。

意味も分からずに読経することではありません。

回向は、戒を土台とします。

 この戒は、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)。

①摂律儀戒(しょうりつぎかい)  :諸悪をみな断じること。
②摂善法戒(しょうぜんぼうかい) :積極的に諸善を実行すること。
③摂衆生戒(しょうしゅじょうかい):一切の衆生に優しさと思いやりを持つこと。

これを保つことが回向になります。










[ 2019/11/07 07:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
信仰の構造
仏教で信仰の対象とするものは、

1、因果の法則

善い行いに対し幸福な結果があり、

悪い行いに対しては不幸な結果がある、

という因果応報。

偶然というものは無く、それは原因を知らないだけ。

因果の道理を信じることは、
 
成仏への手段であり、いつか無我を知り、一切を悟ります。


2、苦集滅道の四諦

人生は思い通りにならない苦であると現実を認識し、

執著から生じる現実苦が現れる経緯を観察し、

正しい勉強と心のトレーニングによってそれを滅する。


3、仏法僧の三宝

法宝と僧宝は仏宝に集約されます。

仏宝の基本は五部法身。

戒・定・慧・解脱・解脱知見の五つで、

戒を保つことで禅定(心を静かにまとめ集中する)ができ、

禅定によって智慧が生じ、

智慧によって苦から解脱し、

自分が解脱したこと自覚を得ます。

現実世界を迷い執著抜きで、ありのままに見る智慧を得る、

それが仏に成る、ということです。

自心中にそういう仏があることを信じる。


仏(ブッダ)は、

どこか他の世界から来るのでもなく、

どこか遠い世界に住んでいるのでもない。

修行の結果、到達した境地を仏(ブッダ)と云います。

ですから、だれでも仏(ブッダ)になれます。


首位打者もホームラン王も、

最初から決まっているのではなく、

工夫精進練習してなれるように。


上記のように、

仏教における信仰の対象は実在性のあるもので、

しかも自分で確認できるものです。

そうでなければ、妄信妄想。

なぜ生まれてきたのか、

人生の意味、

なども自心を知ることで確認できます。

縁起、空、無我によって自分や他の存在が確認され、

存在と実体の区別ができ、

本性清浄が確認できます。


『釈論』には、信の十義があります。

澄浄・決定・歓喜・無厭・随喜・尊重・随順・讃歎・不壊・愛楽

の十ですが、

田中千秋先生の『三昧耶戒序の理解』には、

「たとえば澄浄とはまじり気がないということであり、

 歓喜とは憂いや心配がないということである。

 信心するとその人の心はまじり気なく澄み、

 くよくよと心配ばかりということがない。

 乃至人の善行をみて喜び、徳者をみては尊重するなど。

 十義の中で一番重要なのは澄浄である。この中に他の九義は含まれる。

 では、何を信じるのか。何を無条件にうけいれるのかというと、

 修道の目標と修道法である」

とあります。



[ 2019/11/06 11:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
放射能の影響

陰陽研究塾の記事 126  

最近の神奈川と千葉の事例です。

放射能の影響







[ 2019/11/06 06:50 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
言葉の秘密
人をほめるのと、けなすのとでは、

その後の関係や心の動きがずいぶんと違います。

どう行動するか、どのように思うかも、

業が違う。

行いや言葉が品行方正でも、

心の中はそうでもない、

ということがあるかもしれない。

密教以前の仏教では、

体と心の成仏(仏の行い、仏の思い)は多く説かれていますが、

言葉については、言亡慮絶というような面があります。


真言行者は、言葉こそ最も重要である、

という記述が『別行次第秘記』に見られます。

なぜなら、

真言宗は真言陀羅尼宗とも云い、
 
儀軌次第を念誦儀軌、念誦次第と号するから。

宗名については、

『金剛頂分別聖位経』に、

「真言陀羅尼宗といっぱ、一切如来秘奥の教、自覚聖智修証の訪問なり」

とあります。


言葉(真言)が重要な理由は、

心が修行によって純化上昇するのは言葉(真言)が入り口である。

言葉には形・音・意味があり、

その意味にさまざまなレベルがあって、

極致が仏智である。

だから、念誦が最要。

唱える時には、まず仏と自分と衆生が平等であると観想する。

自分は法界に遍じているから、唱える真言も法界に遍じている。

宇宙の音、衆生の言葉も真言であり、法界に遍じているから、

みな自分の真言となる、

ということ。

また、『大日経疏』には、

「この教の諸菩薩は真語を門として、自心に菩提を発し即心に万行を具し、

 心の正等覚を見、心の大涅槃を証し、心の方便を発起し、心の仏国を厳浄す」

と書かれています。



そもそも真言とはなにか。

いくつか引いてみます。

「真言とはいわく語密に就いて名を得

 もし具に梵語によらば、曼荼羅となづく」(『十住心論』) 


「仏界の文字は真実なり。故に、経に真実語、実語者、不誑語者、不異語者という。

 この五種の言、梵には曼荼羅という」 

「この真言は何をか詮ずる。よく諸法の実相を呼んで不謬不妄なり。

 故に真言となづく。その真言いかんが諸法の名を呼ぶ。

 真言、無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに、

 大日尊の海印三昧王の真言に出でず」(『声字義』) 


「真言とは梵には曼荼羅という。即ちこれ真語、如語、不妄、不異の義なり。

 龍樹の釈論には、これを秘密号といい、旧訳に呪というは正翻にあらず 」(『大日経開題』)


真言は呪文ではない。

懇請、願望達成、同一化を目的とするマントラではなく、曼荼羅である。

宇宙を構成しているもの、法界、真如そのものである、

というのがお大師さんの立場です。




[ 2019/10/30 06:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
店の匂い
東京の路地を歩いていたら、

行列のできているお店があった。

天ぷらの有名店らしい。

前を通ると、漂う油の匂いが強く、

胸がムカムカした。


僕が好きな天ぷら屋は油臭くない。

油が新鮮だからか、

お客ごとに濾して入れ替えているからか。

掃除とか、風通しの問題なのか。

もちろん、油以外の匂いもしない。

蕎麦屋でも小料理屋でも、

僕がうまいと感じる店は特別なにおいが無い。

拝みやすい寺も、

心安くつきあえる人も、

そのような気がする。



[ 2019/10/30 05:11 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
精進?料理?
「広辞苑」には、

【精進料理】 精進物の料理⇔生臭料理

とあり、

【精進物】 肉・魚介類を用いない食物。野菜類・穀類・海藻類の食物⇔生臭物

とあります。


『片言』(安原貞室)には、

料理は魚鳥を調理するもので、

精進物を調理したものは調菜というのが正しい

とあり、

そうなると、精進料理という言葉はありえないことになります。

まあ、それはそれとして、ちょっと考えてみましょう。


密教の修行生活中は、

基本的に持斎。これは、正午を過ぎて食事を摂らないこと。

ある期間を菜食に限るとするのは、

「断五穀令菜食」(『八千枚之事』)

などにありますが、

この菜食は「五穀を摂らないこと」

専心供養を行じる時は断食。

『不動使者陀羅尼秘密法』には、四種の精進行として、

1、断食
2、服気
3、食菜
4、節食

をあげています。


精進は仏教修行カリキュラムのひとつです。

サンスクリット語 vīrya(ヴィーリャ)の訳で、

悪を断ち、善を実践し、雑念を去って修行に励む積極的な姿勢。

淡々と真面目に、ということ。

他のカリキュラムである、

布施(惜しまない、ケチらない)
持戒(慈悲と向上心を忘れない)
忍辱(耐え忍び、微笑む)
禅定(心を静かにまとめ、観察する)
般若(空を体験する)

と同時に修めるべきものです。

仏教の土台は戒律であり、

それを保つことで禅定(心の集中)が得られます。

そして、そこから智慧が生じます。

ですから、

戒がなければ精進も期待できない。

戒のない坐禅は、単なるリラクゼーションであり、

戒の無い読経や儀式はパフォーマンスに過ぎません。

同じように、

戒の無い調理は、精進物を使っていても、

単なる野菜料理であり、精進料理ではないでしょう。

 
精進料理は、何を作るかよりも、

どのように作るか、どのように食べるかに重きがおかれます。

修行だからです。

まとまったものでは、

道元さんの『典座教訓』と『赴粥飯法』がありますが、

現在の食時作法にある五観に、もっともよくその精神が現れています。

五観 
一には、功の多少を計り、彼の来処を量れ  
(己の行為をかえりみ、この食べ物が如何にして作られたかを思う)

二には、己が徳行の全か闕か多か減かを忖れ  
(己の徳を積む行いが、完きか欠けているか多いか少ないかを思う) 

三には、心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず  
(善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う) 

四には、正しく良薬を事とし、形苦を済はんことを取れ  
(食べ物はいのちを養う為であり、正しい食物を必要の限度にとることを思う) 

五には、道業を成ぜんが為なり、世報は意に非ず  
(自他ともに幸せになることを目標にして、徒に世の栄達を願わざることを思う)

悟るために作り、

悟るために食べる、

ということ。


『秘蔵宝鑰』上に

ただ日夜に営々として衣食の獄につながれ、

いたずらに遠近にはしりおうて、名利の坑におちている。

禽獣を狩りつくすとも、心にはいまだ飽き足らず、

厨屋(くりや)には魚鳥が満つれども、

舌にはなお飽くことをしらずして、殺生を犯している

とあり、

これについて、中川善教先生は

物にのみ執著し、飽くまで欲を追い求める恣意の生活から、

本具の仏性を開顕すべき勇猛心の生ずることは、

得て望むべきことではあるまい

と『八千枚護摩供』に中に書いています。


具体的なことでは、

精進料理の眼目は、

命をいかすこと。

調理としては、素材の味を引き出すことで、

それは出汁と塩によります。

相手の良いところを引き出せるようになれば、ありがたい。

砂糖と化学調味料は、

それ自身の味が強すぎるので、素材の味を消してしまうことがあります。


辛酸甘鹹苦の五味のほかに、

淡味を大切にします。

後味とも云い、

食事が終わった後で、おいしかったと感じるような味。

そして、

常にこれが最後と思って料理する 、

この後、いつ死ぬのかわからないのだから、

最高のものを作ろうとする、

それが精進の姿勢です。



[ 2019/10/29 11:43 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
入我我入
宇宙のことを 、

法界、仏、大日如来、曼荼羅などとも云います。

この宇宙を、

太陽系などがある実際の宇宙と考えるのは、浅略で初心者向けです。

深秘の解釈では、

宇宙は不生不滅で、

言葉、塵垢、因果を超越した不可得なもの、

の象徴。

これは分析智ではなく直観智で得られるものですが、

とにかく宇宙は仏であり 、

我即仏、我即法界、

つまり私は宇宙である、ということ。


入我我入(にゅうががにゅう)は密教瞑想の基本で、

拝む人と本尊の三密(身体、言葉、心)が平等であることを観じます。

 あらゆるものは大日如来の顕現ですから、

世の中に、一つとして仏でないものはなく、

現在の凡夫である私も、いずれは仏になります。

勿論、

仏が外にいて、吾が身中に入るのではなく、

元々わが身中にある仏を現すために、入我我入の観想をします。

本来、仏は身中にあるのだから、

それが顕れれば、私は仏であり、

私の言葉は仏の言葉です。

心の窓があいて、外と心がひとつになって仏の説法が流れてる。

その風は鼻から出て、また入ってくる。

それが真言です。

大きな広い宇宙の中に自分がいる。

これは事実です。

その宇宙の姿形景色は自分の脳のなかにある。

これも事実。

その脳内の宇宙の中にいる自分を探してみます。

そうして、

自分と宇宙が相応していることを知ります。

さらに、

全ての事象について、

自分と相手は相応しています。

この時、慈悲が生じます。


『秘蔵記』には、

「諸仏は遍法界の身なれば、吾が身諸仏の身中にあり。

 吾が身遍法界の身なれば、諸仏の身吾が身中にあり。

 たとえば因陀羅網の如し」

とあり、

これは、

『三平等観』にある、

「吾が身は即ち印、語は即ち真言、心は即ち本尊なりと観づべし。

 この三密平等平等にして法界に遍ぜり。

 これを自の三平等となづく。

 吾が三平等と本尊の三平等と同一縁相なり。

 これを他三平等となづく。

 ただ本尊と吾が三平等と同一縁相なるのみにあらず。

 己成未成の一切諸仏の三平等もまた同一縁相なり。

 これを共三平等となづく。

 同一縁相の故に真言印契等しきが故に、諸仏を吾が身中に引入す、
 
 これを入我という。

 吾が身を諸仏の身中に引入す、これを我入という」

が基本となっています。


『別行次第秘記』では、

「本尊の三密遍法界の故に、吾が身本より本尊の身中にあり

 吾が三密もまた遍法界のゆえに、本尊もとより吾が身中にいます。

 六大無碍にして常恒に相応するがゆえに心、仏、衆生の三密、

 各々法界に遍じて互相加入し、彼此摂持して感応道交し速疾に顕得す」

とあります。









[ 2019/10/27 06:37 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
そば好き、うどん好きの違い

穀菜食の舎メールサービス 
2019.10.27


そば好き、うどん好きの違い 




[ 2019/10/27 06:02 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]



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