忍者ブログ


精神集中の位置
『大日経』に、

「菩提と一切智性は自心の中に尋求すべし」

とあります。

その自心はどこにあるのか、

そもそも、そんなものがあるのか。


何をどこに観想するか、

は瞑想行の効果に影響します。

『破地獄儀軌』関連では、
 
腰より足

臍より心

心より頂

に、それぞれ仏身と真言を観想します。

これは、引導作法、開眼作法などの観想でも同じです。


『金剛頂経』では、hṛdayaという単語が使われているので、

月や金剛杵を観想するの場所は心臓、と考えています。

『秘蔵記』には、

黄 地輪  阿  腰下
白 水輪  卑  臍
赤 火輪  囉  胸
黒 風輪  吽  髪際
青 虚空輪 剣  頂上


『大日経』巻5(秘密曼荼羅品大11)では、

地 阿 方  黄 足~臍 金剛輪
水 囀 円  白 臍~心 水輪
火 囉 三角 赤 心~咽 火輪
風 吽 半月 黒 咽~頂 風輪
空 欠 団  種々色 最上 虚空輪

となっており、『即身成仏義』にも引用されています。

覚鑁さんの『秘釈』では、

陰陽五行説と密教の五大を組み合わせた方法が書かれており、

五臓と五大と五字を観想することで即身成仏すると説かれています。

『理観啓白文』には、

「一字も臓に入れば万病生ぜず、即身に仏身の空寂を証得す」

とある。

自心は法界ですので、

宇宙全体が自心であり、

自心の中に宇宙全体があります。

自心と自心以外の境目は無いといってよいでしょう。

いずれにしても、

瞑想、観想では、身体を使って仏身と仏界をイメージしますが、

身体全体(法界)に集中するか

一点(本不生・空)に集中するか

の違いがあり、

体調と、何を観想するかによって変えます。

一般的には、

一切智々を獲得する場所として、

下腹部、心臓、喉、額、頂上のうち、

瞑想しやすい位置を選んで、試してみるのがよいでしょう。


Ofuse お布施箱 




PR

[ 2020/07/07 06:59 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
あうんのうん
一切智々は、

絶対の世界を知る智慧、大日如来の智慧。

虚空のようにあらゆる分別も無分別も離れ、

いのちあるものの拠り所であり、

無智の薪を焼き、

迷いの塵を除き、

いのちあるものを歓楽させる。

この智慧を得るにはどうすればよいのか、

『大日経』(住心品)には、その方法として、

「菩提心を因となし

 大悲を根となし

 方便を究竟となす」

(三句の法門)とあります。


求める悟りはすでに自心の中にある。

これを深く信じ、うわさ話や縁起の法則に外れる戯論を捨て、

この心を健全に育てるため、

行い、言葉、思いを仏と同等にする瞑想(三密行)を修行する。

仏のそれは、

優しさと思いやりが基礎になっている。

そして、

仏の慈悲の行いによって、愚かさの迷いが除かれ、

本からある自心中の仏が顕現する。

『秘蔵記』37には、
 
菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす。
これ真言行者の用心なり。
凡位より六度を修行し、円満して成仏す
故に方便をもって究竟となすという。
成仏以後に大悲をもって衆生を済度す、
故に方便を究竟となすという。
向上向下に文を読むに異なることあり。

とあり、

方便とは、智慧と慈悲の具体化、ということ。

『吽字義』には、

三句は一字の吽字

とあります。

上記、菩提心、大悲、方便の集積が、

吽の一字にまとまる。

これは、大乗仏教から密教への転換です。

『大日経』では悟りの方法として、如実知自心を説きますが、

自心を如実に知るためには、長いトレーニングが必要です。

しかし、

『金剛頂経』になると、

自心の源底に通達する真言を、好きな回数だけ唱えることで、

その長いトレーニングと代替できる、と読めます。

これのあたりも、大乗と密教の違いかもしれない。

それはさておき、

吽は阿吽(अहूँ:a-hūṃ)の吽。

阿は、

口を大きく開いたときの音、 全ての始まり、基本、すべてを生み出すもの、

だから、真如、宇宙の本体、本不生=空のシンボル。

吽は、口を完全に閉じたときの音、到達点、究極、悟りの象徴。


『吽字義』には、

吽(hūṃ)は、

賀(ha)・阿(a)、汗(ū)、麼(ma)の合成であり、

それぞれ、

因縁生、不生、損滅、増益という世界の真実を証明する意味があり、

とにかく、

現実世界に即しながら悟りの世界を生きる、

という内容が吽字にあります。

それを瞑想して身につけます。


Ofuse お布施箱 





[ 2020/07/06 10:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
本源
出汁は淡いけれど奥深い味があります。

そこに、調味料を多く足して、その味が勝ってしまうこともある。

揚げ衣には塩味などがついているけれど、
 
ソースやドレッシングをかける。

そして、その味が強くなる。

素材の味を引き出すか、

味を着せるか、

という違いがあります。

『一切経開題』に、

「修行の人すべからく本源を了すべし。

 もし本源を了せざれば学法益なし。

 いわゆる本源とは自性清浄の心なり」

とあります。 

自性清浄の心とは、菩提心であり仏心。


波がたくさんあっても海は一つであるように、

いろいろな人間がいて差別区別があっても、本性に至れば同一。

その本性が自性清浄心。

その反対が個別心。

個別心は多くの場合、

自を優先して他を低く見る傾向があるので、

貪り瞋り愚痴慢心邪見が生じます。

けれど、

個別心にある自他、仏と自分の仕切りを少しづつ低くして、

自性清浄心に近づけることはできます。

そういうものが自心の根底にあるのだ、

ということを信じる事は瞑想修行にあたって重要です。

心をソースや調味料で飾らないで、

心の素材となっている味を引き出す、

そんな感じ。


Ofuse お布施箱 






[ 2020/07/05 05:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
体質改善
迷いから悟りへの修行カリキュラムに六波羅蜜があります。

布施(ほどこし)、持戒(いましめ)、忍辱(耐え忍び)
精進(はげみ)、禅定(こころまとめ)、智慧の六つ。

これらは対処療法です。

頭痛腹痛にそれぞれの薬を飲むように、

貪る欲に布施、怒りに忍辱、怠惰放逸に精進、

愚痴、慢心、邪見に持戒禅定智慧など。

これに対し、

体質そのものの改善を目指す方法もあります。

迷いなどの心を散乱させるものがある身心で、

迷いを取り除き身心の浄化を図ることは限界があります。

しかし、

心についた垢や汚れを取るのではなく、

心そのものを観る、心そのものを強くするほうが効果が高い。

身は仏の住居であり、

心は本来仏であり、

悟りそのものである、

それを菩提心と云い、

菩提心に通達すれば大覚の位を証す

と『菩提心論』にあります。

この菩提心を修習する方法はみっつ。

勝義(道を求める向上心・勉強すること)

行願(自他を救う慈悲心・優しさと思いやり)

三摩地(勝義行願を身につけるための瞑想修行)


Ofuse お布施箱 






[ 2020/07/04 06:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
即身成仏
即身成仏(この身のままで仏に成る)は、

縁と条件によるものではありません。

みな、本来仏、という立場です。

現在の自分は仏とは到底見えないけれど、

本当はそうなんだ。

これは、

現象は真理である、

ということで、仏と自分、悟りと迷いなどの分別を越えた立場です。

これは原則であり、体験する世界であり、

信と智慧が無いと、ちょっと危険。

怠惰で放逸なままでも仏だからいいんだ、ということではない。


ともあれ、

全ては真理(大日如来)の色と形と香を持っています。

本来はそうなんだ、

ということを繰り返し自心の中で確認します。

そうして、

仏の位をもぎとろうとするのではなく、

仏のほうから届けられるようになる。

『即身成仏義」には、

三密加持すれば速疾に顕わる

として、その加持について、

加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す
仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい
行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく
行者、もしよくこの理趣を観念すれば、
三密相応するが故に
現身に速疾に本有の三身を顕現し証得す

とあります。

つまり、

如来の大悲と衆生の信心が相応すれば、

この身のままに悟りを証する。

でも、

如来の大悲は常に降り注がれ、天然不変であるのに、

それを受け取る僕らの姿勢に高下、純不純があります。

だから、

うまく受け取れないことが少なくない。

自分は大日如来(真理)の親族であり、

自分の前にいるのだけれど、見えないことが多い。

いずれにしても、

鉱石がひとりでに宝になるのではなく、磨かれて宝となるように、

万人はもとよりの仏だけれど、

仏の驚覚(自然を含む、自分以外からの誘い)によってそのことを実感します。


Ofuse お布施箱 





[ 2020/07/03 07:53 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
身と欲
歳をとって身体が弱くなる。

なのに、欲望が強いのは苦しみのひとつです。

身体が枯れるにしたがって、欲も枯れれば楽。

何かにこだわりがあると、それを維持するのにはずいぶんとエネルギーが必要です。

歳をとって体力が低下すると、

それができないから諦める。

まあ、いいか、と。

それで楽になる。


これじゃなきゃイヤだ、

と強情になるにも、精神力が必要です。

心身は不二なので、

その力が低下すれば、どうでもいいことが増えます。

どうでもいい、と思えば楽になる。


笑うことが、もっとも自他を平安にします。

今日が最後、

と考えれば、最後の思い出は笑顔でいたほうが自他ともに気分が良い。

怒るより、笑うほうが楽な気がする。


今日が菩提を得る最後のシャンスかもしれない、

そういうふうに考えています。


Ofuse お布施箱 





[ 2020/07/02 07:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
勉強と実践
勉強せず、理論的バックボーン無しで実践すると、

錯覚や妄想に陥る危険があります。

実践せず勉強だけなら、

頭でっかちになり、やはり妄想や戯論になりがちです。

実践の前に勉強する。

理論を調えて実践で証明する。


肉体を苦しめる極端な苦行をしても、

宇宙の真実を知らなければ、

自分の心の源底に達していなければ意味はない、

苦行など無駄である。

そう聞いて、

じゃあ、苦行などやっても無駄、意味は無いと思う。

果たしてそうだろうか

そう聞いたからと苦行をしないのと、
 
苦行をしてみて、やはり意味はないと体験するのとでは大いに違う。

 
富士山は高い。
 
それは誰でも知っているけれど、実際に上った人にしか分からない高さがあります。
 

勉強も実践も、つるまいないのがいい。

集団には真実がないことが多いから。

 
Ofuse お布施箱 






[ 2020/07/01 06:49 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
縁起雑感 2
実在(真理)がそのまま現象になっている、

という縁起から、密教の縁起論が発展します。

身体の行動、言葉の音声、心の思惟

このみっつが、仏のそれと同じになる時、

つまり修法面では、

印を結び、真言を唱え、本不生空を観想する、

生活面では、

心のこもった優しい行い、言葉、思いを持つ。

それが、

仏の行い、言葉、思いと一致した時、

成仏します。

仏レベルになると、

行いは言葉と等しく、

言葉は想いに等しく、

思いは行いに等しい。

宇宙全体の、

形あるところが仏の行い、

全ての音声が仏の言葉、

全ての理は仏の思い。

つまり、

それが宇宙の働きであり、

その姿・世界は曼荼羅と呼ばれます。

イメージの姿、

シンボルの姿、

文字の姿、

行動の姿のよっつの曼荼羅。


この姿を現している根本が六大。

固体、液体、気体、エネルギー、空間、心

それは、宇宙に遍満しています。

仏の働きがある仏の世界を支えるものですから、

六大は仏・真如です。

こう考えると、

宇宙は悉く同体であり、

宇宙に存在する限りのものは、本来的にそのあるがままに常住の仏。
 
宇宙界の色形動き音香味感覚は、

真理の絶え間なき説法の姿。 


とにかくすべては六大の蔵であり、

六大は万有生成流転の根源で、

宇宙に遍満して誰にも邪魔されることなく、

互いに相応しています。

この、六大が本体であるということは、

全ては不生不滅の空である、ということです。

現実に有るものは、生じて滅するけれど、

その本体である六大は生じることも滅することもない。

これは、経験する世界です。


『大日経疏』第七に、

「縁より生ずるもの悉くみな始め有り本有り

 今、この能生の縁を観るに、また亦修因縁より生じ、

 輾転縁に随う。だれかその本たる。

 かくの如く観察する時、即ち本不生際を知る。

 これ万法の本なり」

とあります。

六大も、六大によって構成される僕もあなたも、

山川草木星月すべても、

如来の三昧耶身というのが密教の立場。

三昧耶は仏の誓願が現れたもの。

僕が闇を明るくしたいと思って満月になる、

その時、満月は僕の三昧耶身。

シンボル、アトリビュート、印鑑、サイン、花押、

そういうもの。


Ofuse お布施箱 






[ 2020/06/30 10:02 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
縁起雑感 1
『自説経』など初期仏典にあるように、

これ生ずるが故にかれ生ず

これ滅するが故にかれ滅す

これあれば、かれあり

これなければ、かれなし

というのが一般的縁起です。

存在が生じる原因は、必ずふたつ以上あります。

これは、

存在とは何か、

自分とは何か、宇宙とは何か、

を知ることです。

それを知ってどうするのか。


もし、

宇宙の仕組みを知り、

その中にいる自分の地位を知れば、

本質的な自分を知ることになり、

それを知れば、どのように生きるべきかと考えるようになり、

せっかく生きるなら、最も良い生きかたを目指すようになり、

人格の完成へ必然に向かう、

と考えられます。


自分という個は、特定のイメージで、

宇宙という全体は、不変の事実です。 

個(自分)が不変なる全(宇宙)の中に生きている、

自分の行動、発言、思惟を含め、

宇宙のなかにあるすべての現象は

どうのように生じているのか、

それを知れば、

知らないことによる不安、迷い、悩み、苦しみから解放されます。


良いことをすればよい結果がある、

などの自分の言動によって世界が変わります。

なぜ、その言動をしたのか、

その言動によってどうなるのか、

それが縁起です。

しかし、

これだけですべての縁起を知ることは難しい。

すべての言動を把握できないからです。

では、

全ては心から生じる、

と考えるとどうでしょう。

思うからそうなる、

思うから生じて、思うから滅する。

思わなければそうならないでしょうし、

あなたのことを思わなければ、あなたは存在しないとの同じです。

これも、

思うということの起源が不明ですから、

全てを説明できません。

そこで、

真理というものがあって、

全てはそこから生まれ、そこへ帰る、

とすればどうでしょう。

現実的には、宇宙があり、自分がいて、

いろいろなことを思うのですが、

真理の立場からみれば、それらは真理から生じている。

真理は永遠であり、生じたり滅したりしない。

例えば、

海という真理がある。

それは広く大きくすべてを包んでいる。

始まりも終わりもなく、ずっとそこにある。

そこに、迷い愚かさの風が吹いて波が立つ。

波はすべて違い、同じものは一つとして無い。

波は生じては消える。

迷い愚かさが無ければ波は立たない。

海が真理で、波が現実です。

そういうふうに考えます。

これは、真理という起源を想定するので抽象論であり、

やはりすべての全容は説明できません。


そこで、

宇宙にあるすべての存在や現象は、

それら存在と現象が、互いに関係しあって、

個は全に通じ、全体は特定の個に戻る、

宇宙の中に自分と自分以外がいて、

自分の中に宇宙がある(と考える)

自分と自分以外は、多くの条件と関係している、

という縁起が考えられます。

現実の何かは、それぞれ別々の存在ではなく、

他とつながっている。その実在がそのまま現象。

そのように、

縁起(ものごとの起こり、結果)は、

物から心へ、
 
心から真理へ、
 
真理は一つのものではなく、すべてが真理、

と、考えかたが変化してきました。


Ofuse箱 




[ 2020/06/29 07:10 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経の世界
『金剛頂経開題』には、

悟りとは、仏の五智に通達すること、

とあります。

この五智、

鏡のように、誤りなくそのままを映し出す智慧によって生活し、
区別差別なく、すべてを平等に観る智慧によって創造し、
よく見極める智慧で勉強し、
身体を使って行動する智慧によって仕事や遊びをし、
呼吸のような、ありのままの智慧によって存在しています。

いのちあるものは、これを本来具えています。

この五智によって、

僕らは、行動し、話し、思います。

五智は、

四種の姿を現します。

生きているという、ありのままのすがた
自分のために楽しむすがた
人を楽しませるすがた
人間、家族のひとりというすがた
自分というすがた

でも、多くは、

世界が本来仏であり、五智をそなえており、清浄であることを知らない。

世界も自分の本性は空であるけれど、

世界も自分も厳然として実在しています。

その世界こそ真実である。

その真実の世界は、五智によって、

イメージ
シンボル
文字や単位
ふるまい

の曼荼羅となって現れます。

この曼荼羅世界で、

仏に成るトレーニング、

仏の印、

仏の言葉と文字、

仏のはたらき

が休むことなく行われています。

それは

自分というイメージが存在し、

自分のシンボルがあり、

自分の名前があり、

自分の仕事があるのと同じ。


Ofuse箱 


※明日の朝、6時からライブ配信します。






[ 2020/06/26 12:34 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
餓鬼寸景
餓鬼はいくつかの経典に登場します。

『盂蘭盆経』では、

お釈迦さんの十大弟子のひとり、神通第一と云われた目連尊者が、

餓鬼道に堕ちた亡母を救うために衆僧供養を行なったところ、

母にも供養の施物が届きます。


『救抜焔口陀羅尼経』では、

やはり十大弟子のひとり、多聞第一の阿難尊者が修行中、

痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い焔口餓鬼が現れ、

「お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう」

と言います。

その苦難を逃れる方法・加持飲食陀羅尼をお釈迦さまから教わります。


これらに登場する餓鬼は、

醜い容姿で、飲食を摂ろうとしても炎となって飲食できない、
 
飢えと渇きに苦しむ醜い姿をしています。

その他、

訶梨帝母のように他人の子供を食べる鬼、
 
『大般涅槃経』に書かれている、人の血肉を常食する餓鬼、

『倶舎論』には、

容姿端麗で威厳があり、富楽で自在の力のある餓鬼もいます。

痰や唾を好む餓鬼もいるので、路上にそれらを吐いてはいけない。

現実世界では、

食欲旺盛な子どもを言うガキ、
 
色気狂いの色餓鬼、
 
守銭奴も餓鬼でしょうね。
 
いくらあっても足りないと思うのが餓鬼の心。

つまり、

自分とは違う客観的な餓鬼と、
 
人間の中の餓鬼(の性質、種子)があります。


中川先生は『輪廻と密教』で、

「故なく惜しみ貪ることが餓鬼道に転生する原因」

「今日の自分の生活を顧みて、

 他に対して度外れに物惜しみをしていたら、
 
 明日は餓鬼になる覚悟が必要である」

と書いています。 


しかし、

目連、阿難といった釈迦さんの高弟は、

諸行無常・諸法無我・万邦縁起を知らないはずがない。

そんな人が餓鬼の話などに悩むだろうか。

客観的な餓鬼の存在を信じるとは考えにくい 。

さらに、

『盂蘭盆経』では、

修行を積んだ十万の大徳衆僧に供養し、

その功徳力によって餓鬼道から救われるのだけれど、

そんなことは現実にできない。


それはさておき、

『分別善悪報応経』に、
 
餓鬼となる者とは、が書かれています。

それは、
 
貪って物惜しみし、施しをしない

邪見で因果をそしる

我がままで自分中心

他の施しを邪魔する

飢渇者を救わない

惜しみケチで施さない

他の名利をそしる



ですから、

餓鬼の苦悩から脱する修行は

布施(ほどこし)、持戒(いましめ)、忍辱(たえしのぶ)、
 
精進(はげみ、怠けない)、禅定(坐禅瞑想による精神安定)、

そして、すべては本来不生不滅であることを知る智慧。


おそらく、

餓鬼心の向こう側に、本来の仏性があります。

そこを見ること、仏性を信じること。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)

※27日朝6時からライブ配信します。







[ 2020/06/25 06:17 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
オン
おん かかかび さんまえい そわか(地蔵)

おん まいたれいや そわか(弥勒)

おん ころころ せんだりまとうぎ そわか(薬師)

おん おろりきゃ そわか(観音)

おん あみりた ていせいから うん(阿弥陀)

など、

「おん」で始まる真言は多い。

これはサンスクリット語・オーム(oṃ)の音訳。

漢訳仏典では、「唵」の字を使うことが多い。

サンスクリット語では、

eとoは長音なので、

オンという言葉は本来あり得ない。 

o-n-m(オーンーム)のように発音するのが正しい。

この字(梵字)、音声を観想することは、密教の修法で多く行われます。

『秘蔵宝鑰』の守護国経の引証には、
 
「汝今よろしくまさに鼻端において月輪を想い、

 月輪の中において唵字の観をなすべしと。

 この観をなしおわって、

 後夜分において阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり」

「善男子、十方世界の如恒河沙の三世の諸仏、

 月輪において唵字の観をなさずして成仏することを得といわば、

 この処(ことわり)あることなし。

 何をもっての故に、唵字はすなわちこれ一切の法門なり。

 またこれ八万四千の法門の宝炬・関鏁なり。

 唵字はすなわちこれ毘盧遮那の真身也。唵字はすなわちこれ一切陀羅尼の母なり。

 これよりよく一切如来を生ず。

 如来より一切菩薩を生ず。菩薩より一切衆生を生ず。乃至少分所有の善根を生ず」



『十住心論』第九には、

「唵字はこれ法身なり。法身はすなわち真如なり。

 真如法身ことごとくみな唵字の一声より出づ。

 いかにいわんや諸余の法門をや。

 まさに知るべし真言は一切の法の母たり。一切の法の帰趣なり」

とあります。

儀式などでは「オン」で良いですが、

瞑想の際には、

この字音は真如法身であり、

全てを生み出す母のようなものであり、

本来は「オーンーム」である、

と知っていたほうが効果的でしょう。



Ofuse箱 (よろしくお願いします)





[ 2020/06/24 07:09 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
食べ物雑感
路地物のキュウリやトマトが取れ始めました。

夏野菜は陰性でアルカリ食品

陽性(KよりNaが過剰)を消して、いろいろ身心に良いことがある。 

旬のものをどれだけ食べているかで、身心の現在と未来が決まります。

普段の食事、

旬の野菜、わかめ、豆腐の味噌汁、
 
豆腐は無添加、味噌は天然醸造

自分で漬けた漬物

もちろん、

化学調味液の類は使わない。

納豆、
 
よく練って、添付のタレは使わない。
 
化学調味料が入ると風味が台無し。


醤油の質は最も重要で、

どんな醤油を毎日使っているかで、

健康状態、精神状態、死に際の状態が変わります。

陽性は排毒されにくいので、

良質なものがいい。


食事は習慣ですから、

その人、その家庭の特徴があるでしょう。

それによって、

その人、その家庭の健康状態が特徴づけられます。

これから陽性な季節になります。

陰性な野菜をたくさん食べましょう。




Ofuse箱 (よろしくお願いします)








[ 2020/06/23 06:57 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
成仏は肉体の問題
仏教の最終目的であり、最高理想が成仏。

成仏は仏(ブッダ)に成ること。

ブッダは、budh(さとる、目覚める)+ta(たるもの)

何をさとるか、何に目覚めるかといえば、

法(ダルマ・dharma)を悟る、法に目覚める。

法とは真理。

その中身は、

四諦八正道十二縁起無自性空阿字本不生など。

それは何か、ということ。

これを頭ではなく体験するのが悟り。

般若心経を唱えるのではなく、

般若の智慧を体験するのが成仏。

悟ることで人格・人間性の完成があり、

簡単にいえば、自他のしあわせになります。

成仏には、

その到達に、即身(生きているうちに)と三劫(ものすごく長い時間)があります。

どちらにしても肉体が修行すれば悟ります。

『即身成仏義』には、

三密加持すれば速疾に顕はる 

加持とは如来の大悲と衆生の新人とを表わす。
仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、
行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。
行者、もし能くこの理趣を観念すれば、
三密相応するが故に、
現身に速疾に本有の三身を顕現し証得す。
故に速疾顕と名づく。

とあります。

自分の行い、言葉、思い(身業・口業・意業の三業)が

仏のそれ(身密・口密・意密の三密)と瑜伽相応すれば成仏、ということ。

三密修行すれば成仏できる。

三密修行は身体と言葉と心という肉体の修行、

よって、

成仏は肉体の問題です。


肉体があるから健康・経済・人間関係の問題があり、

悟りと迷いも肉体の問題。


密教の即身成仏は、

縁と条件によって生じるのではなく、本来仏の証明です。

成仏と云う結果が表れないのは、

拝む人の姿勢の問題。

本来素晴らしいものを持っているので、

努力工夫によって 、それを開顕する、ということです。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)




[ 2020/06/22 07:11 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
真言の唱えかた
『金剛頂経』に本性成就の真言について説明があります。

真言は自性成就の力を具すものであるから、

誦するだけでも、その通りになる、

と。

さらに、

自性成就avacittasiddhiの真言を誦すれば、

自心を観察するままに悟ることができるし、

或いはその真言の力によって、欲するままに成就できる義である。

即ちこれはすべての真言にも同様に当てはまるであろう。

とあります。

『大日経』には、

菩提(さとり)とは実の如く自心を知ることなり、

とあり、

自心を知るためには、六十心等の観察を経て、

長い年月の慈悲の修行の積集が必要と説かれますが、

『金剛頂経』では、

その永年の修行の替わりに、

真言を好きな回数だけ唱えればそうなる、
(自心の源底に到達する)

とします。

そのためには、

正しい真言を、

正しい意味を知って唱えなければなりません。


少なくとも、

普段、毎日唱えるものは、

意味を知って、正しい発音で唱えましょう。

そうでなければ、唱えても意味は無く、時間の浪費であり、

修行の自己正当化が生じるだけです。


多くの真言にある「オン(ओं oṃ )」は、

三つの発音、a,u,mに分かれ、

「a」は法身、「u」は報身、「m」は応身 の意味と、

『守護国界主陀羅尼経 』にあります。

同じように、多くの真言の最後にある「ソワカ(स्वाहा svāhā)」は

モニエルのサンスクリット辞典を引くと、
 
hail!
hail to! 
may a blessing rest on! 

と出ています。


僕が常に唱えている十一面観音真言は、

Oṃ mahā-kāruṇika svāhā
オーン、大悲なる御方よ、スヴァーハー。

大日真言は、

Oṃ a svāhā

阿の意味:本不生を観じながら唱えます。

その他、

発菩提心真言
 oṃ bodhicittaṃ utpādayāmi
私は菩提心を発す 

三昧耶戒真言
oṃ samayastvam
汝は三昧耶なり 

菩提心論等にあるように、

即身成仏に直接つながる五相成身観も、

次第のフリガナを追うのではなく

正しく意味を知って唱えるべきです。


oṃ citta prativedhaṃ karomo
我は自心の源底に通達せん
oṃ bodhicittam utpādayāmi
われは菩提心をおこさん

oṃ tiṣṭha vajra
立て、金剛杵よ

oṃ sphara vajra
広く周遍

oṃ saṁhara vajra
収斂せよ

oṃ vajrātmakóhaṃ
われ本性においてこの金剛杵に他ならず

oṃ yathā sarvatathāgatas tathā'ham
一切の如来たちがあるがごとくに、その如くにわれはあり

oṃ sarvatathāgata abhisambodhi dṟiḍha vajra tiṣṭha
            現等覚        堅固

修法の真言については『中院流の研究』

その他の真言については、
 
平河出版の『真言陀羅尼』に詳しく載っています。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)






[ 2020/06/21 09:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仏作仏業
普段は、

自分中心の個別心で暮らしているので、

貪瞋癡慢疑等が生じます。

それは、迷い苦しみ悩みの原因になります。

そこでどうするか。

ふたつのアプローチを考えてみましょう。


1、根気よく貪り怒り愚痴などをはらい、本来の清らかな心を認めようとする。
 
  病になったら薬を飲むように、自分を治してゆく。

2、貪り怒り愚痴などがあるのに気がついているけれど、

  本来の清らかで大きな心があるということを信じ、その信を不動のものとする。

  本心の広大清浄に座り続ける
  
  普段から病にならない心を保つようにする。

密教は2、の立場です。

初心者であっても、拝んでいる時は仏。

つまり、

修行して成仏するのではなく、

修行している時が成仏。

なぜなら、

本来そうだから。

拝んでいる時は、

仏が拝んで、仏が唱えて、仏が瞑想している。


『大日経疏』第一には、

真言行者は初発心の時において直に自心の実相を観じて本不生を了知するが故に即時に人法戯論浄なること虚空の如し

とあります。

勉強トレーニングしている中に、到達点がある。

その中に、心の平安と喜びがある。

乗り物好きな子どもが、それに乗ってよろこび楽しみ、

そして学び成長するようなかんじ。

毎日、
 
呼吸を調え、真言を唱え、瞑想する。
 
その時、私は仏。

大切なのは、毎日それを続けること。
 

Ofuse箱 (よろしくお願いします)





[ 2020/06/20 07:25 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
煩悩を観察する
修道上の障害に五つあり、五蓋障(ごがいしょう)と云います。

蓋は煩悩のこと。

密教辞典によれば、

1、煩悩障
全煩悩のこと

2、業障
業が原因で作った罪障

3、生障
以前に犯した行為から、仏道に入り難い障

4、法障
前世の因縁で正法を聴くことのできない障

5、所知障
正法を聴いても師資が和合せずに、般若波羅蜜を修し得ない障


煩悩という言葉は、

サンスクリット語クレーシャ(क्लेश, kleśa)の訳で、
 
身心を乱し悩ませ、智慧を妨げる心の働き

汚、漏などの言葉で表すこともあります。

その内容は、

貪欲:むさぼり
 
瞋恚:いかり 

愚痴:ぐち

が基本で、中でも愚痴こそが根本。そこから貪りも怒りも生まれます。

愚痴は無明とも云われ、栂尾先生は「おろかさのまよい」と訳しています。

具体的には、錯覚と妄想。

事実ではないことを事実のように考えること。

おそらく、

自分と自分のもの(だと錯覚している)への執着があるから生まれます。

如来蔵思想では、

本来清らかな心に、たまたまくっついた塵や垢のようなもの、

真っ白な服が、何かの染料で色づいたもの、

だから、

来客がいつかは帰るように、ずっとあるものではなく、本来あるものではないと考えます。

そして、

密教では、

まとわりついた煩悩ではなく、

その中に本来ある清らかで大きな本性を見ますので、

煩悩は有っても無くても関係ない。

月を隠す雲ではなく、雲の向こうの月を観ようとする。

なので、

人間の悟りを遠いもののように思うことこそ、煩悩です。

この子は本来素晴らしい子なのだけれど、

いろいろ染まったり迷ったりしている。

その染まり迷いではなく、

素晴らしいところを見れば、

染まり迷いはそのままで、いつか消えます。

夜が無ければ昼はなく

闇が無ければ明もなく

迷い煩悩が無ければ悟りもない。

上記五障を、その向こうに元々ある五智の功徳と観るのが密教の立場です。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)






[ 2020/06/19 10:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
五分法身
僕ら凡夫の身体は五蘊で構成されています。

五蘊は、

色・もの
受・感じ
想・おもい
行・はからい
識・心(認識)

ブッダの性質は五分法身

戒・すべてを平等と見ること
定・その観に住すること
慧・すべては平等で不二であると了解すること
解脱・差別区別の迷い執着から離れるから智慧を得
解脱知見・それを覚知する


密教では、この五分法身を五大としています。

地・個体
水・液体
火・エネルギー
風・気体
空・空間

『別行次第秘記』には、

仏法は(三昧耶)戒をもって地となす。

定心(精神集中による定まった心)の澄静なること水のごとし

全てが平等と知る智慧の火は、よく煩悩を焼除す

心垢を解脱することは風の吹き掃うがごとき

解脱すれば塵労すべて尽くして空のごとし

とあります。


迷中の僕らは、五蘊(モノと心)で構成されているけれど、

本当は、

戒(地)
定(水)
慧(火)
解脱(風)
解脱知見(空)

が本質である、

ということ。

Ofuse箱 (よろしくお願いします)








[ 2020/06/18 09:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
三密観
真言宗の修法のほとんどで、

最初の所作が三密観。

拝む人が、

身体の秘密、言葉の秘密、心の秘密を具える観想。

『秘蔵記』23字義に、
 
「この吽字をもって身口意に安置し、五鈷金剛を観じて加持すれば、

 すなわちよく無始以来の三業罪障を除滅すること

 金剛のよく一切の物を摧破するが如し」

とあり、

『略出経』第一に、

「すなわち、おのれが舌と心と身手の中において吽字を想え。

 即ち想え、その字変じて金剛となる」


『金剛頂瑜伽文殊師利菩薩儀軌』には、

「三業の金剛を成ぜんがためのゆえに、まさに二手と舌と心の中において、

 まさに五智の金剛を想うべし。この加持によってみな悉地す」

などとあります。

吽(हूं:hūṃ)字は、

一切諸法本不生(もとなきまこと)不可得(とらええぬもの)

の象徴。

つまり、

掌、口内、心に、

真理(生きる意味、存在とは何か、執着しない心)の象徴を観想して、

自分がそうであることを体験する。

至心に行えば、この三密観だけで成仏できるはずです。


普段の暮らしで

自分の行い、言葉、思いが、

俗か聖か

凡夫か仏か

自分のためか、みんなのためか、

そもそもそれらに違いがあるのか

そういうことを考えて、

なるべく聖の、仏の、みんなの見たかをしてみようとする。
 
生活のなかで、

トイレでもお風呂でも、悲しい時もうれしい時も、

そういう風に考えてみるのが、

日常の三密観です。



Ofuse箱 (よろしくお願いします)



 


[ 2020/06/17 09:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ふたつの真理
生じたものは滅する、

という現実、これがひとつの真理。

その生じたものは、

因縁によって生じて、

因縁によって滅する。

自分ひとりで自動的に生まれて死ぬのではない。

だから、

それらは常住唯一主宰者でないから自性がない。
 
自性が無いものは、生まれることも滅することもないから、

全てのものは生じることも滅することもない。

現実にあるのは実生実滅ではなく、

仮生仮滅、

というのがもう一つの真理。

これを空、密教では本不生と云います。

そして、それは不可得(認識できない、意識を超越している)です。

言葉にも、

仏(真実)の言葉(真言)と、

衆生が使う妄(の原因になる)言葉という区別がある、

全ての音声が仏の言葉(真言)、

という二つの立場があります。

もし、

全ては空という立場に立つなら、

仏無し衆生無しになり、

全てが仏という立場なら、

仏有り衆生有り。

俗から見るか、聖から見るかの違いですが、

これは感度の問題でもあります。

そして、

感度は鍛えることができます。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)





[ 2020/06/16 07:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夢と内臓の関係

穀菜食の舎メールサービス  
2020.6.16


 


夢と内臓の関係






[ 2020/06/16 07:33 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
仏心から仏身へのプロセス
真言密教などの如来蔵思想では、

元から決まっていることがあります。

・自性は清浄である、

・仏性がある、

・本覚(修行して悟るのではなく、元から覚っている)


多くの瞑想法では、自心に満月を観想します。

それは、

満月が悟りの、本来清浄な自心の、象徴だからです。

それが心の実相。

『Kosalālańkāra』 には、

月輪の如く凡そ心を説く

それをまさに月輪と見る場合、凡そ心は第一日の月のように顕現する。

それが今は修習力によって秋の十五夜の月の如く変幻する

とあります。

自心を見極めることにより、

心は月輪のように顕現します。

元から有るはずの悟りの心を開発すると、

それが仏の五智であるとわかります。

その五智が、

宇宙法界に遍満している真理(全ては一切如来=五智の現れ)と溶け合い。

つまり、

あらゆるものの本性は仏(イメージではなく、そのもの)なのだから、

自分もそうである、五智を具えていることを発見し、

五智を持つ仏の身体になります。

さとりとか菩提とか成仏が、

単に心の問題ではなく、自分と自分以外のすべてを瞑想することにより、

事実として現れます。

法界(仏の世界、真理の世界、悟りの世界)に住んでいながら、

それを自覚しない自分と、

自分以外の一切が、一切如来(五智)の顕在であることを、

自心内に証明します。

悟り(成仏)とは、

自心の源にある五智に達すること、

と考えて良いでしょう。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)





[ 2020/06/15 06:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
肉体に感謝する
密教の目的である即身成仏は

心のレベルではなく、肉体も仏になり、仏身円満します。

というより、もともと等流法身(とうるほっしん)という仏なのですが。

その、仏身である身体の中には、多くのいのちが活躍しています。

食時作法の『蟲食偈(ちゅうじきげ)』に、

我が身中に八万戸有り
一々各々に九億の蟲有り
彼の身命を済わんがために信施を受く
我れ成仏の時まず汝を度せん

身体の中に8万の家があり、

それぞれに9億の蟲が住んでいる。
 
ですから

72,000,000,000,000の蟲。

これは細胞と考えて良いでしょう。

その命を保つために食事をいただく 。

今後、自分が悟った時にはまず、彼らを救う、

という誓い。

この彼ら(汝)は蟲でもあり、食事の施主でもあります。



肉身を構成する細胞に対して感謝する。
 
その細胞のために食べるのであって、

自分のためではない。
 
この細胞によって修行できるのだから、感謝して当たり前。
 
そして、

自分が成仏すれば、細胞それぞれも功徳を受けるでしょう。 

もちろん、

生んでくれた親や、生活できる周囲にも感謝しますが、

自身である肉身の生命に感謝する、

仏身に感謝する。


Ofuse箱 (よろしくお願いします)












[ 2020/06/14 09:08 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
食中毒と食養

穀菜食の舎メールサービス 

食中毒と食養

Ofuse箱 (よろしくお願いします)





[ 2020/06/13 08:44 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]



 |  ホーム  |  次のページ >>